十三話 言い訳
「非道ぇもんだろ? まともに見てらんねぇよ、こんなのさ。」
いつの間に隣に立っていたのかも分からない相手だというのに、逃げ道を見つけたかのように目の前の光景から自然と目を逸らしつつ、前置きもせずに弥代はそう、口火を切った。
肝心な時に限って、いつだってそれは手元にない気がしてならない。いや、そんな事はきっとないのだろうがそう思えて仕方がないと、それだけの話で。だというのに一々、弥代はほんの少しだけ大袈裟にそんな風に言い表してみせた。
だって、そうでもしないと弥代にとってそれがどれほど大切なことであるかが、相手には伝わらない気がしたのだ。
人の話にとても耳を傾けているように見えて、自分の都合でばかり物を言うような、なにを言っても中々聞き入れてくれない相手なのだからそれぐらいしたってばちは当たりはしないだろう。そう、思いながら。
けれども、なにもそれは今に限ったことではない。
やれるだけのことをどれだけ頑張ったってどこか結果は見えていることの方が多い。挙句、はっきりしない事だらけの連続に、分からないままただ振り回されて、疲弊しきって、出鼻を挫かれるのなんていつもの話。最後に残るのはどうにもならない歯痒さばかりだ。
どんなに手を尽くしたって意味なんてない、という気持ちが沸かないというわけではない。でも、だからといって何もせずには、大人しくなんてしてられるわけがない、というだけ。しかし、いざという時の言い訳を兼ねているのではないか、と訊ねられてしまえばそれを否定出来る自信はどこにもない。
頭では分かった気になって、そんな子供じみた我が儘を繰り返しているだけなんだ。
「本当に、嫌になるよ。」
そうなると、今自分がしている事も無意味に感じてならない。分かって、いる、そんなのは弥代が自身が誰よりも理解している。
だって、どんなに頑張ったって、いくら向き合おうと思ったって未だに弥代は自分の意志で刀を抜くことすら出来ないまま。話をする以前に、片付けなければならない大きな問題が、心の問題が残ったままだ。
柄に指をただ引っ掛けただけで頭の中はあっという間にいっぱいいっぱいになって、それから先、刀身を拝むことは殆んど、無いに等しい。
弥代はひどく、刀を抜くことを恐れている。
持っていたって何の意味もない、腰にぶら下げているだけのお飾りでしかない。そんな風に思われたって、見られたって何も言い返せいことぐらい弥代は分かっている。
でも、それでもやっぱり弥代にとってその刀は、弥代が弥代であるためにはどうしたって欠かせない、本来の役目を果たすことが出来なくてもそれでも大切な、本当はずっと肌身離さず持っていないとならない掛け替えのない大切な、大切なものであるはず、なんだ。
だか、ら―――、
「目覚めが悪いってのにさ、目が覚めたらろくに覚えちゃいねぇんだ。普通逆だろ?って思わねぇか? 目が覚めて少ししたら忘れちまうってのによ、起きたからにゃ寝る前の続きをしなきゃならねぇ、暇じゃねぇってのに、思いだせもしねぇことでずっと頭ん中ぐるぐるしちまってどうにもならねぇんだ。余裕なんかあるわけねぇだろ。
……で、疲れたからって目を閉じてみりゃ、また見たくもねぇもんを延々と見せ続けられてさ、嫌んなるぜ、本当に。
いつまでこんなのが続くってんだ、やってられるかってんだ。」
