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鬼ノ目 六節・旧国、溺るる虚像  作者: 三Ⅲ三Ⅲ三
前篇・蒙霧升降、風知草(全25話)
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十五話 対話

 (はな)から分かるはずがないと突っぱねられてしまうのは、存外傷つくものの(よう)だ。

 差し出した椀がまだ熱を持った中身を撒き散らかし、床に転がっていくのを横目に、これは骨が折れそうだと、これからの両力を見越してそれに見合った対価がなにもありはしないのを知っているが為に少々の嫌気が差した。

 けれでも彼を――(まば)らな黒い斑点(はんてん)模様を顔に散りばめた青年を拾おうなどと口にした張本人は、男の(つか)えている相手だ。(はた)から見た時、主従と呼ぶにはどこか妙な関係やもしれぬが、()がりなりにも身近でその世話を焼いている。多少なりとも自負するものが男にはあった。

 だから、だからこれは日頃から何に対しても特別関心を示すことのない、図体ばかりが大きく育ってしまった幼子のような主人の、珍しい我儘である。

 主人の数少ない我儘を叶えてやろうと思えば、見返りを求めるのもおかしな話のような気がしてきて。

 でも、得られるものが何もないなんて事は間違ってもない。だって彼は、昔から男が気になっていた、男のように視える者が限られその存在さえあまり知られていない希少なソレを纏っていて。これまでこんなにも間近で目にすることはなく、だから、だからこそこの貴重な機会を何があっても逃したくないという気持ちの方が何よりも(まさ)ってしまい。どうしても私情が首を(もた)げ始めてしまう。

 何も、なにもそれが悪いこととは思わない。

 主人の望みが叶えられ、且つ自身の好奇心を、長年の欲求を満たすことが出来るのだから。男からすれば一石二鳥どころか一石で三鳥は得られたようなようなものだ。

 だから、だから間違ってもここで、この場で彼を(のが)すようなことはなにがあっても駄目だ。

 (かが)み、その手を取る。

 目線を相手よりも低く()げて、その場に座り込むように足を崩れば、そうそう簡単に立ち上がったりも出来ない。こちらの敵意が――悪意や手を出そうという意志がないという(むね)を伝えた。

『えぇ……そう、ですね。

 貴方が仰います通り、私はまだ貴方の事を何も知りません。ですのでこの様に拒まれてしまったとしてもそれは仕方がないことです。気に病むことではありません。また、私がそれに腹を立てたり、頭ごなしに怒鳴る……、ましてや手を挙げるなどというのは言語道断(ごんごどうだん)。なにがあっても決して、致しません。

 ……ですので()ずは、ご興味はないかもしれませんが手始めに私の事を少し知ってはいただけませんでしょうか?信用がならない相手に一方的に自分のことを話すなんて、誰だって嫌でしょう?』





 蒙霧升降(ふかききりまとう)風知草(かぜちぐさ) 十五話







 弥代をどうにか抑えてほしい、と相良が春原に持ちかけてきたのは昨晩の事だった。

 食事を終え、立ち上がり部屋を後にすると思った矢先の出来事で、まだ食べ終えていない、ましてや箸を持ったままの春原は瞬時に動くことが出来ず、止めることが出来なかった弥代の拳は、相良の右頬に沈んだ。

 食事時に箸を持ったまま立ち上がるのは許されていない。突然の出来事であったために反応が遅れたのもそうだが、慣れぬ配置の御膳の、どこに箸がどちらの向きで置かれていたのかを思い出すのにぐるり一巡(いちじゅん)

 お尻を揃えて左に置き直した時には、同席をしていた弥代の知り合いを名乗る女が、相良に馬乗りになりこれから(まさ)に殴り掛かろうとする弥代を羽交締めにしてどうにか遠ざけようとしている状態で。

 慌てて(あいだ)に割り込み、女同様に弥代を止めようと立ちあがろうとしたのだが、着慣れた生地の柔らかい袴と打って変わった、真新しい着丈の長い着流しに足元を取られ、春原は派手に()けた。

