#番外編. 春が呼ぶ声 (2)
治癒魔法は使えないと言っていたが、両腕と舌を切り落とされた状態で3年も生き延びた彼だ。知らず知らずのうちに、最低限の生命維持のための魔法を使っていたのだろう。改めて、とんでもないものを拾ってしまったと思う。
肩をすくめたプリシラは、リュエンの力についての思考を頭から消した。リュエンはリュエン。それ以上でも、以下でもない。
「おかげで楽に来られたわ。ありがとう、リュエン」
プリシラが笑って礼を言うと、リュエンは応えるように穏やかに微笑んだ。
「プリシラ。必要な素材は何だ? 採取を手伝おう」
「ありがとう。その前に、ちょっと近くに来てくれる?」
プリシラの言葉に、リュエンは素直に彼女の前へと歩み寄った。リュエンの両手を握ったプリシラが軽く目を閉じると、周囲に青紫色の光が漂った。
「あなたには必要ないかもしれないけれど……とりあえず守護結界を張っておいたわ。並の魔物なら近寄ることすらできないはずよ」
「必要ないだなんて。そなたが私にくれたものは、何一つ不要なものなどない。ありがとう」
プリシラの手を包み込んだリュエンが、彼女の手に額を寄せて答えた。
「ふふ。そう? ならよかったわ」
リュエンに必要な素材と数量を伝えると、彼は即座に素材がある場所へとプリシラを案内した。彼の案内に従い、順調に採取を続けてどれほど経っただろうか。
「……」
暖かい風に乗って、柔らかな歌声が聞こえてきた。心地よい、けれど「魔の森」で聞こえてくるはずのない歌声。反射的に顔を上げ、戦闘態勢をとったプリシラは、目を細めて周囲を窺った。
正午の太陽が降り注ぐ魔の森は、いかなる危険もないかのように静まり返っていた。
(魔物の気配は感じられないけれど)
万が一に備えて周囲を調べたが、彼女の周りには何もなかった。
そう、本当に何もなかったのだ。いるべき存在さえも。呆然と周囲を見渡していたプリシラは、そこにいるはずの者の名を呼んだ。
「リュエン?」
しかし、応える者はどこにもいなかった。
***
聞き覚えのある歌声が聞こえてきた。懐かしく、馴染み深い。今はもう決して聞くことのできない歌声。呆然と歌声に耳を傾けていると、その調べに混じって甘い声が聞こえた。
――もう少し近くに来て。
私の方へ来て。私は、そなたに来てほしいんだ。
低く聞こえてくるのは、間違いなくプリシラの声だった。いつの間にか歌声までもがプリシラのものに変わっていた。心を掴まれるような柔らかな音色に、リュエンは誘われるようにそちらへ向かった。
深い森の中、ぽっかりと空いた空き地に、長い黒髪を編み込んだ女性が座って歌を歌っていた。ふと見える横顔は、毎日見ている顔であるにもかかわらず、見るたびに心臓が激しく波打った。
普段は決して着ることのない、ひらひらとしたドレス姿のプリシラは、彼の想像力がいかに稚拙であったかを証明するかのように、想像を絶する美しさを放っていた。
何がそんなに楽しいのか、穏やかに歌い続けていたプリシラは、ようやく人の気配に気づいたように、ゆっくりと振り返った。
リュエンを虜にする青紫色の瞳に、彼の姿が映った。リュエンを見つめたプリシラは、晴れやかな笑みを浮かべて彼に歩み寄った。
「来てくれたのね」
「……」
「あのね。私、ずっとあなたを待っていたのよ」
「……」
「私に、あなたをくれないかしら? そうすれば私も、あなたが望む私でいてあげる」
「本当に、私が望むままの姿でいてくれるのか?」
「もちろんだわ。どんな私がいい? 何でも言って、あなたの望む通りに私を変えるから。その代わり……」
リュエンの首に腕を回したプリシラが、自分の体を密着させ、彼の耳元で囁いた。か細く柔らかい、あまりにも愛らしい音色。そんな彼女をじっと見つめていたリュエンが口を開いた。
「一つ、教えてやろうか?」
「え?」
「プリシラは、歌がとんでもなく下手だ」
「……は?」
プリシラ。いや、彼女の姿を模した魔物の顔に困惑が走った。隙を見せたのは一瞬。リュエンはその隙を逃さず、魔法で魔物の体を拘束した。
ドッペルゲンガーは、魔の森の中でも特に深い場所に潜むSランクの魔物。
獲物が最も愛する相手に擬態するこの魔物は、知能が高く警戒心が強いため、めったに人間の前に姿を現さない。