自分が置かれている状況がどのような形であれ、真剣に気が参ってしまいそうであると、それが伝わればいいのだ。そうすればこの悪夢を無理やりにでも終わらせることが、それを叶えることが出来そうな手立てが手に入るのではないか、とそんな淡い期待を弥代は抱く。大して意味もない言葉ではあるかもしれないが、塵だって積もれば意味を成すと言うのだから、もしかしたら、と望まずにはいられない。
それに、こうして冗談混じりに言った方が、意外にも案外あっさり返してくれる気がしないこともない。相手はどれだけ関わったって腹の読めぬ男なのだ。あの手この手で他人に心の内を読まれるのを逃げているような、力があるだろうに臆病そうな男で。
でも、でもまだ、まだ少しは穏便に。けれども時間が経てば経つほど語気に気を配る余裕は薄れていく。だからどうにか、どうにかまだ冷静でいれる内に。……いや、いい、構わない。何もこれまでの不躾すぎる態度まで責めるつもりは一切ない。嘘じゃない、本当だ。ただこの場で、この場で弥代は刀を自分に返してほしいだけなのだ。ほんの少し、なるべく、早く。そうすれば、そうすればそれで丸く収まる、丸く収めることが出来るのだ、から。今までの自分に対する、男の数えきれないぐらいの非礼だってこれを機に一緒に水に流してやったっていい。全部、全部洗いざらい。そうして、そしたら、
「―――、弥代。」
手が、出ていた。
いつの間に隣に立っていたのかも分からない相手だったというのに、まるでよく知った仲の相手にするかのように(否、よく知った仲の相手にこんな事をするとは思えない)遠慮なく馬乗りになって、強く、強く掴んでいた胸倉を、それを支えとし拳を何度も、何度も、何度も、何度も、何度も振るって、いたようだ。
表情は、見えない。
込めた覚えのない力で、小さく下唇に歯が押し付けて、喉の奥で小さな、小さな音が響いているのが分かる。
まるで体の中には何もないかのように、吸い込んだ息だけが空っぽの器にまだ入るだろうと言わんばかりにただただ押し込められて。
何もないことを、自覚させられる。
「――なぁ、早く……返してくれよ?」
その腕の中に抱えられたそれは、もう意識の無さそうな男から奪うのなんてきっと容易いに決まっているのに、それでは意味がない。
やっと、やっと手に入りそうだったのだ。自分にはずっと無かった、みんなが持っている当たり前のものが。なのに、それなのに手に入るかもしれないと思った矢先に奪われてしまった。
二度と、もう二度と手に入らない形で、それは奪われた。
駄目、なのだ。どうして、どうして奪われなくてはならなかったのか、なんで手に入れることが出来なかったのか、弥代には、弥代にはそれが分からない。
だから、だから夢を見る。
夢の中の自分は、容易に刀を抜くことが出来て、彼女を奪う、弥代からたった一人の彼女を奪おうとする、鬼神と称された一本角の女に立ち向かうことが出来、て。それを、それを討ち滅ぼすことが出来ればその後は、ただ、ただ彼女の手を取って、そうして、そう、して、なのに、それ、なのに。
『――や、しろ』
届かない。
刀を、ただ刀を握るだけでは救えない。
なにがいけなかったのかを、考える。
なにが足りなかったのか、どうすればよかったのか考える。
一体いつから、いつから間違えてしまったのか、を。どうすれば彼女を、詩良を救うことが出来たのかも。
だって、だってそれは、それは彼女も望んでいることで、だから、だから彼女は今も、今もずっと弥代に、弥代に助けを求めて、いて。だから――――だからっ!
