#12.
二度と離さないというように、このまま一つになりたいというように。
彼女を抱きしめる力は、痛いほどに強かった。その大きな体の中から、心臓の鼓動が聞こえてくる。
生きているという証が、強烈な安堵感と共に心の中に溶け出していった。息苦しかったが、腕の中に抱かれているのが心地よかった。リュエンに負けないよう、彼をぎゅっと抱きしめ返した。
互いに抱き合ったまま、どれほどの時間が過ぎただろうか。このまま時が止まればいいという考えを無理やり打ち消したプリシラが、彼の胸から顔を上げた。
こぼれ落ちた彼の髪が、彼女の頬をくすぐった。
「リュエン。このままあなたに言いたいことが山ほどあるわ。やらなきゃいけないこともたくさん。だからこそ、いつまでもこうして座り込んでいるわけにはいかないの」
「……」
プリシラの言葉に、彼女を抱きしめていた腕から少しずつ力が抜けていった。それでもなお、すべてを離しきれない様子が、彼の不安定な心を代弁しているようだった。
本当は、彼女ももっと彼を感じていたかった。リュエンが無事か確認したいし、怒鳴りつけたいし、その想いを受け止めてやりたい。けれど、心ゆくまで互いを確かめ合うには、まだなすべきことがあまりに多かった。
だから、気楽な甘えはすべてのことが終わってからにしよう。
「囚われの王子様を救い出したことだし、そろそろ魔王を討伐しに行こうかしら?」
「王子と、魔王……か」
状況にそぐわないプリシラの軽い返答に、リュエンの瞳が少し見開かれたかと思うと、苦笑が漏れた。
「プリシラ。私は、そなたにとって王子なのか?」
「今のところは、手のかかる奴隷一号ね。でも、奴隷を助けに行くより、王子様を助けに行く方が格好いいじゃない?」
プリシラの答えに、リュエンの表情が暗く沈んだ。王子、奴隷。いっそそうであれば、どれほど良かったか。
しかし、私は……。
「プリシラ。私は……」
「リュエン。言ったでしょう? あなたは私の傍にぴったりくっついて、これからは私の言うことを聞いて、私を幸せにすればいいのよ」
リュエンの口元に指先を添えたプリシラが、口角を吊り上げて言葉を継いだ。
「あなたはただのリュエン・シェイルグよ。『白い悪夢』でも『ガエルの亡霊』でもない。プリシラの、リュエン・シェイルグ」
「それでもいいのか? そなただけの私として……いてもいいのか?」
「もちろん。それでいいわ」
プリシラの断言に、リュエンの視界が潤んだ。今にも涙をこぼしそうな彼の姿に、プリシラはリュエンの頬を優しく包み込んだ。
「さあ、リュエン。復唱して。『私は、あなただけの王子様になれるよう努力します』」
「……私は、そなただけの王子になるために努力しよう。必ず」
「いいわ。期待してるわね」
最後にもう一度プリシラを強く抱きしめたリュエンは、名残惜しそうに腕を解き、口を開いた。
「プリシラ。この空間はエルフリーデが作った特殊な蠱毒の空間だ。容易にエルフリーデのもとへ辿り着くことはできない」
「そうね。あなたが満身創痍になるほどだもの、普通なら簡単には進めないでしょうね。……普通ならね」
「普通……とは?」
立ち上がったプリシラは、歪んだ執着と悪意のみで構築された悪夢の空間を見渡した後、彼に手を差し出した。
「おいで、リュエン」
導かれるように差し出された手を取る。リュエンを立たせたプリシラが問うた。
「リュエン。覚悟はいい?」
「……もちろんだ」
「よし。じゃあ、立ち向かう前に……」
プリシラが両手で彼の手を包み込んだ。
[能力付与:体力強化、精神力強化、魔力強化、防御強化、回復強化、打撃強化。強化レベル:最大値設定完了。]
「……! プリシラ、このエンチャントは……」
「魔王を討伐するのに、バフがないと始まらないでしょう? さあ、復讐の時間よ。そのためには、この空間をぶち壊して消し去らなきゃね!」
言い終えたプリシラは、リュエンを背にして立ち、剣を抜き放った。鋭く研ぎ澄まされた剣が虚空を裂くと、断ち切られた隙間から亀裂が走った。急速に広がった亀裂は宴会場全体を覆い尽くし、やがてパリンと音を立てて崩れ落ちた。
「どうやって……」
「これでも、かなり腹が立っていてね。使えるものは全部使わせてもらうことにしたのよ」
華やかな宴会場が消え去った跡には、薄暗がりの落ちる空間が現れた。
灯り一つない広大な空間には、淡い月光だけが差し込んでいた。大理石の床を見る限り、間違いなく室内であるはずなのに、白い霧が視界を遮っている。霧の向こうに一体何があるのか。湿り気を帯びた空気には、きつい香水の匂いと腐敗臭が混じり合い、不快な悪臭を放っていた。
