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鬼ノ目 六節・旧国、溺るる虚像  作者: 三Ⅲ三Ⅲ三
前篇・蒙霧升降、風知草(全25話)
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十二話 息抜き







『刀を、預からせてはいただけませんか?』

 柔らかい言葉尻に反して断らせる気など(はな)からないのだろう空気に、弥代は声の主を正面から捉え、そうして眉を(ひそ)めた。






『嫌だって、言ったらどうすんの?』

 (たず)ねて(しか)るべき質問。()く資格が自分にはあるはずだと言わんばかりの態度で。弥代は相良と目を合わせて不機嫌を(あらわ)にした。

 それは相良の知る弥代であったなら、間違いなくそうするであろうと思える態度そのものであったが、()えるものがあまりにも違いすぎた。

 いっそ見た目だけがそっくりな別人と説明を受けた方が納得が出来てしまえるぐらいにはとても、顕著(けんちょ)な。

 しかしそれが分かるのは、視える者に限られる。共感や同意を求めたところでまったく意味など無いことなど分かりきっている相良は、何があってもそれを表に出すことはせず、決して悪意があってそんなことを言っているのではない、という旨の言葉を一つ(あいだ)に挟んで、そうして弥代に応えるように体の向きを変えた。

『物のついでかのように振ってしまい申し訳ございません。ですが、悠長に過ごす余裕がないのは事実ですので手短(てみじか)に要点だけを。』

 それから相良は、大判の風呂敷で簀巻き状態になっている、自分の物ではないもう一人の刀を預かっている事を伝え、弥代の持つそれも同じように預からせてほしいと口にした。

『だから、何でだよ?』

 何が、だから――なのだろうか?

 以前より春原から、弥代という相手は時折自分が口にしてもいない言葉を、省略して同義だなんだと自分勝手なことを言うものだから、(たま)にどうすればいいのか分からなくなる時がある、と相談を受けることがあった。

 それは相手との相性であったり、どれだけ普段から意思疎通が出来ているかで変わってくるというのに、それを特別親しいと呼べる間柄でもない相手に求めるのは無茶な話だ。ただこれは人によっては汲むのは難しいことではない。(げん)に相良自身は、弥代の省いた言葉が何であるかなど検討がついている。

 時間が惜しい、可能な限り一刻も早く里から離れ、(ほとぼ)りが冷めるまでは離れさせねばならない今この時は、深く追及をすることさえ、といった状況であるから触れはしないが、それでもやはり弥代の言動の節々には目に余るものがあった。

 多く見積もって半年ほど。それだけの時間があれば流石に今は目に余るその言動も、多少は改善させることが出来るのではないかと、この時の相良はそう考えていた。






「何とも、人聞きの悪い。」

 とりあえず、そんな言葉を返しはしつつも、いいように言いくるめて刀を一時(いっとき)手放させた自覚のある相良は今更ではあるが自分の性格の悪いを内心笑った。

「ただ旅をするだけだというのに、一人一本刀を持った一行(いっこう)など怪しまれてしまいます。ましてや刀など、折り畳むことが出来る(しな)でもないのですから。

 それなら私共の中で一番心得(こころえ)のある春原さんにだけ持たせ、私と貴女の分はまとめてしまおう、と。変な(やから)に絡まれる前に、可能な限り芽は摘んでしまった方がいいでしょう、と伝えたではありませんか。それがまさか……まさかそのような態度で返されるとは。こんなのは初めてです。」

 まったくをもって心外(しんがい)である。少しばかり誇張(こちょう)して、そんな言葉を選ぶ。相良の知る弥代であれば、相手がこの様な態度を示せば多少なりとも気まずそうな反応を示すだろうが、今の弥代にそれを期待するのは(こく)な話だ。

「気が、変わったんだ。」

 正面から、こちらを射抜く眼差しに熱を感じれない。

 纏う、その感情が自分のものであると疑うことすら知らぬまま。いつだったかに薬師(やくし)である彼女から聞かされたことがある、宿主を(あや)めた(のち)、亡骸を乗っ取るかのように生えてくるという妙なきのこの話を思い出した。