(まさか目の前にドッペルゲンガーが現れるとは)
リュエンも実物を見るのは初めてだった。驚きよりも困惑が勝る。ドッペルゲンガーを無力化するのは難しくない。しかし、プリシラの顔をした魔物を消し去るのは……。
どうすべきか。困ったような表情でドッペルゲンガーを見つめていた、その時だった。
「ふーん。そう、リュエンは私の歌がとんでもなく下手だと思ってたのね」
「……!!!」
背後から聞こえてきた声に、思わず背筋が凍りついた。ゆっくりと視線を向けると、いつからそこにいたのか、プリシラが頬杖を突いて座り、リュエンと彼の前で拘束されている「自分自身」を眺めていた。
うなじが露わになった短い髪、隙なく体を包んだシャツとズボン、腰に下げられた保管バッグ。色気など微塵もない姿であったが、リュエンの目には誰よりも美しく映った。
しかし、いつもとは違い、口角を吊り上げて微笑んでいる彼女の姿に、素直に微笑み返すことはできなかった。
「プリシラ。いつからそこに……?」
「あの子が『あなたを待っていた』って言ったあたりから」
最初から見ていた、という意味だ。
実のところ、今の状況でリュエンに非はない。しかし、なぜか心が落ち着かない。プリシラと目を合わせるのが気まずい。リュエンが言葉を紡げず唇を震わせていると、笑いながら近づいてきたプリシラが、そのままドッペルゲンガーのみぞおちを殴りつけた。
リュエンに拘束されたまま攻撃を受けたドッペルゲンガーは、力なくぐったりと項垂れた。
ドッペルゲンガーを拘束具でぐるぐる巻きにしていると、リュエンがおずおずと尋ねた。
「プリシラ? 何をしているんだ?」
「ドッペルゲンガーは希少な魔物でしょう。このまま殺すのはもったいないから、生きたまま捕獲してライディス公に譲るわ」
「ラフェルに?」
「ええ。ライディス公ならうまく活用してくれそうだから」
ドッペルゲンガーが暴れないよう幾重にも結界を張ったプリシラは、満足げに頷くとドッペルゲンガーを担ぎ上げた。
「ドッペルゲンガーはいいとして……リュエン?」
「な……何だ?」
「そういえば私、あなたが歌うのを聞いたことがない気がするのよね」
「そ、れで……?」
「考えてみたら、不公平じゃない。あなただけ私の歌を聴いて感想を残すなんて」
「歌が下手だというのは、そなた自身が言っていたことではないか」
「自分で自分を評価するのと、他人に評価されるのは雲泥の差だと思わない?」
「そ、れはそうだが……」
「さあ、そういうわけでリュエン・シェイルグ卿。今すぐ歌ってください」
「今、ここでか?」
「今、ここで」
リュエンは逃げ道がないか必死に頭を回転させたが、プリシラがフルネームで呼んだところを見るに、何をしても逃げられそうになかった。
(歌……歌か)
正直、自信はない。だが、プリシラが望むなら。
薄く息を吐き、覚悟を決めたリュエンは、低い声で歌を紡ぎ出した。
「……?!」
少し低めの、しかし滑らかに続く美声が、温かな調べとなって流れた。一度聴けば聴き続けたくなるその音色を呆然と聴いていると、リュエンが少し顔を赤らめて尋ねた。
「……満足か?」
「……あなた、本当にできないことなんてないのね。めちゃくちゃ上手じゃない」
「そ……そうか?」
「ええ。本当に心地よい歌だわ。ずっと聴いていたいと思うくらいに」
確かに、これほどの歌唱力であれば、プリシラに対して「歌が下手だ」と言っても文句は言えない。心の中で敗北を認めていると、プリシラに歩み寄ったリュエンが、彼女の乱れた髪を整えながら言った。
「私は、そなたの歌の方が好きだ」
「とんでもなく下手なのに?」
「とんでもなく下手だが、私にとってはどんな音楽よりも甘美で愛おしい。だから、必ず私だけにその歌を聴かせてくれ。頼む」
リュエンの真剣な答えに、目を細めて彼を睨んでいたプリシラは、仕方がないというように微笑んだ。
「全く、口がうまいんだから」
歌のフレーズに関するご指摘、ありがとうございました!修正いたしました。教えていただけて本当に助かりました!!!
出勤途中に桜が咲いているのを見て、どうしても書いてみたくなり執筆しました。




