#番外編. 春が呼ぶ声 (1)
誤字脱字のご報告、いつもありがとうございます。皆様のおかげで日間(完結)ランキング1位に上がることができました。
倒れたリュエンが目覚めてから数日が過ぎた、ある日の物語です。体内の甘い成分が不足している作者の状態を反映し、今回も甘めです。
第2部はまもなく! 出るかも!
フェンベルクによる襲撃事件から半月、リュエンが床を払って起き上がってからは約一週間の時が流れた。
この半月の間、カルデオンに代わる何者かが塔を安定させたおかげだろうか。塔からの追加の襲撃は起こらなかった。
警戒態勢として敷かれていた歩行制限も解かれたおかげか、遠くない商店街からは賑やかな喧騒が響いてきた。実に久しぶりにリベリアに活気が戻った。
開かれた窓の向こうから聞こえてくる音に耳を傾けていると、笑い声を乗せてきた風から甘い春の匂いが感じられた。
活気に満ちた話し声、楽しげな笑い声、風に乗って吹き抜ける爽やかな春の香り。
凍てついた冬が終わり、訪れる春の気配は格別だった。この一週間でリュエンの体調も見違えるほど良くなり、今では日常生活に支障がないほどだった。
妙に回復が早いと思わないわけでもなかったが、本来魔術師とは回復の早い存在だ。リュエンほどの大魔導師であれば、一晩で治らない方が不思議なくらいなのだろう。
数えるほどしか経験したことのない平和な朝。雲一つない真っ青な空を眺めていると、ふとぼんやり空を見上げている時間が惜しくなり始めた。
過ぎ去った時間は決して取り戻せない。
ならば何か、意味のあることをしなければ。
(意味のあること……)
首を傾げながら、何をすべきか考える。料理はリュエンの担当だ。掃除や洗濯もリュエンが引き受けている。特別な理由があるわけではなく、ただリュエンがやった方が効率が良いからだった。
何だかんだ言ってもプリシラは貴族の令嬢だ。軍にいたので家事全般を「ある程度」はこなせたが、本当に「ある程度」でしかないので、専門家の足元にも及ばない。
それに加えて、プリシラは細かい作業に病的なまでに適性がなかった。当然、家事とは極端に相性が悪かった。
正直なところ、何かを細かくやらなければならないという必要性を、いまだに感じていない。飯は喉を通ればいいし、掃除は埃さえ舞わなければいい。
洗濯は? 当然、臭わなければそれで十分だ。
正直、リュエンがこれほど家事ができるとは思っていなかったので、プリシラは想像していたよりもずっと快適な生活を送っていた。どれほど快適かといえば、貴族時代にも劣らない贅沢さだった。
(まあ、貴族と言っても戦場や討伐地で野営をしていたから、平民以下の生活だったけれど)
王国を出れば過酷な生活が待っていると思っていたのに、いざ始まってみれば、プリシラの生活はこの上なく平穏そのものであることがアイロニーだった。こんなことなら、もっと早くあそこを抜け出せばよかった。一体、私は何に縛られていたのだろう。
せっかくうららかな春風に当たっているのに、なぜか思考が暗く沈んでいく。頭を振って暗い考えを追い出したプリシラは、より建設的なことを考えるために腕を組んだ。
リュエンが家事を引き受けてくれるのはありがたい。しかし、彼があまりにも完璧に何でもこなしてくれるおかげで、プリシラのやるべきことがあまりに少なすぎた。何をすれば、充実した一日だったと胸を張れるだろうか。
「そういえば……」
リベリアに来る前、プリシラはここで店を構えて商売をしようと考えていた。名の知れた冒険者や用心棒はもちろん、元軍人たちでさえ一攫千金を狙ってここに集まってくるのだから。
リュエンに出会ってから色々と事件が重なったせいで、店どころか、それらしい守護符の一つも作れていない。
季節は春。閉鎖されていた塔も再び開放され、「ドラゴンが現れた」という噂を聞きつけて集まってきた冒険者や傭兵たちで、リベリアは自治区になって以来、最高の人出となっていた。
人が、それも多くの冒険者が集まっている。
つまり、商売をするには絶好の環境が整っているということだ。リュエンのおかげで、店舗として活用可能な1階も綺麗に掃除されている。品物さえ準備できれば、いつでも店を開くことができる。
そこまで考えが及んだプリシラは、決心したように席を立ち、部屋へと向かった。台所の片隅に座って外を眺めていたプリシラが、急に立ち上がって出かける支度を整えて下りてくると、リュエンが不思議そうな声で彼女に尋ねた。
「プリシラ? どこかへ行くのか?」
「魔の森に……」
思わず一人で行こうとしたプリシラは、自分を見つめるリュエンの視線を感じて、足を止めた。リュエンは、自分を頼ってほしいと言っていた。
頼るということは、一人で突き進むのではなく、共に歩んでいくことだ。
向かおうとしている場所が危険な場所なら、なおさら彼の意見を聞かなければならない。
「魔の森に、素材を採りに行くの。リュエン、あなたが良ければ一緒についてきてくれる?」
以前のリュエンの様子を思い浮かべながらプリシラが続けると、リュエンは目尻を三日月のように細めて頷いた。
「もちろんだ。今すぐ行くのか?」
「ええ」
プリシラの答えに、リュエンは亜空間から取り出したローブを羽織った。指先一つで何でも出てくる能力が、実に羨ましい。どうにかして学べないだろうか……。
(難しいかしら……)
リュエンが支度を終えたのを確認したプリシラが玄関へ向かおうとすると、リュエンが彼女を呼び止めた。
「プリシラ、そちらではない」
「え?」
プリシラが不思議そうに首を傾げると、リュエンは彼女の腰を抱き寄せながら言った。
「私の首に腕を回してくれ」
「急に?」
疑問を抱きつつも、彼の言う通りに首に腕を回すと、リュエンはにっこりと微笑んだ。
「え? わ……わあっ!」
眩い金色の光が足元に浮かび上がったかと思うと、奇妙な浮遊感が全身を包んだ。目をぎゅっと瞑り、反射的に彼にしがみつく腕に力を込めると、リュエンもまた彼女を抱きすくめる腕に力を込めた。先ほどまで聞こえていた街の喧騒が消えたのを感じ、プリシラは恐る恐る目を開けた。
そして。
「……あなた、本当にできないことなんてないのね?」
「難しいことではない」
難しいことではない、か……。
肌に触れる空気は爽やかでありながらも、毒気を孕んでいた。生い茂る枝の間から差し込む日差しが眩しい。家から一歩も外に出ていないというのに、いつの間にか魔の森に到達していた。
(リュエンに不可能なことなんて、あるのかしら?)