 しかし、転けながらも伸ばした腕は、その指先は相良に馬乗りになっている弥代の、袴の裾をしっかり掴めており。畳に伏せったままではあるが遠慮なく強く引けば、大きく体勢を崩した弥代が女共々、春原と同じように畳の上に転がった。

『なにしやがんだテメェはっ!』

 さすれば、その矛先は自分へと向けられる。

 春原が動くまでの僅かな間に、既に何発か拳を受けたであろう相良は首から上を殴られたことで一時(いっとき)、意識を失ってでもいるのだろうか、状況が変化してもピクリとも動かない。下手に逆らったところで受けるものが多くなるのなら手っ取り早く抵抗しない姿勢を取るのは賢い選択なのかもしれないが、それは(いささ)か面倒事を丸投げされたように感じられ、今この時に決して限った話ではないが、春原は弥代を止める上手い手立てが浮かばず、痛みに鈍く、怪我の治りが早い自身が相手の気が済むまで大人しく殴られればそれでどうにか事を収められるのではないか、と唯一の方法を見出すのだが、それはあまり意味を成さなかった。

『……まさか宿の方に止められるとは思いませんでしたね。

 すっかり熱を持った徐々に黄色に変色しつつあるある頬に、水の張った桶に浸したことでよく冷えた手拭いを()てがい、そんな言葉を相良が(こぼ)したのは、相良が目を覚ますまで春原と一緒に様子を見ていた、知人の女が席を(はず)した(あと)だった。

 春原からすればただ弥代の知り合い、というだけの女で、自身が特別口を利かねばならない理由が見当たらずに率先して関わろうとはしなかったが、日中の荷馬車での移動の際は度々(たびたび)相良と言葉を交わしていた。

初対面であったというのに随分と親しげに話すように映り、てっきり彼女を(まじ)えて話を切り出すものかと思っていたものだからそれが少しばかり意外に春原には見えた。が直ぐに、相良という男は顔は広いというのに、込み入った話を多くには聞かせない男であることを思い出し、合点がいった。

 話す相手を自分に絞った、ということはその話題は限られた者の耳にだけ入れば、それでいいということだ。

 そして、恐らくは春原がその考えに至ったことを見越してた相良から、ですので、と言葉を添えらられて頼まれたのが、弥代をどうにか抑えてほしい、といった要求だった。

 春原は、弥代が何故里から一時(いっとき)離れなければならないのか、その事情というものをある程度理解している。また、自分と相良がその(かん)の弥代の同行を見届ける(にん)を扇堂家から(うけたまわ)った、この旅路が決してふざけたものでない事を重々承知している。

 これらは今後、弥代が榊扇の里に居座り続けることが出来るかどうか、というのにも深く関わってくる重要な話だ。先日の惨事による、爪痕や噂というものが薄れるまでの(あいだ)、その正体をほぼ知る者はいないだろうが、主犯の身内として知られている弥代を里から遠ざける事は、弥代の為を思えば必要なことなのだ。

 春原からしても弥代が一つの場所に居続けてくれることはこの上なく都合がいい。またいつぞやのように何処へ行ったのかも分からぬ中、手掛かりなく宛もなく探し続けるのはとても難しい。

 ただ、弥代の傍にいれればそれでいい春原からすれば、もし仮に今後弥代が榊扇の里を出ていくとなれば始めからそれに同行し、離れてしまわないようにすればそれで済みそうでもあるが、弥代はあまり春原に距離を詰めらられるのは昔と違い(この)んでいないらしく、見失ってしまい見つからなくなる可能性を考慮するのなら、やはり里にいてほしいものだと思うのだった。

 その為には、此度の旅路を円滑に、問題なく過ごす必要がある。それには、自分よりも多くのことを知っている相良の言葉に耳を傾けるのが大切だ。

 言われずとも、相良がこの旅において鍵となることを春原は理解している。自分の返事次第で弥代はひどく子どものようにヘソを曲げて気付かぬ内に何処かへ消えてしまうなんて事はこれまでも数えきれないほどあった。弥代は日頃、春原に対し自分の考えを汲めと無茶なことを言ってくることが多いが、何度言われたところで直接言われたわけでもない心の内を読んで汲むことなど、どれだけ試そうとも出来た試しはない。

