#15.
訝しげに首をかしげるプリシラの姿に、リュエンは答える代わりに彼女へと手を伸ばした。当然のことのようにプリシラがその手を取ると、彼女のドレスの色が瞬く間に塗り替えられていった。
白に近い金色のドレスは、先ほどとは正反対の色であったにもかかわらず、最初からそうであったかのように馴染んでいた。紅色に染まった髪飾りが、彼女の黒髪をいっそう引き立てている。
黒いドレスが儚く神秘的であったなら、今の姿は清純で甘やかだ。驚いたプリシラは、自分のドレスと彼の装いを交互に見比べ、やがて困ったように吹き出した。
「リュエン。あなた、本当に嫉妬深いのね」
「他人の色を纏って宴会場に来るそなたが悪い」
「ドレス一着プレゼントしてくれなかったあなたのせいでしょ」
「それもそうだな。リベリアに戻ったら、そなたに似合うドレスを山ほど贈ろう」
「えっ? もう必要ないわよ」
「さあな、また必要になるかもしれん。それにしても惜しいことをした。これほど美しいと分かっていれば、もっと早く贈っていたものを」
心底名残惜しそうに舌なめずりをするリュエンの姿に、プリシラは引いたような表情を見せた。それでも、繋いだ手は離さなかった。
二人の世界に没頭するあまり、皇帝の挨拶などは微塵も耳に入らなかったが、そんなことはどうでもよかった。
本格的な宴の始まりを告げる祝辞が終わり、穏やかな音楽が流れる中、パートナーと共にダンスが始まった。
皇帝がプリシラにダンスを申し込む前に、自分が先に申し込んだことまでは覚えている。
彼女が嬉しそうに笑い、自分の手を取ったことも覚えている。
だが、それ以降の記憶が曖昧だった。まるで深い霧が立ち込めたかのように、すべてが不確かで思い出せなかった。
ただ、誰かが自分を呼び続けていたことだけを覚えている。
誰かが……。
立ち込めていた霧は、瞬く間に晴れた。闇が降りた宴会場は半壊していた。季節外れの冷たい風が、リュエンのうなじを撫でて吹き抜けていった。
状況を理解できないリュエンは、呆然と、ただ呆然と目の前の光景を見つめていた。確かに目は見えているはずなのに、何も見えないかのようだった。
ああ、そうだ。これは幻覚だ。そうでなければ、こんなことが起こるはずがない。
「プリ、シラ……」
「……よかった、リュエン。やっと、正気に戻ったのね」
思わず彼女の名を呼ぶと、うなだれていたプリシラがゆっくりと顔を上げ、彼を見つめた。潰れた片目から流れる血が、ひどく赤かった。彼が染め上げた白いドレスは、彼女の血によって赤く、そして黒く変色していた。貫かれた腹の向こう側に、崩れた皇城の一部が見えた。
彼女らしくない、あまりに弱々しい吐息が聞こえてきた。
「ごめん、ね。リュエン……。正気を……失った、あなたには……負けないと、思っていたのに……」
伸ばされていた手が力を失うと同時に、プリシラの体が糸の切れた人形のように力なく崩れ落ちた。床に流れた血が水溜まりを作っていた。
理解ができなかった。これは一体、どんな質の悪い悪夢だというのか。呆然と視線を落としたリュエンは、血溜まりの向こうに映る自分の姿を見つめた。
プリシラの血を浴びたまま立ち尽くす彼は、片手に何かを握りしめていた。視線を落としてはならない。心を裏切る体は、ゆっくりと視線を下ろし、手に握られたものを視界いっぱいに捉えた。光を失った瞳の色は、夜明け前のような青紫色。
「あ……」
ああ……。
「ああああああああああああああっ!!!!!!!!!」
これは夢だ。すべては夢だ。現実であるはずがない。そうだろう。
プリシラ。お願いだから私を起こしてくれ。この悪夢の中から。
頼むから。
***
「はは……あはははは!」
目の前の状況を眺めていると、笑いを堪えることができなかった。ミラベル・ベルクは、死体の山が築かれた空虚な宴会場で、狂ったように笑った。
そのけたたましい笑い声に、座り込んでいたリュエンの視線がミラベルへと向けられた。欠片の感情も宿っていないその瞳が、かえって膨大な絶望を孕んでいるかのようだった。
笑いがこみ上げる。狂おしいほどに笑いが止まらない。
コツ、コツ――。
靴音が、静寂の降りた宴会場に大きく響いた。互いに手を伸ばせば届く距離。ミラベルが倒れたプリシラに手を伸ばそうとすると、リュエンがそれを遮った。
「ミラベル・ベルク……貴様がこの悪夢を作り出したのか?」
「本当に、身勝手な責任転嫁ね、シェイルグ。この悪夢を私が作ったかって? そんなわけないじゃない。『白い悪夢』はあなたなのだから」
「……」
そんなはずはない。信じられない。刹那、リュエンの顔に感情がよぎった。それを見て、ミラベルはいっそう深い笑みを浮かべて答えた。
「もちろん、私がほんの少しのきっかけを与えたのは事実よ。でも、これはすべてあなたが作り出した悪夢なの。白い悪夢」
「そんなはずがあるか! 私が……プリシラを……!」
リュエンの叫びに、辛うじて残っていた宴会場の外壁がガラガラと崩れ落ちた。殺意の込められた攻撃だったが、感情に任せたリュエンの攻撃は、守護障壁を纏ったミラベルには通用しなかった。