「だから、返してほしい。」

 自分のものでもない強い想いに左右され、望んでもいない結果の為にいいように振り回されている姿を目にするのは、これが二度目である。

 生みの親の憎悪にたった一人(さら)され続け、父親に獣のように喰らい付いた彼以上で。

 その姿が、心底残念に映る。

 駿河の時はやっと踏み出すことが出来、(くだん)の七月二十日以降はその片鱗の一切を目にすることがなくなった為、恐らくは向こうから離れたのだろうが、こんな事になるのであったのなら以前の彼のそれを纏っていたままの方が断然良かった、と断言が出来る。

 今の彼女よりも、北の地で会ったという彼の方が相性は良かったろう。

「気が変わられた……、そうですか。具体的に、どのように?」

「何で一々、アンタにンなこと言わなきゃならねぇんだよ?」

「一応はまぁ、大主様より貴女の事を任されている身に今はあります(ゆえ)、知る資格はあるかと思った次第です。」

「知って(なん)になるってんだ、(なん)の腹のたしにもなりゃしねぇだろ?」

「それはそうですね。」

 揺らぎが、多少なりとも落ち着く。

 日中の荷台では無言を貫き、寝ているのか起きているのかも分からない曖昧な状況が続いていたが、ただ静かにしている時よりもはるかに言葉を交わしている時の方が落ち着いているように視える。

 それは、言葉の節々にも現れている。

 今しがた相手の方から声が掛かった時、その第一声は弥代の口から出てくるとは到底思えぬものであった。

 ねぇ、などと。

『ボクは、弥代のお姉ちゃんだから。』

 相良がその者と直接に顔を合わせたのは、春先の橋の上の邂逅が最初で最後である。

 けれども顔を合わせる以前より、伽々里(彼女)の口から(おぞ)ましい(ごう)の化身ともいえよう、西の鬼と知る者は限られるものの(おそ)れられる存在がどういうわけか身近にいるというのは聞かされていた。

 そして西の鬼と呼ばれる存在が、常陸国(ひたちのくに)にかつて在った春原の生家(せいか)である春原邸の襲撃者であることを相良は知っている。

 里の外から帰ってきて早々に起きた、かの存在からの春原への接触に相良は冷静でいられるはずがなく。普段であっても滅多に抜くことのないものを抜き、(みずか)らの意志で振り(かざ)した。

 もちろん(きっさき)が相手に届くことはなかったのだが。

『落ち、着く……?こんな……っ、こんなの落ち着いてられるかっ‼︎なっ、何で死んだ奴の事を、身内の事をそんな風に言われなきゃいけねぇんだよっ⁉︎』

 だが弥代からすればかの鬼は、“身内”であったのだ。

 その死を、一連の出来事に対する謝罪は行えない、あってはならぬこと、と恩人であろう相手に面と向かって言われ、冷静さを()いてしまうほどには、少なくとも大切にしていた、存在だったのだろう。

 自分にとって、と相手にとっての気持ちの向けようが異なるなんて、そんなのは当たり前に起こることで、だというのによりによってかの存在が弥代にとってのそれであったというのは、ほんの一瞬だが同情し掛けてしまう。

『行きてぇ場所があるんだ。』

 それがどこを()すなんて、相良には分かりきっていた。

 会わなきゃならない奴がいるとも続く言葉の端には、ただ会うだけじゃ済まないであろう思いが滲んでいた。

 だから相良は、弥代から刀を取り上げたのだが――――、

「…………。」

 改めて、相良は弥代に向き直る。

 少し休んで頭の中を整理しようと、これからの動きについて考えようと一人になった矢先、手頃な腰掛けを見つけて落ち着こうと思ってから、もう随分と時間が経っているように感じる。が、実際は四半刻(しはんとき)の半分も過ぎていやしないのだろう。自分と弥代意外の誰も入り込んで()ぬものだからやたらと長く感じているだけに、違いない。






