#09.
早朝、いつもより早い時間に目を覚ましたプリシラは、実に久しぶりに晴れ渡った空を眺めながら、遠い目をした。
ここ数日、空に穴でも開いたのではないかと心配になるほどの豪雨が続いていたが、今日はいつ雨が降ったのかと言いたくなるほど、目が眩むほどに世界が明るかった。
「……結局、この日が来てしまったのか」
この数日間、空は自分の味方をしてくれたが、無情にも一生味方をしてくれるわけにはいかないようだった。
まあ、一生雨が降り続くというのも問題だろう。現状で非があるとするなら、数日間の猶予があったにもかかわらず、リュエンを説得しきれなかった自分自身の落ち度だ。
(ええ、仕方のないことよ。私はすでに承諾してしまったし、リュエンはチャンスをくれたのだから。はぁ……自分の情けない交渉スキルが恨めしい)
今日に限ってやけに眩しい空を眺めていると、プリシラの部屋にノックの音が響いた。プリシラが顔を向けると同時に、体が宙に浮く浮遊感に襲われ、反射的にリュエンの首をぎゅっと抱きしめた。
「リュエン。挨拶もなしに抱き上げるなんて、驚くじゃない」
「おはよう、プリシラ。一日は短いというのに、そなたが部屋に閉じこもっているからいけないのだ」
「まだ日が昇って三十分も経ってませんから!」
プリシラがリュエンの髪をくしゃくしゃにしながら叫んだが、リュエンはそれすらも嬉しいのか、陽光のような微笑みを浮かべて答えた。
「もうそんなに経ったか? 一日は本当に短いな。プリシラ、行く場所が多いから早く準備をしよう。約束、覚えているだろう?」
「ええ……覚えているわよ」
そうだ。今日はリュエンへの埋め合わせの一つである「一日中、プリシラを抱きかかえて過ごす日」だった。
食事はもちろん、街へ出る時もリュエンがプリシラを抱いていることに決めた……そんな日で、雨の日は事故の危険があるから晴れた日にしようと、プリシラが先延ばしに先延ばしを重ねて稼いだ数日間の猶予だったのだ。
(まあ、意味はなかったけれど)
リュエンに抱かれたまま、乱した彼の髪を整えてやっていたプリシラは、遠い目で数日前の出来事を回想した。
降りしきる雨の中、魔の森を抜けて瞬時に家へと移動することになったプリシラの頭の中は、珍しく複雑な状態だった。
突如現れた聖域を作る魔獣のことや、ドッペルゲンガーのこと。
何より、すっかり怒らせてしまったリュエンをどうなだめるべきかが最大の悩みだった。急場しのぎで「埋め合わせを三回する」とは言ったものの……今思い返せば、少し焦って決めてしまった気がした。
顔いっぱいに華やかな笑みを浮かべている彼が、どんな要求をしてくるのか想像もつかない。プリシラは引きつった笑みを浮かべながら、冷や汗を流すしかなかった。
プリシラが困惑していることを誰よりも分かっているはずのリュエンも、その日は彼女を助けてはくれなかった。
プリシラ自身も、もし逆の立場なら烈火のごとく怒ったに違いない状況だったため、彼を責めることもできなかった。
リュエンは無言でプリシラを居間のソファへ連れて行って座らせると、自分はソファではなく床に腰を下ろし、プリシラの膝をテーブル代わりに顎を乗せた。
プリシラを見上げる彼の視線は、どこか見慣れないようでいて、拗ねた子供のようでもあり、なぜか笑いがこぼれそうになった。
(ダメよ。この状況で笑ったりしたら、本当に大変なことになるわ)
必死にこみ上げる笑いを堪えたプリシラは、リュエンの乱れた髪をかき上げながら言った。
「リュエン。すごく心配させたわね、本当にごめんなさい。埋め合わせは何がいいかしら? 私にできる範囲で、法的に問題がないことなら何でもしてあげる」
「プリシラ。こういう時に『何でも』という言葉を使ってはいけないと、知らないのか?」
「それはもう、誰よりも分かっているわよ。でも、あなたなら大丈夫だもの。心配をかけた分、あなたの心を落ち着かせてあげたいの。あ、でも対人関係への干渉はダメよ」
「今、何でもすると言ったばかりではないか」
「それは『何でも』には入らないことなのよ」
「理屈だな」
目を細めてプリシラを見つめていたリュエンは、自分の髪を撫でていた彼女の手を掴んで自分の頬へと引き寄せ、言葉を続けた。
「埋め合わせの前に、そなたに起きたことを知りたい。プリシラ。魔獣はなぜそなたを連れ去ったのだ? 姉上を探したいだけなら、その場で話をすれば済むことだったはずだ」
「ああ、それね。ええ、その話も含めて、あなたに話しておくべきことがいくつかあるわ」
リュエンの問いに、プリシラは彼と合流する前にケルピーと交わした会話を伝えた。特にケルピーがリュエンを警戒していたことや、不幸になる未来については、可能な限り原文のまま伝えた。
