十四話 提示
思ってもいないことを口にするのも、慣れたものだ。
嘘も方便という言葉がある。本当のことだけを正直に選んだところで、得られる結果は必ずしも良いものとはならない。そんなのは悪事を知らぬ幼子だって無意識の内に身につけるものだ。損をせずに、ある程度賢く生きていく上で、時には必要になる手だ。
しかし、ただ得る結果を良くしたいだけなら嘘を選ばずとも、もっとより良い手があったはずだ。努力を怠った傲慢な者ほど追い詰められた、後がなくなった時ほど多く嘘を並べるものだと、相良は考える。
だから、だからここに来て嘘を選ぶ自分は……、まぁつまりはそういうことなのだ。
「私と春原さんは途中で帰らせていただきたい、と。そう、考えております。」
蒙霧升降、風知草 十四話
金がない、というのは本当のことだ。
長旅において大金を持ち歩くことはないのは分かっていた。わざわざどの道順で、などと指示までされたのも考えるに、いくつかの両替屋を経由して、手形を用いて先々で必要に応じる。
そういった根回しまでてっきりされているものだと、そう相良は考えていたのだが、屋敷を発つ半日前、大主に呼び出された相良が渡されたものはなんとも心持たない、銭差に通された百緡が五本――五百文のみ、であった。
食事の用意まである旅籠で、一泊一人を百文。食事の用意がない、薪を買わねばならない木賃宿であれば一泊一人高くても二十文が相場となる。。
差し出された五本の百緡を見て、自分の目の前にいる相手が誰であるかを忘れたかのような顔をしてしまったが、致し方のないこと。
腹を括り、一緒に用意された、恐らくは動物の皮を鞣して造られたであろう上等(物によっては、袋だけで五百文以上の値がつきかねない)な袋に、相良は大人しく銭を収めた。
そこからは相良の予測に近い、両替屋ではなく随所にいるという扇堂家と縁のある家々、あるいは屋敷の遣いの者から渡される。榊扇の里から京を目指すのに東海道ではない、少々手間となる遠回りを、甲州街道を介し、中山道を進むように、そういう意図があった上での指示だったのだが、里を出たその日の内にそれは難しくなってしまった。
「今や里の、屋敷周辺における立入も解除され、それに伴い里への出入りの制限もなくなった状況です。半月程滞っていた交易が再開され、人の移動も増えていることでしょう。榊扇の里は五街道の一つが組み込まれている、商人の行き来が欠かせぬ地です。
そんな中、弥代さんを連れて里の近くまで足を運ぶ……など。
貴女を一刻も早く、熱りが冷めるまでの里から遠ざけねばならない、それを見届けねばならない命を受けているというのに、どうしてそんな事が出来ましょうか?」
「それっ……は、」
箸の握り方が大きく歪む。いつまでもそんな持ち方をしていれば最悪箸が折れてしまう。宿屋と顔馴染みというわけでもない、次にまた世話になることはない店ではあるが、馬屋のある旅籠は限られていると、昨晩に絹が話していたのもある。幼いわりに大人顔負けのような振る舞いが出来る立派な彼女の顔に、泥を塗るようなことはしたくなく、こちらを分かりやすく睨み付けてくる弥代に、箸を手放すように促す。
「まぁ……そう、ですね。
……いえ、これは私の落ち度です。この顔ぶれの中で一番歳上である私の気の緩みが招いた結果です。ですので、貴女にはご迷惑をお掛けしてしまいます。申し訳ございません、弥代さん。」
目配せをした春原が、静かに弥代の隣に腰を下ろし、促されたことで緩んだばかりの、その手の中から箸を抜き、御膳の上へと戻した。
それを見届けてから、また一つ話を相良が進め、そうして軽く頭を下げる。と、こちらが頭を下げるだなんて全く考えてなかったのだろう、弥代が分かりやすく驚いたような声を漏らしてみせた。少しだけ傷つく。
が、ここで話は終わらない。
これだけではまだ、弥代はどうして相良と春原が里に戻るか、という話を持ち出されたのか、その経緯には至れるわけがない。予感し、目星がついた上で一瞬怒りを露わにはしたが、どうせなら照らし合わせを行った方が優しいだろう。否、優しさなどではない。どちらかといえばこれは……そう。