 なので、相良という存在は何よりも大切だ。

 相良は弥代が汲め、とそう口にするまでもなく、まるで相手の考えを読んだかのような言葉を一人で口にする男だ。なにもそれは相手が弥代に限ったものではなく、弥代意外――(まさ)に昨晩の、こちらの思考を読んだかのような丁度いい頃合いに口を開く。

 到底、春原には真似出来ぬ芸当だ。

 ただしかし、そんな相良と弥代は相性があまり良くないのだろう。居合わせたその(ほと)んど、その数はそれほど多いものではないものの、都度(つど)二人は大なり小なりの口論に発展することが多かったと記憶している。

 だから春原は、相良から頼まれたのであれば、その通りに動き、そうして弥代を見ねばならなかった。

 そして、今――



 昨晩とは違い馬屋のある手頃な宿がないから、と宿の裏手の雑木林の一画に一晩停められることとなった荷馬車。

荷台を引く二頭の馬は手綱を外され、近くの水場で大人しく過ごしているらしく。日中いつ間にやら寝入っていたらしい弥代は起こすことなくそのままにし、陽が沈みきって暫くが経ってから、相良は春原に弥代を起こして焚き火をするこの場所まで連れてくるように、と頼んできた。

 春原よりも器用で出来ることの幅が広い相良が頼むのだ。春原が断る理由なんてどこにもない。言われたままに素直に停めた荷馬車の元へと行き、起こすようにと言われた弥代を連れて相良のいる場所に連れて行こうとしたのだが、弥代は荷馬車から少し離れたところで、春原の膝丈ぐらいはありそうなぐらい伸びた雑草に、まるで埋もれてしまうかのように膝を抱えて(うずくま)っていた。

 腕を、掴む。

 袴であると足が長い草は運悪く内側に入り込んで肌を掠め、ぞわぞわとした感覚に襲われることもあるものだから、あまり足の長い雑草を掻き分けるのは得意ではないのだが、それでも相良に頼まれた手前、春原は弥代を連れていかねばならない。

 少しの我慢をして、直ぐに済むようにと強く引けば、意外にもあっさりと蹲ったままであった弥代はその場で立ち上がり、そうして春原の腕の中に大人しく収まった。

 それは大して、珍しいことではない。

 これまでも春原の腕に中に弥代が収まることは、春原の覚えている限り幾度かあったはずだ。たとえばそれは、先日の七月の花火の晩――かの存在が亡くなった晩であったり。たとえばそれは、駿河での一件で意識を失った弥代を抱えねばならない時であったり、それは屋敷での打ち稽古の際に当たりどころが悪く気絶している処を介抱しなければならない時だったり、それ、は…………

 これまで幾度もあったはずだ。

 だというのに、これがこれまでで一番、軽く感じた。

 ぐすり、と鼻を鳴らしたような音がする。

 暗く、伸びた枝木で空の大半が覆われたかのような夜の雑木林の中では、姿を見つけることは叶っても、その表情までを窺うことは難しい。

「相良が、呼んでいる。」

 だから春原はただ一言、そう目的を口にした。

 少しだけ強引に、支えがなくては今にも倒れてしまいそうな、そんな小さな体を引っ張るようにして歩みを進める。

 それは先ほど軽く感じたのがまるで気の所為であったのかと思えるほど、直前の自分の感じたものを否定したくなるぐらい重く、重く感じる行為で。

 だから、だから春原は少しだけ目を薄めた。

 これは恐らく、今の自分にとっては余計なもので。目を、逸らすべきものなはずだ。






「弥代を、連れてきた。」

「ありがとうございます、春原さん。」

 春原がこの場を離れて戻ってくるまでにそれほど時間は掛かることはなかった。

焚き火用にと見繕っていた枝木の、ないよりはマシだと寄せ集めた心持たない、ほんの少し力を込めただけで小気味良(こきみよ)くポキリと音を立てて折れてしまう。それを火中(かちゅう)に放って火が移り、炎にすっかり包まれきってしまうのを見届けてから()もない頃だ。