一寸先も見えないはずの暗がりの中、プリシラには正午の街を歩くようにすべてが鮮明に見えていた。
かつては燦然と輝いていたであろう謁見の間は、わずか三年しか経っていないというのに、過去の栄光は欠片も見当たらなかった。
まるで数千年の月日が流れたかのように腐り果て、辛うじて形を留めている謁見の間の奥。色あせた玉座に、彼女は座っていた。非常に華やかな、しかし風化しきって原型を留めていないドレスを纏ったエルフリーデは、瞬き一つしなかった。
いや、違う。
瞬きをしないのではなく、できないのだ。瞼もなく大きく見開かれた目。溶け落ち、繋ぎ合わされ、もはや人間と呼ぶことすら憚られるほどに奇怪に変貌した顔。
「聖なる純白」。世界が醸した最高の創造物と謳われた王女がそこに座り、二人を凝視していた。玉座に座るエルフリーデの口元が、歪に吊り上がった。
『ついに、ここに足を踏み入れるか。忌々しい「黒い防壁」』
「ごきげんよう、エルフリーデ。初めまして、と言うべきかしら?」
プリシラの挨拶に応じるように彼女が手をかざすと、腐り落ちた謁見の間の床から茨の茂みが飛び出した。リュエンが反射的に彼女を抱き寄せ、手を伸ばす。しかし、彼が魔法で焼き払う隙もなく、茨は砕け散った。
『……どうして?!』
「リュエン。大丈夫だから、離して」
リュエンの腕から離れたプリシラは、軽やかな足取りでエルフリーデへと歩み寄った。彼女が一歩進むたびに鋭い攻撃が放たれたが、そのいかなる攻撃も、プリシラが展開した守護防壁を貫くことはできなかった。
二人の距離は、今や数歩。崩れ果てた顔であっても、エルフリーデの表情は憎悪に満ちていた。赤く充血した瞳いっぱいに、プリシラの冷徹な表情が映る。
『貴様ごときの力で私を止められるものか! 一体どんな卑怯な手を使ったのだ?』
「卑怯だなんて、心外ね。これはあくまで、あなたの罪の対価よ」
『罪? 対価だと? アハハハ! 無知な者の世迷い言とはこのことね。プリシラ・ライデン。本当にこれらすべてが私の罪だと思っているの? この悪夢の始まりが私だと?』
神経質な笑い声が謁見の間に響き渡った。その声に反応するように、部屋の隅に積み上げられたゴミの山が蠢いた。ゴミの中から這い出した、魔物にすらなり損ねた失敗作たちが、よろよろと身を起こす。
『私は何一つ罪など犯していない。このすべての悪夢の始まりは私ではなく、リュエン・シェイルグ! 何も知らないふりをして貴様の隣に立つ、その男なのだから!』
「そう? じゃあ言ってみなさいよ。リュエンが何をしたって言うの?」
『フフフ。貴様の傍にいるそれはね。私のために作られた「玩具」だったのよ』
「……!」
エルフリーデの叫びに対し、リュエンは弾かれたように彼女を攻撃した。しかし、リュエンの攻撃はあまりにもあっけなく防がれた。プリシラから強化を受けているにもかかわらず、彼の攻撃は届かない。
(なぜだ……!!!)
『フフッ。愛しいリュエン。当然でしょう? 私はお前の「主人」なのだから。お前は決して私を攻撃できない。私を殺すことはできないのよ』
体が細かく震えた。エルフリーデのもとへ共に来た以上、自分の正体が明かされるのは時間の問題だと分かっていた。自分から打ち明けようともしたが、彼女が拒んだため言わずにいた。
知られたくない。明かしたくない。プリシラは「人間」であるリュエン・シェイルグに約束したのだから。リュエンの視線がプリシラに向けられた。プリシラは、いかなる感情も読み取らせない視線で、無表情にエルフリーデを凝視し続けていた。
笑い声の向こう側から、エルフリーデがプリシラへと歩み寄る。止めなければ。引き離さなければ。だが、体が動かない。呪縛にかかった体は、こんな瞬間にさえ、彼女に逆らうことができなかった。
『プリシラ。リュエン・シェイルグは怪物よ』
(聞くな)
『貴様が拾って育てたのは、魔獣の核と魔物の血を人間の身体に注ぎ込み、私の命令にのみ従うよう設計された「キメラ」なのよ』
(知るな。頼む)
哀れみを示すかのようにプリシラの前に立った彼女が、プリシラを見上げた。その時だった。
「知っているけれど?」
『……は?』
淡々と続いたプリシラの答えに、エルフリーデの動きが乱れた。刹那の隙を見逃さず、プリシラはそのまま剣を振り上げ、エルフリーデの首を斬り飛ばした。噴き出した血が床を濡らす。独り残った胴体を蹴り飛ばしたプリシラは、冷ややかに言葉を継いだ。
「何を言い出すかと思えば。たったそれだけのこと? 失望したわ、エルフリーデ」