選択肢を狭めてやっている、だけに過ぎない。
「では、私と春原さんが里へ戻ると考えたか、その背景へと、話を進めましょう。」
言ってしまえば、弥代はただ暫くの間は里から出ていけ、とそう言われただけだ。
一刻も早く、出来るだけ弥代が弥代であるとその正体がバレてしまわぬように。その為に誰もが寝静まっていると思える夜半に屋敷からの移動を余儀なくさせられたし、“色持ち”の中でも明るい青い髪は目立つから、と先日の駿河において使ったのと同じ、薬師お手製の練り粉で黒髪に扮した。
相良の言う通り、里を出て暫くして西門の周辺に店を構えていた旅籠屋からは、里への出入り規制が解除されたと噂を耳にしたのか、挙って門を目指す者が多く見受けられた。人はあまり他人に興味がない、なんて聞いたことがあるが、“色”という視界に入っただけでついつい目を惹いてしまう“色持ち”のそれは、どれだけ大人しくしていたって悪目立ちしてしまう。
斯くいう弥代だって、里での暮らしの中で幾度も、榊扇の里はその性質上ほかの地で迫害を受けた“色持ち”が逃げるように移り住んでくることが多いから“色持ち”の数は多い、と頭では分かっていても、いざ目にする機会があれば次にすれ違う時にも、この前に見た相手だ、と分かってしまうぐらいで。黒髪黒目で色を持たぬ者が圧倒的に多いこの世界においてそれは、それは誰も責めることのない、ごく当たり前の感覚なのだ。
だが今は、今は特に目立つ髪は先述の通り、伽々里が用意してくれた練り粉で色を誤魔化せているし、瞳に至っては笠を深く被ればそれでどうにかなる。また練り粉にしたって三日四日で色が落ちきるのは身を持って知っており、それを見越した彼女からも一つや二つでなく六つ渡されているのでいくらか余裕はある。
自分では自分の髪色がどんな状態になっているかを知ることは出来ないが、間違った使い方はしていないはずだし、たった一日でそんなに粉が落ちているとは思えない。でももし必要ならまた予備のそれを使って、それでしっかりと黒髪を装いそれで……それでどうにか元々扇堂家が持ち掛けてきた道順とやらに、それ通りに進めばそれで、それで良いんじゃないか、と弥代は渋った。
なのに、
「では、私と春原さんが里へ戻ると考えたか、その背景へと、話を進めましょう。」
相良は、聞く耳を持たなかった。
金がない。金がなくては旅籠を利用することは疎か、満足に食事をすることも叶わない。
相良は弥代が人の身ではないことも、相良がそれを知っているということを弥代が分かった上で、そんな当たり前のことを口にする。
「飲まず食わずで人が過ごせる時間など高が知れています。持ち合わせがそれほど無いなか、私共二人がそのような事に、貴女の為に時間と労力を割くのは、あまりにも馬鹿馬鹿しいのです。」
「……馬鹿馬鹿、しい?」
「えぇ、だってそうでしょう?
私共はあくまで扇堂家の、大主様より依頼を受けて貴女と共に里を出たに過ぎません。里から出ていくように、と追い出されたような貴女と違い、私共には帰る場所があります。だから、意味がないのですよ。」
そうして、相良は続ける。
「何より、何らかの不都合があった場合には私と春原さんは里に戻っても構わない、と大主様より仰せつかっております故、何の問題はありません。
好き好んで饑文字い思いなどしたくありませんし、昨晩貴女に振るわれた暴力、……あんなものを何時また振るわれるかも分からない状況に怯え震えながら、共に過ごさねばならないなど、考えただけで何とも気が滅入ってしまいます。
信頼などというものは築くのに時間は掛かるものですが、崩れるのはあっという間のことです。三度までであれば許されるなんて、そんなのはただの方便に過ぎません。もし、そのようなお考えがこれまであったのでしたら、それは今後の為にも止めておいた方がよろしいかと。」 強く、突っぱねられたような気持ちになる。
ここまではっきりと、直接言葉にして言われてしまえば弥代は何も言い返すことは出来ない。否、そもそも向けられた言葉の、その意味を受け止めることに今は頭が必死だ。でも、さっきまで渋っていた気持ちが、向けられた言葉のその全てによって掻き消されてしまった。もう微塵も浮かばない。