 原形が分からなくなってしまう、あるいはあっという間に燃え失せてしまうのではないかと予測を立てていたのに反し、随分と早い戻りだ。

 炎に包まれても、それでもまだ輪郭を辿ろうと思えばそれは叶いそうなもので、やはりあまり時間は経っていないのだろうと思う。

 春原から、彼に大人しく連れて来られた弥代に目を遣れば、案の定と言った方がいいのだろう、ひどい顔をしている。寝て起きて顔を洗っていない顔にしたって、もっとマシなものである筈だ。

 だが、

(落ち着かれて……いますね。)

 弥代の傍に立つ春原の(それ)はいつだって落ち着いている。時折、水底の景色が大きく崩れるかのように激しく揺れることはあっても、時間が経てば元の落ち着いた揺れ方をする。それと比較するのはあまりにも話が違うだろうが、それでも昨日(さくじつ)の日中の様子やここ最近の酷い有様(ありさま)を思えばとても安定している。

 あまりの荒々しさに、触れることは出来ない、掴むことなんて出来ないと頭では分かっているのに、指先を(かす)めでもすればチクリと痛むのではないか、と。ついそんな考えが過ぎってしまうほどだった。

 狙い通り、という表現は適切ではない。こうなると確証があったわけではないし、どうなるか経過を見たかった、その結果が偶々功を奏したというだけの話でしかなく。この結果に至れると確信があるだけの数を相手にしてきたわけでもない、この状況の者と直接相見(あいまみ)えることになるのは、これがたったの二度目だ。

 たった一度経験しただけのそれはあくまで参考になるかどうかという程度でしか捉えない方がいいと、あまり期待はしていなかったのだが上々(じょうじょう)といったところか。

 現状を素直に喜べばいいのか、想像以上の展開の早さにまだはっきりと見通しが立っているわけではない自身の読みの浅さに(あき)ればいいのか判断が難しくはあるが、それで一々一喜一憂する程の余裕などというものはない。

 今はただ……、ただ目の前の相手に正面から向き合わねばならない。そしてそれには申し訳ないことに彼はこの場に似つかわしくない。

「春原さん、私と弥代さんの二人きりで話をしたいのです。席を外してはいただけませんでしょうか?」

「…………どれ、くらいだ?」

「私が貴方を呼ぶ、その時までです。場所は――、」

 こちらから提案をしようと候補を上げようとしたのだが、相良が一つ挙げるよりも足早に、まるでこの場から性急に立ち去りた()な様子で彼は、春原は(きびす)を返し弥代を連れてきた方――雑木林の中に吸い込まれるように立ち去った。

 あまりに珍しい挙動であるがために、ついつい腰を浮かせて何かあったのかを問いたくなるも、今はそれが出来るような状況ではない。

 目の前の、今向き合わねばならない問題を解決した(のち)ゆっくりと彼には(たず)ねればそれでいいだろう、と相良は自分にそう言い聞かせて、そうして春原が離れたことで一人ポツンと取り残された弥代を、やっと一対一になって見据えた。



 それは、どうしても自分の悪い癖なのであろう、と相良には自覚がある。けれども、どうしても他の者に視えないものであるが為に、それを目の前にすると、自分なりの言葉でどうにか納得のいく形に納めようとしてしまう。名なんて(だい)それたものを与えるのではなく、まるで、と何かに喩えようとしてしまう。

 それを纏う者の存在自体が稀少である為に、だからあまり喩えることそれそのものが得意というわけでは勿論ないのだが、かつての斑点模様の彼を狼の様、だと(そういえば、昨日今日を共に過ごし世話になっている彼女の正体が(まさ)に狼であるそうだが、彼女は狼というよりは人に長いこと飼われた犬のようにしか相良には視えない)捉えたのと同じ、ように。

(愛玩動物として親しまれた時代もあったと、耳にしたことがありますね。)

 江戸の頃よりも身分制度が厳しく、その落差(開き)が激しかった時代には上流階級の(あいだ)で可愛がられることが多かったと、それに似たものを感じずにはいられない。

(いえ、本当にそうでしょうか……?)

