#07.
抱きしめたままプリシラの肩に顔を埋めているリュエンの姿に、思わず笑みがこぼれた。プリシラは彼の髪を優しく撫で下ろした。指に絡まる髪は柔らかく、心地よかった。
「いいよ。埋め合わせは三回にしましょう。その代わり、ここは私に任せてくれる。いい?」
「……分かった」
「後で別のことを言っちゃダメよ。裏工作もしないこと。勝手に殺したり傷つけたりしてもダメ。約束できる?」
「……約束しよう」
不満げに目を細めるリュエンの様子に、口角を上げて笑っていたプリシラは、彼に抱かれたまま体だけを後ろにひねって魔獣を見やった。後ろから抱きしめられる形になったが、どうせリュエンが離してくれないのは分かっているので、この姿勢で妥協することにした。
「話が遅くなった。本題に戻るけれど。お姉さんに会わせてほしいと言っていた?」
「そうだ。だが……」
「話はそこまでよ。それ以上はダメ。あなたも今見たでしょう?」
プリシラの傍にリュエンがくっついているのが、よほど気に入らないのだろうか。魔獣はプリシラと二人きりの時とは全く違い、険しい表情を緩める気配を見せなかった。
(ちょっと待って、せっかくリュエンを落ち着かせたのに、あっちが喧嘩を売ってるじゃない)
これでは本末転倒だ。プリシラは少し厳しめの口調で答えた。
「あなたが有害な魔物じゃなくて、聖域を作れる『聖獣』だから助けるって言ったの。だからリュエンを刺激しないで。手出しもダメよ。言葉も慎みなさい」
「お前はそれでいいのか? 自分を犠牲にしてまで、本当にあの男と共にいたいと願うのか?」
まるで何かを知っているかのような魔獣の真っ黒な瞳がプリシラを、さらには彼女の背後にいるリュエンを射抜いた。その視線に、プリシラを抱きしめるリュエンの腕に力がこもった。
(あぁ、もう、本当に)
最近出会う者たちは、どうしてこうも話が通じないのか。
「もう一度同じことを言わせたら、助けてあげないよ」
「はぁ……強情な奴だな」
「あなたに言われたくないよ」
「お前がそう望むなら従うまでだ。ただし」
プリシラの答えを聞いた魔獣が、ゆっくりと歩み寄ってきた。手を伸ばせば届く距離で、魔獣はプリシラを見下ろした。そしてプリシラの頭の中に、魔獣の声が直接響いた。
[私はケルピーだ。いつかお前が私を必要とする時、私の名を呼べ。お前一人では、決して彼を相手にはできぬゆえ。]
確かに口は開いていないのに、耳ではなく脳に直接声が響いた。プリシラが目を丸くして魔獣——ケルピーを見つめると、リュエンが不安げな瞳で彼女を見つめながら尋ねた。
「プリシラ? どうした?」
「何でも……いや、後で話してあげる。それと、あなた。心配してくれるのはありがたいけれど、そんなことにはならないから気にしないで」
「さあな。これはすでに決まった未来だ。お前がいくら変えようとしても、決して変わることはない」
「それは行ってみなきゃ分からないことでしょう。とにかく!」
プリシラはケルピーを睨みつけながら言葉を継いだ。
「これ以上、私の家族を刺激しないで。分かった?」
「……承知した」
「約束して」
「約束しよう。お前が望まない限り、私は決してこの男には手を出さない」
「よし。お姉さんは魔の森に戻せばいいのよ?」
「いや」
「なるべく今日中に話を……え? 違うの?」
「ああ。ここへ戻す必要はない」
「じゃあ、どうやって会うつもり?」
「私が行けば済むことだ」
ん?
