#11.
鋭い何かが、重みのあるものを断ち切るような音がした。一拍置いて、重量感のあるものが床を転がる音が聞こえたのを覚えている。
しかし、それに続いて聞こえてきた声に、世界のあらゆる音が消え去ったかのような錯覚に陥った。閉じていた目をカッと見開いたリュエンの視界に、片目が潰されたプリシラの頭部が映った。
次第に光を失ったその頭部は、やがて塩の粉となって霧散した。視界の端には、だらりと振り下ろされた剣の切っ先があった。
心臓が、跳ねた。
漏れ出す吐息が熱かった。
片方しか残っていない瞳が、激しく震えた。
あり得ないことだ。彼女は死んだのだから。
存在するはずがない。これはすべて、エルフリーデが作り出した悪夢に過ぎない。
彼の精神を崩壊させるための地獄に過ぎないのだ。顔を上げれば、また別の悪夢が広がるだけだ。分かっている。
分かっている。
分かっているのだが。
それでも。
恐怖のあまり、どうしても顔を上げることができなかった。存在し得ない希望を信じて裏切られれば、一筋残った理性さえも吹き飛んでしまいそうだったからだ。これは虚像だ。私が望みを見せているだけだ。
信じるな。期待するな。訪れる死だけが、私に残された……。
「リュエン。腕はどうしたのよ? 痛くないの? ……いえ、痛くないはずがないわね。耳も、ひどい有様じゃない。……顔を上げて見せて」
続く彼女の声は、ひどく甘美な囁きを孕んでいた。世界のすべての音が消えたというのに、彼女の声だけは鮮明だ。
まるで本当にプリシラが生きているかのような、生気に満ちた声。その心配そうな声を聞いていると、虚しい笑みがこぼれた。実につごうの良い虚像だった。
万が一プリシラが生きていたとしても、彼にこのような声をかけるはずがないのに。
虚像だ。夢だ。現実ではない。
何度も自分に言い聞かせているにもかかわらず、リュエンは顔を上げられなかった。いっそ早く、彼女の剣が心臓を貫いてくれればいい。そうすれば、この過酷な希望という名の拷問も終わるだろうに。
「リュエン? 大丈夫?」
声が続く。コツ、コツ。歩み寄る音が聞こえた。一歩、二歩。近づいた虚像が彼の前に立った。見慣れた軍靴が視界に入った。いっそ目を閉じれば楽になれるだろうか。だが、目を閉じることができなかった。欠片でもいい。彼女に会いたい。
どうしても目を閉じられぬまま、彼女の軍靴の先を注視した。その瞬間、冷たく凍てついた彼の頬に、熱い掌が触れた。
吸い付くような、しかし指の腹にはタコの硬さがある荒れた手。何よりも柔らかく愛おしい手がゆっくりと、しかし反論は許さないと言わんばかりの強さで、彼の顔を上へと向けさせた。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、夜明け前のような清涼な光を湛えた両の瞳だった。
透明で美しく、どんな宝石よりも価値があると感じられる、プリシラの瞳。
少し伸びた髪が、白いうなじを覆っていた。歪んでいた最後の記憶とは全く異なる、生気のある頬と紅い唇。眉をひそめた彼女が、リュエンの左頬を愛おしそうに撫でた。
恋しくて、恋しくて、狂いそうだった彼女がリュエンの前にいた。夢にさえ現れなかった彼女が目の前にいる。詳しく見たいのに、視界が滲んでよく見えない。喉が詰まった。息ができなかった。
何度も唇を動かしたリュエンが、ようやく声を絞り出した。
「プリ、シラ」
溜まっていた涙が、ついに頬を伝って流れ落ちた。流れ落ちた涙は床に黒ずんだ軌跡を描いた。彼女の手が触れるたび、全身を蝕んでいた痛みが引いていった。
プリシラの温かな手が左目に触れた瞬間、閉ざされていた視界が戻ってきた。
「リュエン。目を開けて」
ゆっくりと閉じていた目を開ける。両の目いっぱいに広がるプリシラの姿。ああ、虚像ではない。夢ではない。現実の彼女が、彼の前にいた。
「どうして……」
言わなければならないことが山ほどあった。言いたいこともたくさんあった。しかし、言葉がうまく出てこない。かろうじて絞り出した彼の問いに、プリシラは当然だと言わんばかりに答えた。
「あなたを迎えに来たのよ、リュエン。さあ、帰りましょう」
「帰る……だと?」
「ええ。その前に、この体をどうにかしなきゃね。全く……一体どれだけボロボロになれば気が済むの? なぜこんなに自分の体を粗末に扱うのよ。次に会った時もこんな風だったら、もう治療してあげないからね?」
目も、耳も、腕も。彼女の手によって癒やされていった。まるで起きたことすべてが、ひどい悪夢に過ぎなかったかのように。長い夜は明けたのだと告げるかのように。
そんなはずはないのに。
元通りになった目、腕、耳。すべての感覚が彼女を求めていた。今すぐ駆け寄り、強く抱きしめて彼女を感じたい。これらすべてが現実であるという保証が欲しかった。
ふと見れば、宴会場の片隅に立つ「自らの幻影」が、冷ややかな目でリュエンを見つめていた。
『お前は兵器だ。壊す存在だ。そんなお前が、再び彼女に手を伸ばすつもりか?』
プリシラがどうやって生き延びたのかは分からない。だが、奇跡はめったに起きないからこそ奇跡なのだ。リュエンが傍にいれば、プリシラはまた壊れてしまうだろう。
彼女に手を伸ばしてはならない。望んではならない。
「私は……そなたの元へ戻ることはできない」
たった一文を口にするだけでも、どんな瞬間よりも痛く、苦しかった。いっそ腕がもがれ、耳が削ぎ落とされる方がマシだった。それでもリュエンは、告げるしかなかった。
「……何を言ってるの? ここにいたいっていうの?」
「いいや、エルフリーデは私の手で消滅させる。私によって始まったことだ、私がけりをつける」
「じゃあ、ただ私のもとへ戻りたくないって意味?」
「私は兵器だ、プリシラ。殺し、壊すことしかできない兵器。そなたの傍に戻ったところで、同じことが繰り返されるだけだ。だから……もう戻らない。それに……」
せっかく彼女が癒やしてくれたのに、もう彼女を見ていられる時間も残り少ないのに。どうしても彼女を直視することができない。
両目をきつく閉じたリュエンが言葉を継ごうとした、その瞬間だった。
――パチンッ!
