#05.
駆ける魔獣の背から飛び降りた瞬間、空を飛んだ時に感じたあの不快な浮遊感が全身を襲った。プリシラは着地する直前、自身の周囲に守護結界をぎゅっと凝縮させた。結界は外からの衝撃は防げるが、中で足が滑れば大惨事になりかねない。
慎重を期して、地面に触れる寸前に空中で鮮やかに宙返りを決めた。
(久しぶりにやったけれど……腕が鈍ってなくてよかった)
軍にいた頃、「真の軍人たるもの、宙返りくらいは嗜んでおくべきだ」と無理やり練習させられたのが、こんなところで役に立つとは。実戦では一度も使い道がなかったのに。
(やっぱり、何でも学んでおいて損はないわね)
無事に地面に降り立ち、安堵のため息をついたプリシラは、即座に態勢を整えて立ち上がった。猛スピードで走っていた魔獣は、プリシラが飛び降りた勢いで急には止まれなかったようだ。
豆粒ほどに見える距離まで走り抜けてようやく足を止めた魔獣は、体を翻して再びプリシラへと駆けてきた。プリシラは素早く剣を抜き放つ。あれほど遠くまで行ったというのに、彼女の目の前に到達するまで時間はかからなかった。
魔獣がちょうど間合いに入った瞬間、プリシラは剣先を突き出し、ぴしゃりと言い放った。
「止まって! もう一度私に触れたら、容赦なく攻撃するわよ」
[……。]
幸い、知能の高い魔獣は言葉を理解したようだった。魔獣はプリシラから数歩離れた、しかし、いつでも彼女を連れ去ることのできる距離で立ち止まり、真っ黒な瞳でじっと彼女を見つめた。
プリシラが問いかける。
「あなた、私に害をなすつもりはないみたいね。どうして私を攫ったの? 私に助けを求めたいのなら頷いて。違うなら首を振って」
魔獣は知能が高いとはいえ、あくまで獣だ。声帯の構造が違うため、会話を交わすのは難しいだろう。そう考えて例を挙げたのだが、魔獣は何も言わずに彼女を見つめるばかりだった。
(あれ……?)
おかしい。言葉は通じているはずなのに。
怪訝そうに首を傾げていると、プリシラはもう一度尋ねた。
「助けを求める以外に、別の理由があるの? そうなら頷いて。違うなら首を振って」
――コクン。
今度はプリシラの言葉が終わるより先に、はっきりと頷いた。話が通じて一安心だ。理由を問おうとプリシラが口を開きかけた、その時。魔獣の顔つきが急に険しくなり、辺りを鋭く見回した。何かを警戒しているようで、プリシラから少しずつ距離を置き始めた。
(えっ?)
助けが必要だと言ったのに、なぜ離れるのか。不可解に思ったプリシラは、誘われるように魔獣へと歩み寄った。害はないとはいえ、警戒対象であることに変わりはない。全神経を研ぎ澄ませながら近づくと、魔獣は小さな池のある方向へと後退していった。
そして。
「うわっ?!」
プリシラが池のそばに辿り着くと同時に、水面が大きく膨らみ、そのまま彼女と魔獣を包み込んだ。驚いたプリシラは反射的に手をかざし、守護結界の範囲を広げた。しかし、水は彼女たちを優しく包み込むだけで、何の危害も加えなかった。それどころか、水の球体の中には、魔の森とは思えないほど清らかな空気が満ちていた。
これは、まるで……。
「聖域?」
聖域とは、あらゆる毒気と悪意を退ける神聖な領域。超高ランクの浄化魔導師や浄化スキル保持者のみが作り出せる奇跡の力だ。また、聖域は力の強さではなく、清らかな心を持つ存在だけが足を踏み入れることを許される、神聖な空間でもあった。
どうして魔獣が聖域を作れるの? この魔獣、一体何者なの?
呆然と周囲を確認していたプリシラは、ふと傍らに立つ魔獣に視線を落とし、再び信じられないものを見たという風に目を見開いた。
「えっ?」
つい先ほどまで目の前にいた白い馬は影も形もなく、彼女と同じくらいの年齢の青年が一人、プリシラを見下ろして立っていた。雪のように真っ白な髪と、対照的な漆黒の瞳。伏せられた瞳を縁取る長い睫毛が、どこか現実離れした官能的な美しさを漂わせている。
リュエンの顔で見慣れているはずなのに、それでも息を呑むほどの美男子が目の前に現れたため、プリシラは困惑しながら呟いた。
「あなた、誰……? さっきの魔獣は?」
「魔獣は私だ。その姿では対話が難しいため、人の姿に擬態した」
擬態?
魔獣が言葉を話し、人間の姿にまで変われるなんて初耳だ。一体どうなっているの。
(いや、外見を変える魔法自体は、不可能じゃないけれど……)
魔獣は「擬態」と言ったのだから、変身魔法を応用したものだろう。しかし、肉体そのものを変形させる魔法は、習得は簡単でも応用が極めて難しい高難度魔法だ。聖域だけでも驚きなのに、変身魔法まで使いこなすなんて。魔獣が?
信じられない思いで瞬きを繰り返していたプリシラが、問い返した。
「本当に、あの魔獣なの?」
「そうだ」
「凄い……」
なるほど、これほどでなければ歴史に名を残すことなどできないだろう。驚きつつも納得して頷いたプリシラだったが、やはり解せないことがあった。
「人間の姿になれるなら、最初からそうすればよかったじゃない。そもそも、どうして私を攫ったりしたの?」
「お前を、引き離すためだ」
「引き離すって……何から?」
「あの男からだ」
魔獣の答えに、プリシラは眉をひそめた。あの男、って。
「まさか、リュエンのこと? どうして?」
「あの男は危険だ。お前のような子が、共にいてはならない」
「それをどうしてあなたが決めるの?」
「お前は幸せになるべき、善良な子だ。そんなお前を、破滅の未来へと歩ませるわけにはいかない」
魔獣の答えに、プリシラの目が細まった。聖域を作れるほどの魔獣が言うことには、それなりの説得力がある。けれど、ただそれだけだ。リュエンを引き離すべき明確な理由にはならない。何より、プリシラはリュエンの傍を離れるつもりなど毛頭なかった。
「リュエンの傍にいるのは私の意思だし、未来なんていくらでも変えられるわ。あなたが口出しすることじゃない」
「お前が望まなくとも、私はお前を守る」
「どうして?」
「お前に頼みがあるからだ」
そういえば、頼みがあると言っていた。魔獣がリュエンを良く思っていないと知った以上、頼みなんて聞いてやりたくなかったが、こういう手合いは願いを叶えてやるまでしつこくつきまとうに違いない。プリシラは問いかけた。
「あなたの頼みって何?」
「姉上に会いたい」
「あなたの姉上を、どうして私から探すの?」
「お前が、私の姉上を連れて行ったからだ」
「……?」
何を言っているの?