別に……、別に許してもらえるなんて思ってたわけじゃない。ただ、ただちゃんと謝ろう、と。昨日は本当にどうかしてて、気が参っていて、ついカッとなって、それで、それでただ手が出てしまっただけで。今日……そう、今日はこれまでと、最近を思えばとても調子がいいから、だから、だからこれまでの色々と迷惑を掛けたことだとか、そう、この前の夜に下穿きを泣き噦るばかりで殆んど何も出来なかったのを代わりに洗ってくれた事や、着付けが難しくて手を貸してくれたことなんかも、それら全部……全部の礼をまとめて、まとめて出来そうな気が、今日はして。だから……だから、
「それで、お預かりしている刀、についてなのですが。」
俯きかけていた顔を緩く、弥代は持ち上げた。
「お預かりしている刀ですが、今の貴女に返すつもりは生憎と御座いません。ですので、私と春原さんが責任を持って里に―――」
掴み掛かろうとした腕が届かない。勢いが足りなかった?距離が遠過ぎた?違う、そんなので届かなかったわけじゃない。ついさっき自分の隣にやって来た、ただ図体ばかりが大きい男に同じだけの勢いで後ろへと腕反対の腕を捕まれたのだ。
それでも、それでも先に動いた弥代の方が優っていたのだろう。腕は届くことはなかったが、掴むつもりでいた指先は相手の、相良の胸元寸前を掠めた。図体がでかいというのは瞬時の動きが遅れることがあるのだろうか、こんな時小柄で小回りの利く軽い自分の体は便利だ。
しかし、今はそんなのはどうでもいい。そう、どうでもいい。それは、それは話が違うだろう、と言わんばかりに弥代は牙を剥く。頭に一瞬で上ったであろう、首から上が熱を持ちいくら熱く感じようともお構いなしに。冷静さを欠いて、目先の相手に喰らい付き、ふざけるな、と憤りが込められた言葉をそのまま口にする。
「おかしいだろ――それはッ⁉︎」
ゴホッ、と大きく体が揺れた。
随分と久しぶりに大きな声を出した気がしてならない。起きてからまだそれほど時間だって経ってやいやしないというのも理由の一つなのだろうか。が、たとえ理由が分かったところで関係がない、弥代には意味のないことだ。弥代はそんな、そんなことじゃ止まらない。
目元が熱かった。そこだけ火を灯したかのように熱を持って、内側から一気に込み上げてきたものが、はらりと落ちてしまいそうに感じた直後の出来事だった。
小さな熱は、押し寄せてきた他のモノによって呑まれてしまったのかもしれない。大切なものだったのに、大切にしたいと思えたかもしれない、そんなモノだったかもしれないというのに掻き消された。誰に?なんて分かりきっている、同じ、同じ男によってだ。
与えられた、ついさっきまでのモノとは全く異なる。強い衝動は、その正体は、分かりやすい怒りであることを弥代は、弥代は理解出来ているというのに、しかし今はもう姿を見なくなってしまった先のそれが、それが何だったのかが分からない。
分からない、分からぬまま、自分を背後から押さえつける存在に必死に抵抗をして、そうして今後こそ、やっとの思いで男の、相良志朗の胸倉に掴み掛かった。
前もって聞かされていた話がそのまま展開された。
この状況において、よくもまぁ普通に話を進められるものだと、周り諄いことがいっそ趣味であると言われた方がしっくり来そうな男に観心しつつ絹は大人しく彼の、相良の言葉に耳を傾けた。
それまで暴れていた弥代は、といえば背後から自分を羽交締めにする存在に力が及ばないことを理解したのか大人しく抱えらえたまま、意気消沈といった(それだけでなく足まで浮かせられていたのだから手も足ももう出せなかっただけかもしれない。体格が違い過ぎて見ているだけでも話にならない。)様子だった。
それから半刻も経たぬ内に、日が高くなりきる前に宿を出た。昨晩は見送った箱根の関所を通過し、無事に伊豆国の三島宿に辿り着いた。