 相良の知った話ではないが、相良が信頼を、特別な情を寄せている薬師(やくし)が言うには、二十年以上前の扇堂家において、今は亡き本家の娘より愛猫(あいびょう)のような扱いを受けていた時期があったそうだ。それを踏まえればやはりそう見えてきそうなものだが、今の彼女――弥代は飼い猫というよりは捨てられた猫のよう。

 生まれた時から人の手によって飼われていた為に、生きる為に自然と身につく筈の、空腹に喘ぐことなく獲物を狩る(すべ)さえも分からずに、いきなり野に追い出された、行き場も何処にもない、雨の中ずぶ濡れになって身を縮まらせた、痩せこけた仔猫のようだ。

 ほんの少し……本当に少しだけ、そんな状態に視える弥代を前に、相良は申し訳程度の罪悪感を抱いた。何故なら今の弥代の状況は、弥代の心を一度全て折ってしまった方が手っ取り早い、とそう考えて選んだ言葉で追い詰めた結果だからだ。(そう考えると、纏う気の方が一緒になって落ち着いたのはまぐれや奇跡として捉える方がやはり良いのかもしれない。この手のものに自信はあるだけ足枷になりかねない。)

 相良は、敢えて弥代を突き放すような態度を取った。それでいて、弥代が一人でどうにかしようのない提案を持ち掛け、それで考えを、思考を埋め尽くしてしまうように導いた。余計なことを考える余裕を無くし、ただ自分をそんな状況に追い込んだと言って過言ではない相手を、相良に目を向けさせるように仕向けた。

 それでいい、そうでなくては困る。

 かの存在の(それ)を弥代が纏うようになってまだそれほど時間は経っていないが、それでも時折、誰とも話していない(ひと)りの時になると、無意識であろう唇が小さく動いていた。

 音はないのだが、間違いなく紡がれるように動く音の予測はひどいもので。それがたとえ人ならざる存在であろうとも関係なく、子どもが口にしていいものではなかった。

 そうである。

 だから、だから相良は初めからそれを、それを出来ることなら弥代から取り除いてやりたかった。

 昔の自分が、あの青年にしてあげたのと同じように、確証もなにもない、たった一度の成功に自信を持つことなど愚の骨頂で、思い上がるようなことは間違ってもしてはいけない、と。そんなのはいつ足元を掬われたっておかしくない、もっと慎重に、もっと時間を掛けて確実に、そうしてどうにか手を打てばそれでいい、と。そう、そう在れればどれほど良かったことだろう――か。

 そんなことは嫌というほど分かっている。

 自分という人間の浅はかさも、愚かしさに傲慢さも、それら全て、相良は分かっている。

 野放しにしていた。直接関わるのはこれが初めてではないというのに、まだ大丈夫だろうと勝手に決めつけ、そうしてなるべく見ないように距離を取っていた。

 相良は気付いていた。弥代が、弥代が少しずつ勝手に相良に距離を詰めようとしているのを。でも、それは、それは相良にとってはどうしたって受け入れることが叶わないものだ。勝手な妄想でしかないかもしれない、とそんな自覚は当然ある。けれども、それでも弥代のその在り方はどこか……どこか覚えがあるのだ。見覚え、ではなく、もっと…………もっと、ずっと身近な、そう、喩えば、それ、は――――――










 ――志朗(しろう)

 自分のことをその様に呼ぶ大人は、彼にとって祖父しかいなかった。

 いなかった、というと何だかそれはそれで少しだけ寂しい気がしてきそうだが、そういうわけではなく、ただ長く傍にいる、共に過ごす大人が祖父以外あまりいなかった為に、自分は祖父の孫として呼ばれることがただ多かった、というだけの、そういう話だ。

