えらいこっちゃ!
玄関の扉が開く。
どこかで、「メシー!」と遠吠えをしている犬の声が聴こえた。それ以外は静かな夜だ。目の前には、大きな鍋を両手で持ったマサミおばちゃんが立っていた。
俺の嗅覚が正しければ中身は肉じゃがかすき焼きだ。しかも醤油をたっぷり使った濃い口の。シイタケの匂いがしないから、肉じゃがかも。
「コレ、作ってきたから一緒に食べよ」
半ば乗り込むように我が家に入ってくるマサミおばちゃん。玄関に靴が増えた。どこか嬉しそうだ。でも、こんな時間に何をしに来たんだろう。
「おぉ?」
「これはこれは、島根さん。偶然っすね」
北島がマサミおばちゃんにそう言った。はじめて知った。島根という苗字なのか。マサミおばちゃんについての情報はほとんどなかったから、貴重だなぁ。
「あらお前さん、まだ諦めてなかったんかいな」
両手鍋がリビングテーブルにドンっと置かれる。ガランとふたが開けられた。今日の倉田家の晩御飯はほうれん草のシチューだったが、その匂いが濃い醤油の匂いでかき消された。
うまそうなのだが、やっぱり関西風の味付けは素材そのものの味を消してしまうから、好かない。
でも、厳の作ったイカ焼きは別だ。
ふんだんに使ったキャベツに絡む、甘じょっぱいソース。あれはあの親父の店でないと再現できない。あれで飲むビールが格別なんだ。
今は店そのものがやっていないと思うが……。
北島がマサミおばちゃんに、どうして我が家にやってきたのかを説明している。俺たち家族は会話の置いてきぼりだ。
その間にも充満する醤油の匂い。
「それは多分、阿修羅ってグループじゃないかえ」
マサミおばちゃんは勝手に我が家の食器を取り出して、鍋の中身を人数分に分けていた。俺の予想通り、中身は肉じゃがだ。
北島が阿修羅と聴いて、身震いする。それは俺たちも同じだった。なぜかと言うと、町一番関わってはいけない悪党組織だからだ。
一般的に、万引きや強盗など、金に関わる犯罪を多くしてきている組織だと言われている。静かな町にバイクのふかし音が響くとしたら、それは阿修羅だと思えという町のことわざがあるほど。
でも、実際どんな人となりをしているのかを知る者はいないという。
このことから、“関わったものはみんな、死んでいるのではないか”という噂が立つほどだ。
「もう……諦めましょう。北島さん」
美香子は、震えている北島の背中をさすって、夏樹の方を見た。
そうだよな。娘には受験がある。不安要素は取り除いてやりたい。それに、俺はここに居るじゃないか。それでいい。それで……、
「いえ、記者魂はそんなものでは消えません! 正義は勝つんです‼ 勝たなければならないんです‼」
「この人何と戦ってるの……」
夏樹の冷めた視線を浴びていても、北島の目は熱い。ごうごうと燃え滾っている。というかこの町。他に事件ないのか。俺が死んだことは、そんなに珍しいことなのか。
「仕方ないですね」
折れた美香子は、俺の個人情報を答えていった。それは、取材というよりは、マサミおばちゃんの情報取集と似通っている。
どうやら北島は俺のことを子煩悩で、聖人君主のように扱いたいらしい。
でも、現実の俺は違う。
寝坊助だし、好き嫌いも激しいし、それが原因で妻子に怒られることだって沢山あった。俺は、そんな良くできたパパじゃない。
それでも、二人にとって大切な存在でありたかったパパだ。
「うーん、なんか普通っすね」
(なんだと!)
そう言われると、なにか長所を探したくなる。うーん。うーん。
「パパは人のことを思いやれる人でした」
美香子は懐かしむようにチワワ姿の俺を見た。それがなんだかうれしくなって、ふさふさの尻尾を何往復も動かしてしまった。
「そうやねぇ。私が腰痛で動けん時も、薬を買いに来てくれたわ」
「まぁパパってそういう人だもんね」
マサミおばちゃんは、腰をトントンと叩いて、二カッと笑う。腕を組んでうなずくように相槌を打つ夏樹。
(おお、俺。褒められてる!)
「なるほど。思いやりのある人ですね」
北島が当たり前のことをメモにする。それくらい頭で覚えていろ。これだから新人記者は……。
「だからこそ、今回のことはもう終わりにしてほしいんです」
美香子が俺のことを抱きながら、北島に向けて言った。冷たい手だった。多分、危険をおかしてまで、真実など探ってほしくないという妻の思いやりだろう。
また、これ以上傷をえぐるのは止めてくれということかもしれない。
「でも……」
メモとペンを持って仁王立ちする北島。こいつが悪い奴じゃないのはわかるが、少々お節介だ。そしてマサミおばちゃんも。
人間としての俺が居なくても、妻子は生きていけるはず。そして俺は、そんな二人を守る忠犬として生きていければそれでいい。
もう、人間には戻れないんだ。だったら、この体でできることを妻子のためにするだけだ。
(わかってくれ。北島)
「……、俺は俺の信念を貫きます」
メモとペンをポケットに入れると、当然のように窓から出ていく北島。まさか、阿修羅への取材を続行する気じゃないよな。
(死んでも知らないぞ!)
俺は、走り去っていく北島に向けて、キャキャンと鳴いた。
残ったのは、マサミおばちゃん。
彼女は平然と俺の席だった椅子に腰かけて、肉じゃがを食べていた。
「あの……」
「食べ食べ。遠慮せずに食べ」
美香子は仕方なく席についたが、夏樹は二階に上がってしまった。その様子を見て、マサミおばちゃんは妻に、俺が昼に娘から聞いたのと同じような内容を話していた。
(ほんと、何でも知っているな……)
それを聞いた美香子は、随分と悲しい様子だった。
「犬は犬や。俊介さんと違う」
「何かを信じないと、私。壊れてしまいそうで……。でも、それが夏樹を苦しめているなんて……」
美香子も、本当の意味では俺がパパであることを信じていなかったんだな。あぁ、また暗い顔になってしまった。
「そーや、ええこと思いついた!」
(?)
マサミおばちゃんが一つの提案をした。それは、この町屈指の変わり者。孫英二さんに、犬の気持ちがわかる装置を作ってもらおうというものだ。
「孫さんって、変な発明品ばっかり作っている……?」
美香子の声の調子がちょっと小ばかにしたような感じに変わった。
英二さんについては、俺も知っている。
というか、知らない人は居ないくらい有名だ。
「空飛ぶ急須なんて作っている人に、そんなものは作れないと思います」
意外と辛辣だな、美香子。
確かにポンコツ機械ばかり作っている人はあてにならないし、ちょっと危険な香りもする。
「でもお前さん、そのチワワの気持ち。知りたいやろ」
「それはそうですけど」
ズズッとお茶をすする音が聴こえる。トンっと湯呑が置かれると、
「行動せんと何も生まれへん。日曜や。日曜に夏樹ちゃんとそのチワワ持って、孫さんとこ行きなはれ!」
その言葉で会話が終わってしまった。
「は、はぁ……」
困惑する美香子。押しが強いなこのおばちゃん。
でもまぁ、先にすることは、学校へ乗り込むことだ。くだらないイジメなんてパパが制裁してやる。いじめっ子たちにはチワワの洗礼を受けてもらうことになるぞ。
マサミおばちゃんも帰って、俺は一人で洗い物をしている美香子の後姿を見ていた。夜遅くになって、妻が寝るまでずっと。忠犬のように。