「弥代、」
背後から伸びてきた細い二本の腕に、優しく絡め取られる。
振り返ることは叶わない。
彼女は今も、助けを求めている。
弱音の一つもこれまで吐いたのを見せたことのない彼女が、分かりやすく自分に助けを求めている。
時折知らぬ名前で呼ばれることが耐え難かったがそうではなく、今は自分だけの、弥代の名前だけを口にして、そうして今この時も、助けを求めているのだ。
蒙霧升降、風知草 十三話
「起きてくださいませ、弥代さん。」
寝ていた弥代を軽く揺すり起こしたのは、昨晩同じ部屋で休んだ三ツ江絹であった。
わざわざ男女で部屋を分ける必要などなく、分けただけ値が張るのではないか、なんて食事時に相良が絹相手にそんなのを訊いていたのを寝起きの頭でふと弥代は思い出したが、彼女がなんと返したかまでを思い出す余力はない。
単純にそれほど関心がなかったから覚えていないだけ、とも思えるのだが随分と深く寝入っていたのか、はっきりとしない頭を小さく傾ける。
薄ぼんやりとした頭は、ここ最近の目覚めでは一番マシに思えて。あぁ、でもそれも時間が経てば次第にまた調子が悪くなっていくだろうことを弥代は知っていて、額を手の甲で強めに押してみた。
食事の支度が出来ていますので、と言いながら布団を剥かれる。いつまでも横になっているのは駄目だと言わんばかりだ。敷布団の横に寝る前に避けておいたまだ生地の硬い、夏場に羽織るにしては風通しの悪そうな羽織を手に取り、剥かれた布団の代わりに軽く羽織れば前を合わせる。高い土地は八月の、夏の暑さが明け方が薄いなんてのを聞いたことがあったような、なかったような。
現に朝方に肌寒いと感じているのだからきっとそうなのだろう。弥代の寝ていた布団を、丁寧に代わって畳む絹の装いも昨日の袖の短めなものではなく、手首まで軽く覆われる丈のものに変わっている。
「朝飯つってたけど、昨日の夜も出てなかったか? 随分気前のいい店なんだな、あんだけ出しておいて朝も用意してくれるなんてよ。」
おやおやおやおや?なんて首を傾げながらも、価格相応というものですよ、などと返してくる相手を見てから、弥代は少し慌てたように口元を抑えた。
「では食事の前に、手水でも如何でしょうか?」
ゆっくり、寝れた気がする。
榊扇の里を暫く留守にして、西の方へと向かうと話が決まってからはトントン拍子に弥代の知らぬところで勝手に話が進んでいった。
扇堂家からは旅路に必要となる路銀の他、数日分の食糧に、扇堂家の遣いとして関所を通過する際に役立つ通行手形だけでなく、わざわざ服を仕立てられた。
屋敷に住み込みで働いているという針子の女は何も話してはくれなかったが、同じように屋敷に身を置いている女中の、確か戸鞠らの上女中にあたるという女が代わりに答えてくれた話だと、仮にも扇堂家の遣いを名乗るにしても、見窄らしい恰好のままでは家名に泥を塗られるのと同義だとか、なんとか。
弥代が思いつかないような細々とした事情が色々あるのだろう、とそう軽く片付けはしたのだが、まさか里から出ていけと言ってきた張本人が長の、その家にこうまで手厚く旅支度をされるとは思っていなかった。
屋敷の北の大広間で弥代が過ごした時間はおそらく月の半分ほどの長さだったのだろうが、日によっては食事を女中がただ運んでくるだけで。出された飯にただ手を付けて時間が過ぎるのを待って、他に誰とも顔を合わせないのだからと寝て起きてを繰り返すばかり。一日の時間の長さは同じであるはずなのに日によってはその感覚さえも曖昧に、分からなくなってしまうような日々を過ごしていた気がする。
屋敷を出た二、三日ほど(ぐらいは経った気がする)前も、出立が夜半のことで、屋敷周辺は人の立ち入りが制限されている時という事もあり、人の気配が全くないという榊扇の里では起こりえなさそうな奇妙な街中を移動したりがあった。
夜に起きて、日中に寝て、と昼夜が逆転したような、誰にもそれを咎められることがなかったものだから、久しぶりに朝陽が登る頃合いに起きれた気がして、少しだけそれの大切さを知った。