「……ええ?」
どうやら魔獣と人間の間には言葉の壁があるらしい。理解が追いつかない。プリシラが通訳を求めるようにリュエンを見上げると、頼られたのが嬉しいのかリュエンの目尻がわずかに下がった。リュエンが答えた。
「プリシラ。奴が言う姉上というのは、先日会ったドッペルゲンガーのことか?」
「当たり。説明してないのに、よく分かったね」
「大体そんなことだろうと思ったからな。あのドッペルゲンガーなら、奴が言う通り戻さない方がいいだろう」
「どうして?」
「洗脳、あるいはそれに近い何かにかけられ、自分で思考できなくなっているようだった」
「えっ? そうだったの?」
「ああ。そうでなければ、ドッペルゲンガーがこれほど容易く人間に捕まるはずがない」
「言われてみれば、そうね……」
リュエンが傍にいたから簡単に処理できたのだと思っていた。考えてみれば、高い知能を持つS級魔物にしてはあまりにあっけなく捕まっていた。ただ。
「あなた、聖域を作れるでしょう? それなら神聖魔法も息をするように使えるんじゃないの? あなたがお姉さんを治せばいいじゃない」
「解呪をしたとしても、聖域の外に出た瞬間に彼女は再び洗脳にかかることになる。私の聖域は範囲が狭い。一生、狭い聖域に閉じ込めておくわけにもいかないだろう?」
ふむ。なるほど。一理ある。
「そうだとしても、人間の傍に置くのは無謀すぎるよ。刺激しそうだから言わなかったけれど、あなたのお姉さんは帝国の貴族の配下にいるの。拷問はされないだろうけれど、安楽な環境でもない」
「罪なき命を虐殺するよりはマシだ。それに、お前ならあの子を比較的安全な場所へ送ったはずだからな」
「……つまり、わざと私とリュエンがいる場所に、お姉さんを解き放ったっていうこと?」
「言葉にすれば、そういうことになるな」
(心臓が強いわね……)
もちろん、大切な家族に残された選択肢が二つしかなければ、プリシラも似たような選択をしただろう。問題は、これをライディスに説明するのが厄介だということだが……。
少し悩んだが、ケルピーは理知的で対話も可能な個体だ。プリシラが間に立って言葉を伝えるより、ライディスと直接交渉させる方がいいと判断したプリシラが答えた。
「分かった。じゃあライディス公と接触させてあげる。安全だとは伝えておくから。お姉さんとあなたが安全だということは、直接ライディス公に証明して」
「恩にきる」
「じゃあ早速……」
「ラフェルはそなたの頼みを聞き入れるため、帝国へ向かったはずだ。当分は戻ってこられないだろう。奴を家で寝かせようとでもいうのか?」
「……だそうだから、ライディス公が戻ったらあなたを呼ぶわ。呼べば来るって言ったわよね?」
リュエンの返答が気に入らないのだろうか。ケルピーは深い溜息をつき、不満げな視線でプリシラを見つめた。それでも、ダメなものはダメだ。
リュエンとケルピーを一つ屋根の下に置いたら、家が持たないどころか、リベリアが消滅してしまいそうだから。
プリシラが全身で拒絶の意思を示すと、ケルピーは不満を隠せない顔で承諾した。
「致し方ないな」
「ライディス公は交渉に強いから、すぐに戻ってくるわ。少しだけ待っていて」
「分かった。では……」
「話は終わりだ。プリシラ、帰るぞ」
「えっ? いや、まだ話が終わってない気が……」
「これ以上は聞く価値がない」
ケルピーの言葉を遮ったリュエンは、片手でプリシラをひょいと抱え上げた。それと同時に、周囲が金色に染まった。
(あっ、これは)
プリシラが言葉を発する暇もなく浮遊感が彼女の体を包み、反射的に閉じた目を開けると、二人は玄関の前に到着していた。目を細めたプリシラが、リュエンの両頬を掴んで言った。
「リュエン。挨拶くらいして別れなきゃ」
「プリシラ。私は今、怒っているのだが」
「……っ!」
そうだ。今のリュエンは凄まじく怒っていたのだ。
そしてプリシラは、埋め合わせを三回もしなければならない状況だ。プリシラは引きつった笑みを浮かべ、掴んでいた両頬を離した。
「あの、リュエン? お手柔らかにしてくれるわよね?」
「何をだ?」
「ええと……色々と?」
プリシラの問いに、リュエンが晴れやかに微笑んだ。こんなに満面の笑みを浮かべるリュエンは初めて見る。
「さあな。そなたの態度次第だろう」
……一難去ってまた一難。プリシラの大変は、まだ終わっていないようだ。