 蒙霧升降(ふかききりまとう)風知草(かぜちぐさ) 十二話






 旅籠屋の一泊の相場などというものは、安くて百文(ひゃくもん)、いくら高くとも三百文(さんびゃくもん)が妥当とされている。五街道に店を構える宿の大半は相場内にどうにか収まっているものが大半ではあるが、例として挙げるとたとえば国境(くにざかい)、関所の価格というものは時折客の足元を見ることがあると聞いたことがある。

「いっ……、一泊一人頭(ひとりあたま)五百文、ですか?」

 町人の一日あたりの稼ぎがだいたい三百文であるというのを念頭に置くならば、店が雇う人数の他に、他では中々見ることがないだろう馬屋があったりするのを踏まえてしまえば、(いささ)か五百文というのは破格すぎる気もしてくるのだが、進んで選ぼうという気には到底ならない価格であるために、口にするのと同時に相良は血の()が引くのを感じた。

 しかし今の今まで話しをしていた筈の相手はケロリとした表情を崩すことなく、なんなら傾けて口をつけたばかりの椀の、底に軽く沈殿してしまったであろう味噌を箸で一掻(ひとか)きしてから再度傾けて、と。塩気に満足した様子を見せてから相良に向き直った。

「それほどおかしな額でしたでしょうか?」

 明らかにそれよりも上回ることはないと分かっている素振りを見せはするものの、普通の相場の二倍近い額に相良の頭は次第に痛くなってくるのだが、相手は色を持って生まれた、人ならざる存在だ。

 ()つ人の姿を持ち、商人を名乗る彼女は今日一日のやりとりの節々から頭はそこそこキレるようなのだが、同時にどことなく抜けている部分が見受けられた。

 この手の相手に人の道理の全てが通じないということを相良は嫌というほど知っているつもりなのだが、やはりどうしたって見た目に左右されてしまうところはある。

 更には、胡座(あぐら)を掻いて、箸の握り方も儘ならぬ状態で米を食す、対面の弥代とは対照的に、(彼女)はとても丁寧に食事をするのだ。

 話す時はキチンと一度お膳の上に先を揃えた箸を置き、手に取った小鉢やらの器はどれも元の向きに直した上で戻し、焼き魚に関してなど器用に箸だけで身の部分だけを摘み、落としてしまわぬように手のひらを添えつつ口元に運び、ととても上品な食事をする。

 それでいて堅苦しさはなく、変に力が入っているわけでもない箸運びは純粋に食事を味わっているのが見ていて伝わってき、幼い頃から近くに手本となる相手を見て、自然と身についたのやもしれないと思えるほどで、それら全てが余計に錯覚してしまいそうになる。

「ですが、商人というものは行きも帰りも場合によっては何かしらの品があることもございます。肝心の品が、食い扶持となる荷が盗まれてしまうようなことがございましては、最悪の場合金銭だけではなく客の信頼も失ってしまいかねません。

 そうなると多少値が張ったとしてもしっかりとした宿を選ぶものではございませんでしょうか?」

 一丁前に人の()を理解している言い分はそう言われてしまえばぐうの()も出ないというもの。が、それはあらかじめ金を持っている、懐にある程度の余裕がある者であるからこそ出来る発想である。なんなら自分ら三人は商人ではなく、偶々(たまたま)弥代の知人で進行方向が大体同じようなものだったので一緒にさせてもらっているだけでしかない。

 人であるのなら十七、八は迎えてそうな外見をしているというのに、その実まだこの世に生を授かってから十年が経つかどうか、という、聞きよう次第では純粋そうな、自身の善意とこれまでの教わってきたことで行動を決めそうな無垢さを(そこ)なわなそうな彼女に、醜い大人の文句などぶつけられるわけもない、と諸々と内に押し込めるようにグッと相良は(こら)えた。

「いえ、いいのです。

 今日の分に関しましては私――もとい、左吉(さきち)右吉(ゆうきち)の我儘に付き合わせてしまったこともあります。元々ご予定されていた順路より大きく逸脱させてしまった、お詫びも兼ねまして今宵の代金は私に払わせていただきたく願います。」