酒匂川を渡り小田原宿に着いた辺りで昨日も目を瞑ってからそのまま寝入ってしまっていたものだから夜になってちゃんと眠れるかと多少気にしていたのだが、飯を食べ、湯に浸かり、布団に横たわり、とこれまでの里での落ち着いた日々の中で身に染みついたであろう流れを順序通りに踏めば、不自由なく寝付くことが出来たものだから安心する。けれども、それもいつまで続くか分からない。偶々今日は目覚めが良かっただけで、ここ最近の目覚めの悪さがなかったものだから普段調子の軽口をついつい叩けただけで、次に寝て起きた時には、と不安がどうしても過ぎる。
だからこそ今この時だからこそ、今後の事を少しでも視野に入れてそうしてどうしていこうか、と弥代は考えたかったのだが、どうやらそうも言ってられないようだ。
「おはようございます、弥代さん。」
食事の支度が出来ていると絹に促され、弥代が通された部屋は昨晩同様、夕餉が配膳された一つ隣の部屋、相良と春原が寝泊まりをした部屋であった。
食べ終えて早々に部屋を後にしようと、一人になろうとした昨晩の弥代は、確か相良の何だったか反応が癪に触ったのか、まだ食事中の彼の胸ぐらを掴んで顔を殴ったはずだ。
目を凝らすまでもなく、窓辺の薄い障子越しに差し込む柔い朝陽に照らされて、若干彼の右頬が黄色っぽく腫れているように見えるから間違いない。
が、彼はそれを気にした素振りは一切見せることなく、弥代を案内した絹に対し一言二言何やら声を掛けると、それから静かに手を合わせていただきますと口にした後、目の前に用意された御膳の、綺麗に揃えられていた箸を手に取った。
顔を、見なければいい。
顔を見なければそれで、それでどうにか収まってくれそうなものがあると弥代は分かっているのに、何故だか目を離せない。
視界の端に彼を収めるのを止めることなく、小さく自分の背中を押す絹にまたも促されるまま、誰も座っていない御膳のその前に腰を下ろす。
いや、よく眠ることが出来た、最近では一番といっていいぐらいには頭が冴えている気がしてならない今だからこそ、昨日の自分の彼に対する態度は酷いものであったと自覚が出来る。あんな事をしたのだ、一言でもいいからすまなかった、と謝った方がいいのなんて分かりきっているのにそんな気は全くといっていいほど沸かない。寧ろどうしてそんなに何事もなかったかのように振る舞うことが出来るのかと、訊ねたくなる、そんな態度だ。
弥代へは最初の挨拶以降声を掛けることなく、右隣で同じように食事をする春原や、弥代の左に腰を下ろしている絹を相手に、やれ里で口にする汁物とは味噌の風味がどことなく違うように感じる、やれ漁であったりが盛んな地ではそれほど榊扇から離れているわけでもないというのにこうも口にするものが違ってくるのか、と、そんな話を口にしている。
弥代はこんなにも、こんなにも今は彼を、相良志朗という男を見ているはずなのに、こちらが望む時に限って一向にこちらを見ようとしないのは何故なのか?とじわじわと苛立ちにも似たものが腹の底に溜まり始めたが、今の弥代にはまだ少しの余裕があった。
昨年の秋から冬に掛けて一時期立ち寄った下野国の古峯の地でもあった話だ。飲まず食わず、寝ずにだって自分は過ごすことが出来るのだと、自分が人ならざる存在であると知ってしまった頃、同時にそれが出来るからといってしない方がいい事を身を持って弥代は知った筈だ。
寝過ぎる、というのもよくないのだろう。感覚が分からなくなってしまう。
ぐるぐる、ぐるぐると頭が重たく、考えるのが辛くなったその時はここ最近と同じように目を瞑って、なるべく日中は寝てしまわないように心掛けておけばきっと、きっとそれで少しは改善されるかもしれない。そう、思うことにする。
そう思うことにして、そうして弥代は改めて相良を見る。
今はもしかすると彼は自分と口を利く気はないのかもしれない。だって昨日の自分が彼にしたことは普通であれば一度謝るだけでは許されないようなことなのかもしれない。それは人によって許す許さないと度合いは違うだろうから、自分のしたそれは彼にとって簡単に許してはもらえない、そんな。そういうことだったのかもしれない、と言い聞かせてみる。だから、だから頃合いを見計らって、そうしてキチンと謝って、それで、そうしたら、それから少し腹を割って、今度は手なんて絶対あげないようにしてそれで、それで刀を、刀を、返してもらえたら。
「ところで、弥代さん。」