「私がしたのは、あなたの心の中にある衝動を、ほんの少し膨らませただけ。正直、エルフリーデの話を聞いた時は半信半疑だったわ。だって、愛する人を壊してしまいたいなんて思う狂った人間が、存在するはずないでしょう?」
エルフリーデという名に、リュエンの視線がミラベルへと向けられた。真っ青に染まった顔は、実に見ものだった。この姿をプリシラに見せてやりたかった。
「ほんの少しの膨張。それも、あなただけに植え付けたわけじゃないわ。あなたとアイザック、二人ともに植え付けたの。そして結果を見て。アイザックはシラを独占したいとは願っても、彼女を傷つけたいとは思わなかった。だから命を懸けてシラを守ったわ。けれど、あなたは?」
ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた記憶の中に、アイザック・ペインを見た覚えがあった。以前とは違う姿。人間ですらない姿だった。プリシラですら彼を拒絶した。しかし、彼はプリシラを守った。
すべてを壊そうとするリュエンから。彼は、プリシラを守ったのだ。
「そんな……はずが……」
間違った記憶だ。あり得ないことだ。
それでも心臓が激しく脈打った。呼吸がうまくできない。血に染まった手が、手に持った青紫色の瞳が。すべてが真実であると刻み込んでいた。
「可哀想なシラ。だから言ったじゃない。『あれはあなたを何度も殺そうとしたクズよ』って」
ミラベルの瞳に深い悲しみがよぎったのも束の間、悲しみはすぐに凄まじい怒りとなってリュエンへと向けられた。
「忌々しいシェイルグ。これで満足? 兵器の分際でシラを汚し、彼女の幸せを蹂躙し、挙句の果てに彼女を壊して……楽しい?」
私は兵器だ。
殺し、壊し、消し去るもの。私の傍にあるすべてのものは、儚く消えていく。それが私の存在意義なのだから。
刷り込まれた言葉が、滅茶苦茶になった頭の中に響き渡った。それと同時に、想像の中の声が現実となって現れた。血溜まりの中でうなだれるリュエンの顎を、誰かが優しく持ち上げた。
エルフリーデが柔和な笑みを浮かべ、リュエンを見下ろしていた。彼の記憶の中に残る、美しい彼女の姿だった。
「だから言ったでしょう? あなたの居場所は、私の隣なのだと」
「エルフリーデ……」
「リュエン。私はあなたにお願いしたわ。彼女はあまりに美しい人だから。綺麗な人だから。彼女が壊れてしまう前に、私のところへ戻ってきてと」
あまりに悲しげに、エルフリーデの目元がしっとりと濡れた。溢れた涙が頬を伝い、血溜まりに軌跡を残した。腰を下ろしたエルフリーデがリュエンの肩を抱き寄せた。彼女の白いドレスに、赤い血が染み込んでいく。
「これで満足でしょう。あなたの傍には私しかいられないということを、理解したでしょう。リュエン、さあ戻りましょう」
「私は……私は……ダメだ、戻れない」
プリシラをこのまま置いていくことはできない。このまま、すべてを終わらせるなんて……。
リュエンを抱きしめていたエルフリーデの顔に、ピシッとひびが入った。エルフリーデの口角が奇妙に歪んだ。
「いいえ、あなたはもうここにはいられないわ。リュエン・シェイルグ」
「エルフリーデ?」
「あなたも分かっているでしょう? 自分の手で彼女の目を抉り、腹に穴を開けた。健気なプリシラ……死に際でさえ数多くの人々を守り、ついにあなたの正気を取り戻させた。でも、もうおしまいよ」
エルフリーデがリュエンの顔に手を伸ばすと同時に、作り上げられた彼女の顔が完全に崩れ去った。リュエンは反射的に後ずさったが、エルフリーデの動きの方が早かった。縄のように伸びた彼女の腕が、リュエンをぐるぐると巻き付けた。エルフリーデがにやりと笑った。
『リュエン、帰ろう。私たちの家へ。』
永遠の奈落へ。
『心配することはないわ。壊して、また壊して。何も残らなくなれば、狂おしい感情さえ消えてなくなるから。』
どうせお前の幸せは、もう自分自身で壊してしまったのだから。
行き場のないお前に残されたのは、地獄以上の奈落だけなのだから。
冷たい夜気が染み込む宴会場に、暗い光のポータルが開いた。リュエンを抱きかかえたエルフリーデがポータルの向こうへと消えていくのを見届け、ミラベルは両手をきつく握りしめて言った。
「エルフリーデ。約束を守りなさいよ」
『もちろんだよ、ミラベル。この世界が滅びようとも、あなたの領地、あなたの領民、あなたの家族は無事だ。それがどれほどの意味を持つのか私には分からないけれど。……幸せになりなさい。』
ポータルが消えた跡、一人立ち尽くしたミラベルは、乱れた髪をかき上げた。
これでいいのだ。
「プリシラ。あなたはいつも、ゆっくり休みたがっていたわね。表には出さなかったけれど、いつも私を羨ましそうな目で眺めながら」
さあ、ゆっくりお休み。
どうせこれからの世界は、あなたがいてもいなくても絶望しかないのだから。
第3章も、間もなく……。また皆様にお会いできる日を楽しみにしています。