「…………は?」

 そんなの正直なところありがたい事この上ない持ちかけではあるのだが、相良は突然の絹からの提案に動揺を隠せず、掬いあげたばかりの味噌汁の具である玉麩を再び沈めてしまった。

「……二千、文を、ですか?」

「あっ、いえ。馬屋の分も含めますと二千と……二百文になりますね?」

「…………そう、ですか。」

 まったくもって、この世はどうかしているんじゃないか、と今度こそ本気で思えて仕方がない。いや、そんなのは本当にただの愚痴でしかないのだが、それでも、なんて歯痒さのようなものを覚えてしまう。

 見たところ、十七、八ぐらいの見た目をした、とその姿は当然ながら変わることはないのだが、それはそれとして四人分の宿代を詫びとして肩代わりするという発言を機に、細やかで丁寧な食事作法であったり、人の世をある程度は理解しているだけろう頭の良さと、若干抜けていると思われる節々の言動であったりに、やっとここに来て相良は一つ結論に至る。

(良いところ育ちのお嬢さん、ですか。)

 心が(すさ)みきっている。

 善意だ。善意から出てくる言葉を正面から受け止めきれない。ここはもう一度ゆっくり寝て、しっかり頭を休ませる機会を得てからもう一度ぐらい試して、それでどうにかなるのならやはり心にゆとりがなかったからそんな事を考えてしまっただけと、片をつけることが出来そうだ。

 何よりもゆとりがないのは心だけではない、懐具合も同じなのだから。

「あら弥代さん、もう食べ終わられたのですか?」

 と、左手の(彼女)が弥代の名前を口にするもので、相良は向かいに座る弥代に目を遣った。

「しっかり噛んで味わわれましたか? 食べ終えられた(あと)に言うのも遅い気はするのですが、立派な焼き魚があしましたでしょう。あちらなんと小田原の方でも名の知れた干物屋の品らしく。贔屓の店に卸すばかりで中々店先ではお目にかかれない貴重な干物なのだそうですよ?」

 それは弥代にだけではなく、前もって聞いておきたかったものだと、自分の分だけでは足りずに(挙句、両手で掴んで食べようとしたので身を取り分けて、と)二枚(たいら)げてみせた春原を尻目に相良は思った。我慢である。

「聞いてもいやしねぇことをベラベラあんがとさんよ。」

 ぶっきらぼうに一言。顔を知った相手であればどんな態度をしてもいいというわけでもないのにそんな不躾な言葉を吐き溢して、弥代は立ち上がった。

 勿論、食事をするのに裾が邪魔になるからか、脱いで(かたわ)らに適当に寄せていた羽織を忘れることはなく。

 扇堂家が此度の旅の為にわざわざ一から仕立てた品であるというのに扱いがただただ雑で、見ていて残念な気持ちに相良はなるのだがそれ以上に、羽織よりも一層ついつい弥代のことを見てしまう。

「なんだよ?」

 度々討伐屋に顔を見せるついでに飯にありつく際は一々大袈裟に美味しそうに食べていた姿からはうって変わって、折角の手の込んだ宿の食事をゆっくりと味わうこともなく早々に食事を済ませ立ち去ろうとする弥代を相良は止めるつもりなどなかったのだが、此方(こちら)の視線に気付いたのだろう弥代から、そんな一言が漏れる。

「いいえ、特には。」

 目を伏せる。

 まだ何も整理がついていない今はまだ、極力関わることは避けるべきだ。先のやりとりがあった手前、自分の方から変に相手を刺激するのは決して賢くはない。今はそっと、お互いに距離を――

「なぁ、」

 箸で持ち上げたばかりの玉麩が、ちゃぽんと音を立てて落ちる。

 とっくに味が染みている様にしか見えないというのに、それが二度も口にする機会に恵まれないというのはもしやまだ食べ頃ではなく。もう少し待った方がいい、とそういう事なのだろうか?なとど余計なことを頭の隅で考えながら、相良は一切取り乱すこともなく、自分の胸ぐらに手を掛ける、弥代を見た。