腹の内の読めぬ男が、弥代を呼んだ。
「ところで、弥代さん。」
切り出してからコトリ、相良は持っていた端を膳の元あった位置へと戻した。
一通り温かい内の方が美味しくいただけるであろう品々を味わうことが出来た後だ。昨日の日中と夜の内に落ち着いて睡眠をとれたものだから非常にゆとりもある。既に目を覚ましてから一刻は経っているが、弥代がこうしてこの部屋にやって来る、目目覚める前に粗方は三ツ江 絹を相手にも一度今後の流れというものは話しているものだから、ある程度の余裕があった。
し、熱を持つ、溢してしまえば火傷をしかねないような汁物ももう手を付け終えた後である。畳を間違っても汚してしまうようなことはもう二度とないだろう。自分と同じように汁物を早々に平らげた春原にも前もって先に口を付けるように言っていたものだから、仮に昨晩の夕餉同様にこちらへ距離をつめてきてどうこうとなっても問題はない。
予めこうなるだろうと事の運びを伝えていた彼女も、春原同様に伝えずとも意を汲み協力的な姿勢を見せてくれているもので一安心だ。
弥代が器の底を膳の上へと一度置く、自分と目が合うその眼差しがここ最近見る限りで一番落ち着いているように見えたのは気の所為ではないのだろうが、なら尚更に今が丁度いいだろうと意を決して口を開く。
「少々、今後の流れについてお伝えせねばならぬ事があるのです。」
「少々、今後の流れについてお伝えせねばならぬ事があるのです。」
なにか、と弥代は無意識に背を正す。
今がその時ではないのだろう、と自分の中でそう言い聞かせて、それでまた頃合いを見計らってから丁度いい時に話しかけようなんて、そんな算段で済ました途端、まさか相手の方から話を振ってくるだなんて思ってもみなかった。
なんだよっ、なんて意外すぎる声掛けに吃ってしまうのだが、まぁ願ったり叶ったりだ。向こうから振ってきた話題の、その終わりにでも差し掛かった頃に昨日一日の非礼を詫びよう。心に少しでも余裕のある、今の内になるべく、だなんて考えながら真正面の男を見遣る。少しだけ、心が軽い。
「えぇ、これからの流れについて、なのですが――――、」
何故そんな周り諄いことをするのか?と絹は思った。
畳を汚しかねないものは一通り食べ終えたが、最後の最後に残していたよく味の染みた、それでいてしっかり歯応えのある沢庵をポリポリと味わいながら、そうして案の定と言っていい、わざわざ立ち上がり、向かいだけじゃ飽き足らずに御膳を乗り越えて相手の胸ぐらを昨晩と同じように掴みかかる弥代と、それに大人しく揺さぶられているような相良。それからそれを間に入って止めようとする春原を見た。
そういえば昨晩の夕餉の際も、いきなりではあったが相良に対して掴み掛かり、殴った弥代を止めたのは春原という三人の中だと一番上背のある男で(いや、相良と並んでいる限りはそれほど差があるようには思えなかったが)、体格も随分と恵まれているのが大振りの羽織を羽織っていてもよく分かる。
昨晩とは違って、予めこうなる、と予測がついていたのだろう。相良からは前もって絹は止めに入らないで欲しいと言われていたから動くことはなかったが、言われたその場で春原を相手には止めに入ってほしい旨を伝えていたもので、事情はある程度聞かされたものだが、部外者に怪我を負わせたくない上での配慮なのであろうか、と考える。
(いえ、私は人の身ではないので、ちょっとした怪我でしたら全然……全くもって治るのなんてあっという間ですので別に構いやしないのですがね。)
とは思うのだが、同時に弥代に初めて会った日の、彼女に腹に喰らわされた、そう簡単には静まってくれなかった重たい一撃の、その痛みを思い出して、残り少なくなった米を口に入れてよく噛み締める。米本来の甘みに苦く痛い思い出を和らげようと試みる。
(しかし、本当に面倒な方なんでしょうね、相良殿、というこの御方は……。)
弥代を絹が起こすよりも前に、相良は絹を呼びに部屋へと訪れた。
弥代には起こして様子を見てから伝えようと思うが、前もって誤解のないように、食い違いが起きてしまわないように現状とこれからについて伝えたいからと話し掛けられたのだ。