今朝の相良の話だと、どれだけ旅に慣れた商人であっても日に八里進むのがやっとだ、なんて言っていたが、箱根宿から三島までは四里には満たぬ程度。なんなら本来であれば小田原宿から箱根宿、三島宿の箱根八里は一日で通りぬけたいものだ。やはり関所近くの宿の一泊あたりの相場というものは客の足元を見たかのように高くなっている事が暫々見受けられる。贔屓にしている顔馴染みの宿の部屋に空きがなかった時ほど悲しくなることはない、いい鴨に大人しくなる、それだけの話だ。
とはいえ一日八里と説明をしていた相良には悪いが、箱根宿から三島宿までの四里を僅か二刻と経たずに通りぬけてしまった。
それは勿論、荷台を引く立派な二頭の馬、左吉と右吉の頑張りによるもので。
伝馬や早馬として育てられたわけでもない二頭ではあるのだが、親だけでなくそのまた親の、更に親の代より代々人馬として育てらえていた恩恵であるのかまでは定かではないのだが、他の馬と比べるととても体力がある。体力だけでなく体もそこそこ大きく、どういうわけか一頭では俵二つなのが、二頭揃えば俵六つを抱えて走ることが出来るとんだ力持ちだ。
持ち帰る荷のない移動ではあるが、それでも人四人と荷台を考えれば中々な重量になるだろうが、それぐらいでは物ともしないといった二頭の調子に絹も気分が上がる。
ここ最近は榊扇の里に用事があったというのに里の中には入れずに門の外で足止めを喰らい、走りたくとも好きに走らせてやることも叶わなかった。中山道経由で京に戻ろうというのを断ったのも、北側の山岳域よりも比較的平坦な道が続く方が走りやすい、とそんな理由があったのやもしれない。
ともあれ三島宿に着いたとなれば伊豆国を抜けるのはあっという間だ。沼津宿、原宿はそれほど距離が離れておらず、左吉と右吉の手に掛かれば(いや、馬なので脚に掛かればの方がしっくりくる)小休憩を挟みながらにはなるが今日の内に吉野宿まで辿り着けてしまいそうな、そんな気がしてくる。
(まぁ、それはそれで良いのではと私は思うわけですが……、)
チラリ、目線を荷台の方に送れば、昨日よりなんて比じゃないぐらい険悪そうな空気が広がっていた。
今朝の宿での会話以外に、原因なんてあるわけがない。
相良は金が足らぬから帰るのだと、そんな突拍子もないことを言っていたが、いっそ帰りたくとも困難な距離、もしくはどちらかといえば京の方が着くのが早い、そんな距離まで連れていってしまえばそんな事も言えなくなってしまうのではないか、と絹は考えてた。
(十日……、十日もあれば左吉と右吉の脚なら全く問題はないでしょう。)
本当に周り諄く面倒臭い男なようだ。
仕方がないでしょう、なんて思ってもなさそうな前置きに続けて、相良が懐から出したのはたかだか五百文ぽっち。それは昨日の宿の一人分の代金だ。夕餉の際に宿代の話をする前までは多少払えるものなら払いますといった姿勢を見せていたというのに、話をした後、今朝に至っては似た姿勢の一つだって見せることはなかった。
絹は旅籠をこれまで通り利用するとして、三人は近くで野宿をする。手持ちの五百文は食事に回し、そうして我慢が出来るのは十日が限界だと、相良は話した。
(どこの店も食事が一律などということはないのぐらい分かっているでしょうに。)
言いはしないし、口を出す気もないが当然のように絹はそんな事を考えた。どれほど本気かは分からないが、言う側もそれなりの我慢を強いねばならないのは明白で。本当になぜ……何故そうまでする必要があるのか、と手間暇に到底見合わないだろう難題を、相良は弥代に持ち掛けた。
それが、
『どのような些細なことでも、どんな手を使っても構いません。私を、納得させてください。』
…………本当に、面倒な御人だ。
「な……、納得?」
これには思わず絹は聞き返してしまった。
前もってどの様な流れで話を進めて行くか、というのは聞かされてはいたのだが、相良が弥代に対し何を要求するのか、そこまでは聞かされておらず、ここに来て始めて耳にした、要求とイマイチ呼んでいいのかも分からないような、そんな言葉についつい口が滑ってしまい、挙句首を傾げてしまった。
それは、言われた弥代も似たような反応で。
後にはもう意気消沈といった様子になっていたが、それまでの間はなんというか……散々構われ振り回されて、疲れきった仔犬のように絹の目には映った。