 彼は、それが嫌であったなどと、決してそんな事はなく。(むし)ろ祖父が、この世で祖父だけが自分のことを名前で呼んでくれるのがどんな事よりも心を満たしてくれた。

 たとえそれが、実の孫に子がされていい範疇を越えた行為を()いる為の、二人の合図のようなものであったと、しても。

『――子に、()いる?』

 世をあまり知らずに育ったという子は知っていることも限られる。

 こんな無知な子になんてことを話しているのか、という自身に対する呆れを(いだ)きつつも、しかし分別(ふんべつ)もまだしっかり理解しきっているわけではない、良し悪しがどのような事かもこれから学んでいくであろう、体ばかり立派に育った不釣り合いな彼になら、まぁこれぐらい(ぼか)して伝えるぐらいは許してほしいものだと、相良は自分の中で結論づけた。

『そうですね、たとえばこの世には金があります。物を買うのには金が必要、とそんな誰もが知っている常識がある中、金はないのに腹が空いて仕方がないからと、大人が子に対してしてはいけない事を任せる、それが、()いる、といま私がお話しをしたのに近い意味でしょうか?』

『でしょうか、って……、なんでアンタが聞くみたいな事を言ってんの?』

『ふふっ、それは私も全てを知っているわけではないので、誰かの考えを参考にして、そうして確固たる答えにしていきたいと、そういう思いの現れでしょうか?』

『また聞いたッ⁉︎ 俺なんかに聞いたって知るわけねぇだろう、わっかんねぇよそんなの‼︎』

 けれども、そう相良が結論づけたばかりだというのに、学ぶ機会に全く恵まれずに、劣悪としか言えない環境で(おとし)められながら生きてきたであろう彼は、意外にも流れのようなものを読むことに長けており、言葉の意味を理解しきることはなくとも、相良が言わんとしているそのふんわりとした部分にどうにか必死に喰らいつこうとするかのように、飽きることなく言葉を返してきた。

 といっても、その言葉は幼く、幅のあまりない(ほと)んど同じ言葉が繰り返されるばかりの可愛らしいものだ。

 初めはそれこそ獰猛(どうもう)な狼のように自分の目には映ったものの、ただ幼い頃から特別体格に恵まれているだけの子狼のように次第に視え始めている自分がいることに気付き、ついつい相良は堪えきれずに笑ってしまった。

 (いや)、決して……決して笑えるような話ではないのだが。

 そうだというのに何故だろうか、ほんの少しだけ救われたような気持ちに相良はなった。

 何も知らない、まだ知らない事の方が多い子どもという存在は、存在そのものがある意味で救いだ。どうか折れることなく、悪い大人の手によって未来を絶たれることなくすくすくと育ってほしいものだと願わずにはいられない。が、そんな願いというものもただの独りよがりで、悪い大人に育ってしまった自分の押し付けに他ならないことも、相良は重々承知している。

 だから何があってもそれを口にすることはせず、静かに……静かに願う。

 線引きを、間違えることはなく。踏み込みすぎずに距離を保つ。けれども、それでも時折、こちらが幾ら気を配っても、易々と、ごく自然に当たり前のように、ふと手元に掛かる影に気付き振り返った時には真隣にまできて距離を詰めている存在がいるのだ。

 相良は、自分は顔が広い人間であると思っているがその実、懐に招くことが出来る数は限られている、とても心の狭い人間であると自覚がある。

 今の相良の其処は、既に限界でいっぱいいっぱいだ。これ以上、これ以上新しい誰かを受け入れるなんてことは、気を許すなどということは出来そうにない。

 けれども、でも弥代という存在は相良にとって、相良が形ばかりの主従関係を結ぶ、主人として曲がりなりにも仕えている気になる春原という男にとって何よりも欠かせない存在だ。

 だから、だから手を取ろうとする。

 かつての自分があの青年にしたように、二度目も上手くいくなどという確証は一切、どこにもありはしないというのに、あまりに自分らしくない都合のいい結果を馬鹿みたいに想像、して。

「それでは弥代さん。

 少し……、私とお話しをしましょうか?」

 そうして、相良は弥代を見た。

 

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