絹からすれば願ってもない話だ。当分はもしかしたら詳しい事情を教えてはもらえないと思っていた、なんだったら向こうの込み入った事情次第ではこのまま場合によっては何も教えてもらえないまま別れることになってしまうのではないか、とも視野に入れていたものだから助かった。と言っても、全部が全部本当であると鵜呑みにするのは難しそうな相手であろうことは分かっているから、半分ぐらいが方便ぐらいに捉えたほうがいいだろうと、そう思うこととした。
相良から先ず絹が聞かされたのは、決して気持ちのいいものではなく。言ってしまえば弥代が里を追い出されるに至った経緯だ。
身内の、親族の罪は当人が贖うだけでは済まされないという、所謂、連座というものだ。
それほど昔の風習や習わしであったりに詳しくない絹ではあるが、それがどういったものであるかぐらいは分かっている。今は亡き父・三ツ江文左衛門が若かりし頃はその手の話で、兄の尻拭いだけではなく、止められなかった罰として揃って仕置きを受けることがあったと生前に話していたことがある。
罪人の罪は、罪人だけが贖うものではない。絹の全く知らぬ古い時代には、親が罪を犯したというだけで、子がどれだけ幼くとも親同様に鞭に打たれその命を奪われることや、罪を認めるまで母子が罪人の代わりに罰を受けることだってあったそうなのだ。惨い、話だ。
だからそうならないように、なるべく悪事は働くものではない、とそんな意識が昔から少しづつ刷り込まれているらしく、ただそんな昔の時代にあったという罰を思えば弥代が今回受けているものはとても、とても軽いものに感じた。
里を出ねばならなくなった、絹の知らぬ弥代の身内の罪。でもそれは受け取り方によっては、里でまだ下手人が誰か分かっていないという今、それが弥代の身内であるというのが知れ渡ってしまう前に里から弥代を遠ざけるのは罰というよりは弥代を思っての判断とも取れる。
絹同様に弥代は人ならざる身だ。しかし人の身を持つ、人の世で生まれ育ったであろう、“色持ち”の存在。何がどうして今の弥代が昨年の出会いから榊扇の里に身を置くようになったのかは絹の知らぬ処ではあるが、これらを教えてきた相良という男の口振りからして、それなりに弥代は里に長く居座っていたように感じれた。
一箇所に長く留まることはなく浮浪者同然のような見窄らしい格好をあの日も弥代はしていた。それが今はかなり上等な格好をしている。それだけで榊扇の里という場所が少なからず、今の弥代にとってのある程度の居場所となっているのは事実で。此度、この様に前もって里から遠ざけるというのは今後の弥代の為を思うなら必要なことであるはずだ。
だと、しても……
(それなりに器用な御方かと思っていたのに、何をお考えなのでしょうね。)
御膳の上に役目を終えた箸を戻す。
それから溜め息を一つ吐いて、目の前の光景に目を向ける。
ドタバタと畳を荒々しく踏みつける様は、地団駄を踏んで我が儘を押し通そうとする子どものように見えるが、子どもか大人かどちらかなら弥代は間違いなく前者だ。見た目相応と言ってしまえばそれまで。大人気ない、という言葉を送るには些かやはり幼すぎる印象だ。気が短いのは初めて会った時に思ったことだし、人の話を全部聞かずに手足が出るのも堪え性がなく子供っぽい。現に子どもなのだから仕方ないと片付けてしまうのも手であるが、少なくとも絹は弥代を出来るだけ対等に扱いたい、と…………、
(あ、でも私はこの世に生を受けてまだ十年も経っていやしないので、私と対等ということは歳だけで考えるのなら弥代さんも十にも満たぬ…………、おっと、これ以上考えるのは弥代さんだけでなく私の為にも止しておきましょう。)
昨晩同様の物音に気付いたのだろう宿屋の者が廊下側の襖をほんの少しだけ開けて、室内を覗くように見てくる。これは迷惑料を兼ねて多めに色をつけた方が今後の為にもなるだろう、と絹は懐の勘定をし直した。まぁ、まだ多少余裕はありそうなので問題はない。
「日本橋から京の都までは徒歩にして大きく見積もっても十三日から十五日ほど。しかし、これはあくまで凡その話になります。走る事を、如何に早く荷を輸送できるかを生業とされている飛脚の方に掛かればその距離も早ければ三日四日程で着けてしまうそうです。