直前まで意気揚々と突っかかっていたのが嘘みたいに、理解が及ばなくて限界が訪れたように顔をぐしゃぐしゃにしてそれで……
(いえ、犬猫は人ほど顔を歪めたりを私は知らないので多分違うやもしれませんね。)
今度時間に余裕があれば狼の姿で、左吉右吉に顔がどれぐらい変わるか見てもらうのも面白そうかもしれない。そんな、そんな余計なことを考える。
そう、そんな余計なことを思わず考えて目を逸らしたくなるぐらいには、後ろの荷台の、主に一人がそれはそれは険しい表情を今も浮かべていた。
「どのような些細なことでも、どんな手を使っても構いません。私を、納得させてください。」
男がそんな事を言い出すもので、弥代はもうどうしたらいいのか分からなかった。
最近では本当に今日は偶々調子がよく、これからの日々に対する不安であったりというのはどうしてもあった。どうしてもあったからこそ、だからこそこのままでは、昨日自分がしでかしてしまった事だったりをやはりどうにかしなくては、とそんな意志があったはずだ。
だというのに、それなのに、それらは全て削がれてしまった。他でもない相良の発言によって、全部。
自分を羽交締めにする背後の男にはどうしたって敵わないことを弥代は知っている。
だから抵抗をするだけ無意味なんてことは嫌というほど分かっているのに、それでも何も、大人しくするなんてのは弥代には無理だった。
ただ地団駄を踏むだけでは気が収まらない、なんでそんな事を言われなきゃならないんだ、とつい最近にも似た様なことがあったのを思い出した。そうして、その時も邪魔をされた。あの時は自分に非があり、冷静でいれなかった自分を相良がどうにか止めてくれて、それで事なきをどうにか得たが場合によっては一時でも恩を感じていた相手に弥代は無礼を働いていたかもしれなく。でも、でもそれを思い出してしまうと、結局、結局はそれだけじゃなく、駿河の時だって、大主を前にした時だって、それに今、この時だって、全部が全部彼の、相良という男のそれによって弥代はずっと振り回されていて、それで、そんな、なのに、そうだっていうのに、なんで、なんでよりによって彼、彼は、あんな、あんな事を自分に……、弥代に言ったのだろう――?
空っぽになって、漸く少し軽くなった頭がまたもやぐるぐる、ぐるぐるといっぱいになっていく。大して開けっぱなしにしていたわけでもない口の中がやけに乾燥して、喉の奥がキュッとくっ付いてしまったかのように息を一つするのさえ苦しくなる。否、違う。苦しい、苦しいのはそこよりももっと下だ。何か鋭いもので突き刺されたような、そんな痛みではなくてなんだかもっと、何かをずっと強く握りつぶされたかのような、そんな、そんな痛みだ。こんな痛みを弥代は知らない。
知らないけど、でも知っているはずだ。
だって、だってあの日も、あの月明かりを求め続けた晩も弥代、弥代は……
『何を、期待されているのですか?』
息が詰まった。ひくり、と喉奥が大きく震えて、でも暗い視界に慌てて顔を持ち上げる。抱えていた膝と、抱え慣れた感覚がないことに安堵すればいいのか、不安を覚えればいいのかさえも分からず、とりあえず息を確かめる。喉周りに手を添えて、見えぬ場所が忙しなく動いている感覚を確かめて、そうしてやっと一息を吐く。
寝ていた。またいつの間にか寝入っていたようだ。確か箱根の関所を抜け、三島宿を抜ける辺りまでは起きていたような気がするのだが、どこまで意識が続いていたのかも分からない。
辺りは見渡すまでもなく、どことなく暗い。
日中に感じていた荷馬車特有の揺れもないが、その代わりに少し体が右に傾いているように感じる。利き手とは反対の手で体を支えるのは少し違和感があったが、体をグッと起こし弥代は立ち上がり、そうして荷台の前の方へと近寄った。
御者が手綱を握るのに座る場所へと手を掛けて、荷台から外へ顔を出せば、二頭の馬の姿もなければ絹もいやしない。
馬のいない状態での荷台は前の部分の高さがなくなるものだから、もっと傾くとものだと思っていたが、丁度高さの近い岩があったからか、それを支えに傾きが抑えられていた。
あまり大きく動いてしまえば先の棒状が折れてしまったりするのではないかと思い、そっと静かに荷台から降りる。
