いじめがなくなった日
俺が夏樹のスクールカバンに侵入しようと企てて、失敗すること数日。その間もミスボーンが我が家に集ってきた。
奴は決まってお菓子をねだる。それ以外は悪さを働かない。ただ、勉強が嫌いらしい。娘の解説に茶々を入れたり、テレビをつけて話題をそらしたりと、好き放題やってくれている。
(くそぅ、せっかく夏樹が勉強を教えているのに)
そんなことを思いながら、金曜日の朝が来る。
今日のテストは、国語と英語らしい。夏樹の得意科目だ。
俺が生きていた時はせわしかった朝も、妻子だけになると静かなものだ。娘は暗記カードをめくりながら、英単語をぶつぶつと唱えていた。
(よし、発音もいい。その調子だ、夏樹!)
娘が勉強に夢中になっているのと、美香子が食器を洗っているのとを見計らって、俺は夏樹のスクールカバンの中に忍び込むことに成功した。
しかし、いろんなものが入っているなぁ……。
雨や土、太陽の匂いがすべて吸収された生地。角張った参考図書たちのごつごつとした感触。立てて使えるオレンジ色のペンケース。これは俺が高校進学の時にプレゼントした物だ。
(使っていてくれる。嬉しい!)
「じゃあ、そろそろ行ってくるね!」
「気を付けて行ってらっしゃい」
「はーい」
そう言うと夏樹は、俺の入ったスクールカバンの中に、暗記カードをさっと入れて、中身を確認せずにそのまま高校へ向かった。
「うーん、なんか疲れてんのかなぁ。カバンが重く感じる……」
すまない夏樹。それは俺の体重だ。世界最小のチワワでも、それなりの重さはある。
だが、いじめっ子たちを成敗するための辛抱だ。耐えてくれ。
……、撤回。
(耐えるのは俺だぁああ!)
夏樹が歩くたびにスクールカバンの中身が動いてしまう。分厚い辞書とか、教科書とかがぶつかってくる。痛い。
この大きな目にだけは当たってくれるなよ。
俺はバレないように声を上げず、カバンの中身にもみくちゃにされていた。
どっかで感じたことがあるんだよな。この感覚。
(そうだ、満員電車だ)
はて。でもどこまで行ったかなぁ。朝のすごく混む時間帯。俺はどこへ向かっただろうか。まぁ、そんなことを気にしている場合ではない。
ジャラジャラと鳴り響くペンケースの中身。
その音が、緩やかになった。
学校についたんだ。
ひそひそと声が聴こえる。
なになに……。
「犬が来た」
「お犬さまの登場じゃぁ~」
「何か恵んでやろうかなぁ」
(……)
今の俺は、尻尾に怒りがこもっている。すぐに飛び出して噛みついてやりたいが、ここは理性というものが必要だ。
何せ今日は、期末テストの日だからな。
「おはよ」
「おはよーミスボーン」
聴こえてきたのは、例の集り屋の声。声だけ聴いてると、本当に仲のいい友達のように感じる。
だが彼女が現れると、周囲の様子がガラッと変わった。
「貧乏人と犬って、ホームレスかよ」
そう言い放った男の子の声が耳に焼き付いて離れない。高校生にもなって、そんな言葉を呟けるなんて、なんて野郎だ。
俺はたまらなくなって、キャキャンと吠えてしまった。
「え、何。今の」
「もしかして……」
夏樹がスクールカバンのチャックを全開にした。そこで初めてここが教室であることが分かった。
(やばい!)