話を聞き終えた彼の瞳が揺れた。思わず立ち上がった彼は、プリシラの隣に座るなり、そのまま彼女を強く抱きしめた。暖炉のすぐそばにいるというのに、彼の体は冷たかった。
「プリシラ。私は決してそなたを……」
「リュエン。大丈夫よ。不安になることはないよ」
彼を抱き返したプリシラは、ひょいと顔を出すと、にっこりと微笑んだ。
「私があなたにこの話をしたのは、あなたを不安にさせたかったからじゃない。そもそも未来なんて不確かなものでしょう? それとも何? あなたは私をめちゃくちゃに壊してしまうつもりなの?」
そんな考えがないわけではない。
しかし、それは決して実行されることのない事柄だった。この小さな体に、柔らかな肌に、傷一つでもつけようものなら、リュエンは自分自身を許せないだろうから。
「……私の命に代えても、そなたに害をなすことはない」
「ほら! だったら、それはただの世間知らずな魔獣のたわ言だったってことよ。そもそも……」
誓いを口にしてもなお暗い表情のリュエンに、プリシラは笑いながら彼の頬を撫でた。
「十五歳の時以来、あなたが私の障壁を破ったことなんて一度もなかったじゃない。卑怯にも周囲の地形を崩したりはしたけれど」
「卑怯とは。あれは……」
「戦術だって? それでも卑怯よ! 私があなたを食い止めるのにどれだけ苦労したと思ってるの? 思い出したら腹が立ってきたわ。復讐してやるんだから」
「プ、プリシラ? 待て。痛いぞ」
「痛いようにやってるのよ!」
ちょうど手が絶好の位置にある。彼の頬を容赦なく引っ張ると、リュエンの表情はようやく和らいだ。彼はプリシラの両手を制しながら言った。
「プリシラ。埋め合わせを何にするか決めたぞ」
「あっ」
そうだ。今のプリシラは、リュエンの機嫌を損ねてはいけない立場だった。
(まさか、高度な罠だったのか?)
気づいてももう遅い。プリシラはぎこちない動作で彼の顔から手を離そうとしたが、リュエンが離してくれなかった。彼の紅色の瞳が深い光を湛えた。
「そなたが私の所有物であることを証明する必要がある。一日中、私の腕の中にいてくれ」
「一日中、腕の中……? つまり、一日中抱っこされていろっていうこと?」
「そうだ」
「嫌よ! 不便だし、人権侵害だわ! それに抱っこされたままじゃ一日中家にいなきゃいけないじゃない。息が詰まるわ!」
プリシラの猛烈な拒否に、リュエンは眉を吊り上げた。彼は口角を上げ、言葉を継いだ。
「そなたが私の所有物であることを証明する必要があると言っただろう? 家にこもるつもりもないし、不便な思いもさせない」
「はあ? そんなことできるの?」
「当然だ。すでに何度も経験しているだろう?」
「えっ? ……あ」
言い終えたリュエンが、プリシラを片手でひょいと抱き上げた。この姿勢は確かに両腕が自由になり、安定感がある。けれども。
(これ、子供にする抱き方じゃない!)
リュエンの言う通り、何度もこうして抱かれたことはあったが、それはあくまで不可抗力だった時だ。よりによって一日中この姿勢でプリシラを?
「あなた、本当に腕が抜けるわよ」
「まだそんなことを言っているのか? ちょうどいい。今回試してみて平気なら、次からもこうして過ごせるというものだ」
しまった。話をそらさなきゃ。
「あの、リュエン。できればこういう姿勢は遠慮したいのだけれど……」
「これが嫌なら、お姫様抱っこをする方法もあるが?」
「……この姿勢で合意しましょう」
お姫様抱っこは絶対に御免だ。プリシラの素早い返答にリュエンが微笑んだ。あっ。また丸め込まれた。
「いや、この姿勢も嫌よ。リュエン。別の頼みにして……」
「断る」
うう、詰んだ。
「じゃ、じゃあ、せめて晴れている時に決行することにして。雨道は視界も悪いし、危険かもしれないから」
「私は構わないが?」
「ダメよ。あなたが雨道で滑ったりでもしたら、私も一緒に怪我をするじゃない」
「そんなことはありえないが……。よかろう。万が一ということもある。いいだろう、受け入れよう」
降っている雨の量からして、一日二日では止まないことは明白だった。その間にリュエンを説得し、もっと軽い内容へ誘導しよう。
(誰にでもそれらしい計画というものはあるものよ。実行できないだけでね)
言葉でリュエンを誘導することなどできないと分かっていながら、能天気にやり過ごしてしまった過去の自分を叱咤し、現実のプリシラは虚脱した笑みを浮かべた。
後悔しても始まらない。避けられないなら楽しまなければ。
そう。諦めれば楽になるものだ。
すべてを悟ったプリシラは、リュエンに抱かれたまま一階のキッチンへと降りていった。