降りてからやっと辺りを見渡せば、其処は雑木林らしく。ただ直ぐ近くに、建物らしい角張った輪郭を見つけ、民家などの裏手の手付かずの場所なのだろうと、弥代は一人目星を立てた。
そういえば今朝の相良からの話の中で、絹は宿をこれまで通り使えばいいが、金のない自分達三人は安い宿がなければ野宿をしなくてはならないとか、そんなことを話していた。まさか聞いたその日の内に早速野宿をする羽目になるとは思っていなかったが仕方のない……
「いや、何が仕方ねぇっつうんだよ。」
弥代は、そんな言葉を吐き捨てる。何も、何一つ仕方がないことなんてない。他にも選択肢はあったはずだ。なのに、なのにこんな目に遭う、こんなことを強いられているのは結局、そう結局はどうしても切り離すことが難しい、あの男が全ての原因で。
「俺は……ただ、」
ただ弥代は刀を返してほしかった、それだけだ。
それだけなのに、相良はいくら弥代が頼んだって、下手に出たって返してくれなかった。
どんな風に頼めば返してくれるのか分からない中、こちらの腹の中を全て見透かしたような態度が気に食わなく、つい手が出てしまった。許されると疑わなかったわけではない、許してもらえないかもしれないと分かった上で、それでも謝ろうとした。謝って、それであわよくば刀を返してもらえないかなんて期待もした。
でも、でもそれらは何一つ叶わなくって。どうしようなんて考えていた矢先の、弥代を一人置いて、二人は里へ帰るなんて言われた。それに続いて、刀も返してはくれないという発言に。また手が出てしまった。けど、そうじゃなくて、それよりもずっと、ずっと気が滅入ってしまったのはそうじゃなくって、そんなものじゃなくって、それ、なのに。
「どうしろってんだよ……俺なんかに?」
屈む。
相良は言った。
相良は、自分を納得させろ、と弥代に言った。
何を……、どうやって……、どうすれば相良という男を弥代は納得させることが出来る?
十日という期間をわざわざ設けられて、それで相良を弥代が納得させることが出来なかったら、相良は春原と二人で榊扇の里へ帰ると言っていた。
絹、絹はそんな相良の言葉を受けてから弥代のことを気遣ってか、ではもし十日以内に目的の京に着きましたら、それでもお帰りになるのですか?なんて、まるで弥代の肩を持つかのような問い掛けをしていたが(そもそも、なぜ絹が弥代の肩を持つかのような事を言い出したのかが、弥代自身は知る由もない)、相良はそれに答えることはなかった。
これまでとは違う、考えねばならないことが丸々と置き換わってしまったような、どこから手を付ければいいのかも分からない状況に、ただただ頭を抱えることしか出来ない。
屈み、そのままそこで蹲って。小さく、小さく体を折り曲げて。でも、でもこのままで良いわけがないことぐらい、それぐらいは今の弥代だって頭では分かって、いて。
こんなのは間違っている、正しくはない、と。けど、立ち上がれるだけのきっかけが今は、今はまだ足りていない。ぐるぐるがいつの間にかぐちゃぐちゃに変わっていて。ずっと、もうずっと振り回されていて、だから、だからここで少し、本当に少しだけ休みたい気持ちが出てくるのだが、なんだかそういう時に限って、彼は姿を見せる。
「弥代、」
腕を、引かれる。
こんな処で休むことを許してはくれない、弥代の意志を汲んでいるようで一切汲むことなく、自分の思った通りのことをただただ押し付けてくる、そんな奴。(なんだ、そう考えてみるとそれは彼とあの男はよく似ているように、弥代は感じれた。)
「相良が、呼んでいる。」
こちらの事情などまるでお構いなしに、自分勝手な都合だけ口にして、立たされ、歩かされる。
自分よりも大きな体をした彼に、今ここで大人しくついて行く以外、何をする気力も湧かない。
だって、だってそうだろう。
何をしても間違えるのだ。何をしたって救えない、何をしたって守れない。間違いを重ねる度にずっと不利になっていって、その結果が多分、今なのだ。
これ以上、これ以上何が出来るというのか。
それさえ今の弥代には、分からない。