「何のつもり、でしょうか?」

 胸ぐらを掴まれることで、自然とその視界の大半は弥代で埋め尽くされる。わざわざ視ずとも分かりきっているものだが、距離を詰められればそれで視辛くなるなんていうのは自身が一番分かっているというのに、それでも一瞬いつもの癖で視ようとしたのが相良はおかしく。

 が、状況が状況である為にまちがってもそれを表には出していけないと思うのだが、それよりもやはりどうしても、突然自分にそんなことを仕掛けてきた相手がたまらなく、口角がついつい上がってしまった。

「やっ、弥代さん……‼︎」

 意識が、途絶えた。






 次に相良が目を覚ますと、さっきまでの座ったまま無理やり上を向かされていた姿勢とは打って変わり、とても楽な体勢をしていた。

 荷馬車で体を折り曲げ長時間座りっぱなしで過ごしていたのも含めると、一日の中で一番楽だとも感じる。

 直近で体を横たえることが多かったのの影響は暫く続きそうだと、今日以降も(彼女)と共に行動をするにしても時折荷馬車から降りて、(なま)った体を正すのに少しずつ歩くようにしよう、とそうした方がいいだろうと決めつつ上体をゆっくり起こすと、額に乗せられていたのだろう手拭いらしきものが落ちる。

 薄暗い室内であるが、その明るさには覚えがあった。先ほど宿側が用意してくれた夕餉をいただいていた、相良と春原の為に用意された部屋に違いない。

 廊下に繋がる襖のその脇に控えめに置かれた行燈(あんどん)がゆらゆらと、貴重であるはずの油がたかだか客人の為に浪費され火を(とも)している。

「目を覚まされましたか相良殿?」

 布団に横たわっていた自分のすぐ脇にいた春原よりも早く相良の容態を気にした言葉を発したのは、やはり絹であった。

 年下にあまり示しのつかない姿や、頼りにならない面を見せるのは、と今日だけで散々そんなことを考えていたが、同じように今日だけで幾度も(彼女)には振り回されているのが多い為に、徐々にもう気にしなくともいいのではないかと思えてしまうのは仕方がないのかもしれない。

 ともあれ宿屋に着いた時同様に、今の自分の状況を確かめる為に、何があったのかを(たず)ねると、まぁやはりとしか思えない事が起きていたようで、落胆と同時に後で落ち着いて考えればいいと先延ばしにしていた優先順位が決まる。

「まぁ、そうもなるというものです。」

 と、先ほど額に乗せられていたと思っていた手拭いは大きめに大きめに折り畳まれていたものだから、それは今も少しばかり痛む右頬に一緒に()てがわれていたのやもしれぬと思い至った。











 父である三ツ江文左衛門に手を引かれ、彼の生家である武蔵国(むさしのくに)を離れ共に移り住んだのが甲州街道の宿場町である吉野宿(よしのじゅく)だった。

 まだこの世に生を受けて実のところ十年そこいらの絹にとって、当初から三ツ江と共に暮らしていた吉野宿の日暮屋がほとんど全てであり、絹はあまり外の世界を知らなかった。

 けれどもあの日、父が自分の同胞である狼の群れに襲われこの世を去った日から、絹の世界は大きく様変わりしてしまった。

 ずっと側にいたはずの三ツ江に対し抱いていた想いの、その正体に始まり、自らの足で吉野の地を離れ三ツ江の生家にその遺体を運び、奥方に頬を(はた)かれたり、たった一度顔を合わせたことがあるだけの姉妹と呼ぶのは些か奇妙な関係の彼女と出逢い言葉を交わしたり。

 頼って構わないと言ってくれた、店が贔屓にしていた商人である西条(さいじょう)銀嶺(ぎんれい)の元に身を寄せ、既に広がったものだと思っていた世界は、より一層一気に大きくなってしまった。

 これまで知らぬことを学び、これまで知らぬことに触れることが出来る機会はどれも貴重で。それは誰かと出逢うことで初めて得ることが出来ることであると絹は捉えていたために、出逢いというものは大切にすべきであるとそう考えていた。