俺が計画していた作戦とは異なった展開になってしまった。本当は、お昼に奇襲をかける予定だったのに。くそぅ。それもこれも、あんなことを言った男の子のせいだ。
「やだぁ、めっちゃかわいい♪」
「見せて見せて~」
まるで動物園の見世物かのように扱われる俺。女の子が群がる。そんな様子を快く思っていなさそうな男子が一人いる。
「はっ、犬が犬つれてきたってよ」
その男の子は俺たちに聴こえる様に言い放った。さっきの声と似ている。さては例のいじめっ子だな。
「平原。そういうこと言うの格好悪いよ」
ミスボーンの反撃。この歳の子は意外とこういう言葉に弱い。格好いい言葉や悪いセリフで相手にマウントを取りたいものだ。
俺がそれをやったのは、初恋の相手だったなぁ。相手の怒る顔が見たい。とにかくいろんな顔が見たかった。俺なんかに笑顔を向けてくれる子じゃなかったから。
(まぁ、大人になれば恋愛の形も変わるけどな)
なんて、しみじみ思っていたら、
「お前の父親、老人のケツ拭いてたんだろ。気持ちわりぃ」
という爆弾発言。
俺はそんなことをしていたのか。
よく覚えてはいないが、それは娘の琴線に触れたようだ。
「そうだよ、汚いよ。でも……」
「もういいって夏樹。あんな奴放っておこう」
「でも、格好いいパパだったもん!」
(夏樹‼)
俺はすごく嬉しい。人前で堂々とそんなことを言ってくれるなんて。俺もお前のことを自慢の娘だと思っているぞ。世界で一番の夏樹だ。
(そうとなれば、いざ出陣!)
「うわ、寄んなよチワワ!」
世界最小のチワワをなめるなよ。いや、パパ魂をなめるな。
俺は平原という男子の足元でダンスをするようなステップを踏む。やがて疲れて足が絡んできたところを、親友マーガレットに鍛え上げられたデコで引っかけて、転がしてやった。
(ざまぁみろ‼)
「あーあ、かっこわるぅ~」
ミスボーンの一言で、顔を真っ赤にする平原。それを見ていた数人の女子たちが、俺の所に寄ってくる。
「ほんっとにかわいいこのチワワ!」
「私にちょうだーい!」
「ねぇ、チワワっておにぎりあげてもいいの?」
どうやら人気者になってしまたらしい。
当の夏樹にも、元の友達が戻ってきた様子だ。
(だったら、ミスボーンは……)
一人で教室から出ていこうとするミスボーン。俺は自然と、奴の所まで走り、尻尾を振っていた。
「……何よ」
そんな顔するな。
お前は確かに嫌なところもあるけれど、夏樹のことを庇ってくれた。そんなお前がどうして一人ぼっちにならなきゃいけない。
そうだろ、夏樹。
「ミスボーン、一緒に勉強しよ」
「……」
教室が静かになる。
時計を見るとテストが始まるまであと十六分しかない。
答えるなら今だぞ、ミスボーン。
「……、わかった。まずはそのチワワ隠しな」
「ありがとう」
「何に対してのお礼よ……」
照れくさそうに夏樹たちの方へと向かうミスボーン。
平原は、頭をポリポリかいて、黙々と勉強を始めた。
俺はロッカーの中に入れられ、夏樹から、「絶対に吠えるな」と命令されている。それに加えて、「動くな」とも。
(娘、厳しい……)
だが、これも愛する夏樹のため。
俺はテストが終わるまで、じっと耐えることに成功した。途中、先生らしき人の声で、
「息が荒い奴いるな。大丈夫か?」
という指摘が入ったが、それは仕方ない。犬は舌を出してへっへとするものだ。生理現象だと言ってもいい。これだけは許してくれ。
と、こんな感じで、最後の期末テストの日を終えることができた。
これが終われば、本格的に受験の波が迫ってくる。
どうやら夏樹は公募推薦で挑むらしい。
「国語。頑張れよ」
「はい、先生」
俺からも、頑張れよ。
行きは寂しかったが、帰宅時は賑やかだ。学校を出てある程度したら、俺は狭いカバンの中から出してもらえた。何度も何度も女子に撫でられる俺。
「テストも終わったし、ちょっと公園に寄ろうよ!」
夏樹の友達の一人がそう言うと、みんなが賛成した。もちろんミスボーンも。
我が家とは方向が違うが、それもいいだろう。
今日はいじめがなくなった日。
最高の一日だ。