あまり身近でそれほど長い距離を測ったりされる機会はないでしょうから分かりづらい……感覚として掴みづらいやもしれませんので、分かりやすい距離に敢えて置き換えてお伝えいたします、と。
榊扇の里の大きさが二里四方ほど、扇堂家の屋敷から歩き始めて南、東海道を越えた海辺までの移動を慣れぬ者がするとして半日以上。日が登り、西の空へと沈むまでにどうにか辿り着くことが出来るといった距離といたします。
榊扇の里から京までの距離が大体百二十里。
旅に不慣れな、歩き慣れていない者の足で日に進めるのを四里とした場合、百二十里も離れた京に辿り着くのに一月以上の時間を有してしまいます。
先にお伝えした十三日から十五日、というのは慣れた商人の脚の話ですので、我々ではどうしても倍近く時間が掛かってしまうのです。」
「…………それが、どうしたんだよ。」
感覚が掴めぬであろうと、身近なものに置き換えてはもらったものの、それでもイマイチ弥代はピンと来ない。元よりこの旅路が長旅になるというのは分かっていたことだし、少なくとも数ヶ月は里に戻ってくるな、と言われた身であるのだから、今の弥代が大まかに目的地として定めている京の都までそれぐらいの時間が掛かったって何も、それほど問題はないはずだ。
「どうした、ですか……。
いえ……、いえっ、そうですね? 弥代さん、貴女からすればそれがどうした、とそういった言葉が出てきても仕方のないことだとは思います。そうです、これは貴女の事情ではなくあくまで、私と春原さん二人の事情になって参りますので。」
「…………は?」
益々分からない。いや、前置きであったのだろう、今までの距離や日数の話がどうしたって絡むであろうというのは大体予想がつくのだが、しかしそれがどのようにして相良と春原の、二人の事情というのに関わってくるのが弥代には分からない。
だと、いうのに。
「資金が足りないのですよ。」
「…………し、しきん?」
「えぇ、資金です。」
また遠からず、周り諄い長ったらしい話を踏まえて、そうして告げられるのだろうと身構えた矢先、弥代の予想にまったく反するかのように相良は答えを提示してみせた。
何も聞き違えを疑ったと、そういうわけではない。ただ言葉の意味が、どうして今この話の流れでさがらの口から資金、などという言葉が出てきたのかが弥代には理解出来ず、それを訊ねるかのように聞き返した、つもりなのだ。
「元々、京までの道順は大まかではありますが扇堂家の方で用意していただいていたのがあるのです。しかしながら昨日、私が休んでいる内にどうやらその道順から大きく逸れてしまったようで、して。」
「それが……どうした、ってんだよ?」
「慣れぬ長旅です。此度の旅路の資金は全てとまではいきませんが扇堂家が用意してくださっているものが殆んどなのです。まとめようと思えば大判を数枚だけ、という手もあるでしょうが、あの手のものは返ってくるお釣も大きくなるものです。また、使える場所は限られてしまいます。まとめてしまうのは、とても……とても、不便なのですよ。」
そこまで言われて――、否、そこまで言われずともどこか態とらしく間を挟むような口振りに、あぁ……なんて弥代は飲み干したはずの、堪えたと思っていたはずの苛立ちがここにきて一気に沸々と沸だすのを感じた。あぁ、そうだ。なんて端から分かりきっていた事をここにきて再確認する。そうだ、そうだった。この男はそうやって弥代なら分かるだろう、とまるでこちらを試すかのような物言いをする。馬鹿にされているわけではない。恐らくは弥代のことをある程度は評価した上でする態度なのだ。でも、それはどこまでも、どれだけ吹っかけられたって慣れるものではないし、間違っても慣れたくなんかないものだ。
だから――、だから弥代はこの男が大方この後にどんな言葉を繋げるかの予想がつく。先日の大主との場ではまるっきり置いてけぼりを喰らったものだが、一対一での会話であれば、相手の言わんとしていることが、その言葉を受けて弥代が我慢ならずつい手が出てしまうということを分かった上で、それを重々承知した上でこの男がそれを口にすることが弥代には分かってしまう。
「えぇ、ですので弥代さん。
私と春原さんは途中で帰らせていただきたい、と。そう、考えております。」
つくづく、つくづく本当にこの男は、弥代を苛立たせるのが得意だ。