 恩人である西条銀嶺からの此度の頼みにしてもそうだ。

 これまでは彼の側に控えて学ぶ機会が多く、一人だけで何かを()せたことはまだ一度もない。でも、(たく)された。信用してくれているから托してくれたに違いないと、絹はやる気に満ちていたのだが、初手で出鼻を挫かれることとなってしまったのは誠に……本当に残念だった。

「――ですからですね、弥代さん。

 私は今日あの場所で貴女と再会を果たせた瞬間、とても嬉しかったのですよ。」

 なんて、長々と続けていた話を締めくくるように絹はそんな言葉を口にした。

 が、呼び掛けた相手はまるで聞く耳を持たぬようで、こちらに背を向けたまま無言で体を洗っているだけだ。

「…………お背中、流しましょうか?」

「……そういうの、要らねぇから。」

「おや、残念です。」

 濃ゆい湯気が満たされた内風呂であるが、目を離さぬ限りは相手を見失うこともない。

 弥代の返答というものは、少なくとも昨年絹が弥代と会った時のそれと比べれば然程変わらないように映るのだが、今日再会を果たした弥代の傍にいた二人の男性らの様子を見るに、どうやらこの一年と少しの間で弥代もある程度の変化があったのかもしれないと、そう思えた。

 何よりも昨年はその傍にいたはずの、三ツ江が自分の命と引き換えに守りぬいた扇堂雪那の姿がなかったのだから、当然ながら絹の知らぬことがあったのだろう。

 ただ、弥代と一緒にいた唯一の大人のようにも見えた相良と名乗った男の口振りからして、扇堂雪那の身に何かがあったわけ、ではなく、あくまでもこの一行の目的は、

(弥代さんの、息抜き……なんですよね?)

 言葉をどうにか選んでやっと出てきたのがそれだった、という風に、尻目に相良を見ていた絹の目にはそう映ったのだが、今日一日の弥代のだんまりであったり、先ほど二度もあった弥代と相良のやりとりを思い返してみると、弥代の息抜きを目的とするのなら相性がきっと悪いのであろう相良に距離を取らせた方が賢い気がしてきてならない。

 今宵の宿の部屋に関してだってそうだ。

日中の、荷台の相良と弥代との(あいだ)に流れる空気がいいものでなかったから絹はわざわざ部屋を分けたのだ。

 弥代の息抜きを目的とするのなら尚更、必要以上に一緒に居させない方がいいと考えての提案だった。(その分いくらか宿代は高くついてしまったが、あとで銀嶺に対し返すことになるのは自分なのだから何も問題はない)

 だと、いうのに。

(まさか少し目を離した間に二人きりになったり、さっきのだって……何をされたのでしょうか、あの相良殿という御方は?)

 馬屋に左吉(さきち)右吉(ゆうきち)を預けた(のち)、荷車の方で寝入ったままでいた相良を起こした。それから相良が眠っていた(あいだ)に起きた顛末(てんまつ)を伝えて、少し一人になって頭を整理させたいからと言われ望み通りに一人にさせたのだが、絹が用意された部屋に足を踏み入れるも先に案内されたはずの弥代はそこには()らず。宿の者に見掛けなかったかと(たず)ねれば草履を履いて庭の方に出て行ったと言うので同じように外へと出て探すと、直ぐに見つけることは出来たものの、といった状況であった。

 盗み聞きなんて行儀がよくないのだが、偶々(たまたま)耳にしてしまった限りでは(だって仕方がない、狼は人間以上に鼻も耳も優れているのだから)、どうやら相良が弥代の大切にしている刀、を騙すような形で無理やり預かったそうで。

(いや、片方の事情だけを知って肩入れをするのは良くないのだけども…………あっ、なんならどっちの事情も私はまだ知らないのか?)