額に加えられた熱い衝撃に、思わず閉じていた目を開いた。鮮明になった視界には、眉を吊り上げたまま片手を振り上げたプリシラの姿が映っていた。状況が理解できず呆然とプリシラを見つめていると、彼女はもう一度、彼の額にデコピンを食らわせた。
「うっ」
「リュエン。正気に戻った?」
「プリシラ。私は至って正気だ……待て、ひとまずその手をおろしてくれ」
リュエンの答えに、再び彼女がリュエンの額へと手を伸ばした。反射的に額を両手で覆うと、プリシラは目を細めて言った。
「貴方は本当に、無責任な臆病者ね」
「何……?」
「傷つけたから傍にいられない? ふざけないで、リュエン・シェイルグ。逃げたりしないで、自分が犯した罪を償いなさい」
「しかし……」
「反論は許さないわ。傷つけたのなら責任を取って。貴方がすべきことは、悲劇の主人公のように一人で解決しようとすることじゃない。多くの人に助けを求め、罪を償うことよ」
「プリシラ。私は、到底償いきれないほど大きな罪を犯した。誰も私を許しはしないだろう」
「それで? 許してもらえないから、許しを請いもせずに逃げ出すっていうの? そんなことさせないわ。貴方は一生私の傍で生きて、罪を償うの。それが貴方に与えられた唯一の道よ」
強圧的な、しかし拒絶できないほど甘美な言葉だった。込み上げる感情が透明な涙となり、頬を伝って流れ落ちる。
「私が……そのような選択をしてもいいのか? 本当に私が……そなたの傍にいてもいいのか?」
「ええ。私の傍にぴったりくっついて、これからは私の言うことを聞いて、私を幸せにして。それが、私を傷つけた貴方がすべき贖罪よ」
「私は、数えきれないほどの人を殺した。血塗られた私の手を、そなたに握らせるわけには……いかない」
今すぐ肯定したい。彼女に委ねたい。だが、そうしてはならないのだ。リュエンの答えに、プリシラは彼をじっと見つめた。手を伸ばした彼女が、彼の涙を拭ってくれた。温かな手が頬をかすめる。
「リュエン、リベリアで再会した時、私が貴方に言ったことを覚えている?」
彼女の問いに、リベリアで再会した日の記憶が鮮明に描き直された。記憶の中のプリシラと、現実のプリシラが、同時に口を開いた。
「貴方が望んで殺したんじゃない」
口がうまく動かない。リュエンがゆっくりと答えた。
「……殺したという事実は変わらない」
「ええ、そうね。貴方が一生かけて償っても返しきれないほど、大きな罪を犯したわ。だからリュエン、私が貴方の罪を半分背負ってあげる」
揺れる瞳が彼女を捉えた。あの日と同じ、晴れやかな微笑み。リュエンのすべてを受け入れてくれる微笑み。顔を歪めたリュエンが首を振った。
「だめだ。そなたに罪を背負わせるわけにはいかない」
「だめじゃない。貴方に選択権なんてないの」
「プリシラ」
「リュエン。罪だの何だのって話は全部置いておいて、貴方の『心』を言ってみて。貴方は私の元へ戻りたい? それとも、このまま別れて一人で死んでいきたい?」
残酷な問いだ。しかし、嘘を告げることはできなかった。
「私は……」
死にたかった。彼女のいない世界はあまりに凄惨で。だが、死ぬことができなかった。狂いそうでも生きなければならなかった。今もなお、彼は生きている。私は……ずっと前から……。
「生きたい。誰もが非難しようとも。そなたを傷つけようとも、そなたに罪を背負わせようとも。私は生きたい。プリシラ……そなたと共に」
「なら生きましょう、リュエン。私と一緒に。私が贖罪の道標になってあげる。一生私の傍で、私と一緒にいて」
プリシラが両手を広げ、言葉を継いだ。
「おいで、リュエン。私をきつく抱きしめて」
ああ、どうして拒むことができようか。この誘惑をどうして否定できようか。もう、耐えきれなかった。心臓が重なり合うほど、彼女を強く抱きしめる。清々しい夜明けの香りが、血の臭いしかしない彼の体に染み込んでいった。
お読みいただき、ありがとうございました!