 絹が今日弥代と言葉を交わしたのは数える程度。相良に関しては相手の方が喋るのを避けているように見えたもので、要望に答えるように一方的に父の話をするのが大半であった。

 それでも時折、相良との会話の中では度々相手の方の言葉が詰まることがあったので、話していいものかを常にその時になって判断しているような、少々まとまりきってなさが感じられた。

 けれども、そうだとしても相良()はとても落ち着いていて。少し寝入るだけだろうとたかを(くく)っていた眠りが半刻以上に及んだのを見るに、きっとまともに休息を取れぬままの急用であったのかもしれないと絹は考えた。

 外見だけを見ると十七、八ぐらいの娘に見えると言われることの多い絹であるが、実のところこの世に生を受けてからまだ十年かそこらで、知らぬことの方がこの世の中は多いのだが、そうだとしても人を見る目であったりというのは一応は(つちか)われているはずだ。

 京でも名の知れた商家(しょうか)である西条家の、今は当主の座を明け渡しているが先代当主の元で過ごし学んだ、(おおよ)そ一年間の積み重ねは伊達ではない。

 が、それは何も相良という男の事を疑っている、信じることが出来ないというわけではなく。

 だから彼の、相良志朗という人間の考えがまとまった暁にはそれを絹はちゃんと聞こうと考えていた。

 それに、ついさっきの夕餉の際に見た限りでは、あれは突然相良の胸ぐらを掴み拳を顔面に(はな)った弥代にどこからどう見ても非がある。直前まで相良と会話をしていたものだから余計にそう思えた。

 ただ、それらを抜きにしてしまう、絹個人としてはどうしても弥代の肩を持ちたくなってしまう気持ちがある。

「ねぇ、弥代さん。」

 声を掛ける。

 ちょっと前のように、断らないとならない内容で仕方なく返事を返してくれる、そんなのではなくて弥代自身の関心が自分に向いて、そうしてこちらを見てくれることを望んで。

「私……です、ね?」

 けれども、きっとこの思いを言葉にしたところで絹の気持ちは、なんだか弥代には伝わらないような気がしてくる。それならそれは多分、今伝えるべき言葉ではないのだろうな、とも次第に思えてくる。

 伝わってほしい言葉が、その思いがあるというのに口にしても伝わらないというのはなんだかとても寂しい。

 確か自分に瓜二つな彼女がそんな事をあの晩酒に溺れながらも口走っていた気がする。

(……あ、そういえば)

 ふと絹は、日中に弥代からそんなにお喋りだったか?とそんな事を(たず)ねられたのを思い出した。訊ねられたと言っても、どちらかというと独り言のようにぽつりと相手は小さく呟いていただけなのだが。

(そうですね、多分私はお喋りさんなのでしょうね。)

 それはもしかしたら、亡き父との数少ない思い出を誰かに知ってほしいと、故人を(しの)ぶ、少しでも覚えていてほしいという彼女のその気持ちが自分に少なからず影響を(もたら)したからかもしれない。

 そう思うとやはり、出逢いというものは大切なものであると、出逢わねば得られるものがあるのだと絹は自分の考えを改めて認めることにした。






「いえ……ですね。

 弥代さん、貴女はきっといきなりこんな事を言われれば困ってしまうと思うのです。だってそうでしょう、貴女は誰かから感謝を言われたり、恩を感じられたりとそういうのからは程遠いところに自分はいるとでもお考えの方でしょうから。なんでそんなのが分かるかですって?いえね、なんだかちょっとだけ、本当にちょっとだけなんですが、誰か突っぱねようとするその姿勢が父に……三ツ江殿に似ているのですよ。」

 ――――、なんて。

 風呂を出てからもずっと無言のまま、横並びの二組の布団のうち片方にあっという間に包まるように横になってしまった弥代の小さな背中をジッと見つめながら絹はそんなことを考えて、早くそれらを伝えられる日が来るのを期待して、今日は早めに休むことにした。

 人の世に身を置いている限りは、人に合わせて過ごさねばならない。本当はやっとそれらの感謝を伝えられることが出来るかもしれないという嬉しさから、遠吠えの一つでもしたくなるのだが、それはきっと、直接伝えられたその時の為に、今は大切に残しておこう。 

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