62:もうダメだわ……
ガラス片を握った手を、マイが振り上げ、振り下ろす。
顔と頭を庇う姿勢の私は、腕にあのガラス片が刺さると思った。
これから襲うであろう激痛を想像し、絶望的になっている。
でも。
激痛の代わりに、ドスッと言う音と「ぎゃあ」という短い悲鳴、ドサッという音が聞こえた。
驚き、目を開けると、路地に転がるマイをうつ伏せにし、その手を革紐で縛りあげている男性がいる。
紺色のマントが見え、そこに紋章が見える。
月桂樹と剣……王立ローゼル聖騎士団の紋章!
聖騎士だわ……。
そう認識した瞬間、さっきまでとは違う意味で、心臓がドキドキしている。
後ろ姿しか見えない。
でも明かりがほとんどないこの路地でも、そのホワイトブロンドの髪は、輝いているように見えた。
まさか。
ここは王都から遥か遠い。
そして別れてから、まだ数日しか経っていないのだ。
それでも一抹の期待を込め、その名を呼んでいた。
「ランス様……?」
マイを後ろ手に縛りあげた男性が、こちらを振り返った。
サラリと揺れるホワイトブロンドの髪。
薄暗くて、その瞳は紺碧に見える。でも知っている眼差し。
陰影により、浮き彫りになる通った鼻筋と形のいい唇。
整ったその顔は、間違いない。
「アリー様、お怪我はないですか?」
その声に、もう涙が出そうになり、かつ抱きつきたくなっていた。
でもそれを堪え、なんとか口を開く。
「怪我はありません。助けていただき、ありがとうございます」
怪我はないと聞いたランスは安堵の表情となり、そして「まずはこの女を、警察に引き渡します」とキリッとした表情になった。
◇
町の警察署は、ホリデーマーケットで大忙しだった。
でもそれは迷子、スリ被害、酔っ払い同士の喧嘩の仲裁など、事件性は低い物。
ところがランスと私が引き渡したマイは……。
マイが着ていたローブの下の黒いワンピースは、明かりの下でよく見ると、胸元から腹部にかけ巨大なシミがある。そしてそれは……血であると判明。しかもマイが怪我をしていたわけではない。
警察署はにわかに騒然となり、殺人などの捜査を専門とする管理官が呼ばれ、マイの取り調べが開始された。同時にランスと私も、知りうる情報の提供が求められ、修道院にも連絡がいくことになった。
マイを警察署に連れ行けばそれで終わる……なんてことはなく、その後、ランスと私はそれぞれ別室で話を聞かれた。それが終わった頃、修道院長が警察署に到着し、そこで何が起きたかを彼に軽く報告。私から話を聞いた修道院長は「無事で良かった。また明日、修道院で話そう」と言い、自身は管理官と共に会議室へ入っていく。
修道院長は、自身が乗って来た馬車で修道院へ戻るといい――とも言ってくれていた。そのお言葉に甘え、私は馬車に乗り、ランスは自身が乗って来た愛馬で、修道院まで付き添ってくれる。
修道院に戻ると、副修道院長がランスと私を出迎えてくれた。
女性の副修道院長は、年齢は修道院長と変わらない。
母親というより、お祖母ちゃんとも感じられる彼女は、修道院長に比べ、常に背筋がピンと伸び、ピシッとしている。一見すると怖く厳しそうに見え、そういった一面も勿論あった。でも情に厚く、優しさもある。
その副修道院長に迎えてもらったわけだが。とっくに夕食の時間は過ぎている。
でも副修道院長の指示で、ランスと私の食事が用意された。夕食をとりながら、副修道院長には、今回の出来事について話すことになった。一方、副修道院長からは、マイに関する書類上の情報ではあるが、聞かせてもらうことができた。
マイ・ドラクブラッドは、ドラクブラッド男爵家の長女。兄と妹がそれぞれ一人いる。十五歳でマイは社交界デビューをするのと同時に、伯爵家の長男であり、三歳年上のハンクと婚約した。
ところがそれから三年後。ハンクとの婚約は破棄となる。理由は、マイによる妹への虐待が明らかになったからだ。妹への虐待を知ったハンクは、マイとの婚約を破棄。代わりにその被害者であった妹と婚約。ハンク二十一歳の時に、マイの妹とハンクは結婚している。
それ以降、マイには何度か縁談の話が出たが、そのどれもがうまくいかない。過去の婚約破棄の経緯が明らかになると、縁談相手が難色を示したようだ。
その結果、マイは次第にドラクブラッド家で厄介者扱いになっていく。さらにその頃から、シャドウマンサー<魔を招く者>についての書物を読み漁るようになる。でも具体的にシャドウマンサー<魔を招く者>として動くことは、なかった。
今ならまだ間に合うと、両親は思った。そこで改心させる意味を含め、修道院に入れることにしたのだという。
「妹への虐待は、本当にあったのですか?」
マイの言いっぷりだと、あの女=妹だろう。
そして妹は、マイからすべてを奪ったと言った。
話を聞くと、確かに婚約者も妹に奪われた……という言い方もできなくはない。
「虐待については、何度も両親や兄弟が目撃していたそうですよ。入れたばかりの熱い紅茶をかけたり、階段でわざとドレスの裾を踏んで妹を転ばせたり。容姿も優れ、勉強もできた妹のことを、マイは子供の頃から妬んでいたようで。それでも長女だったので、両親はマイのわがままをきいていた結果が、今の彼女でした」
長女だからと両親がマイを甘やかしたところ。
マイは妹をいじめ続け、それはエスカレートし、皆が知るところになった。
結局、修道院に来ることになったのは、マイの自業自得だったわけだけど……。
修道院は、更生施設ではない。そんな病的なマイを、修道院に送り込まれても困る。
つまり今回の騒動は、起こるべくして起こったということは、副修道院長の話からも理解できた。そのマイが失踪していた間に何をしていたのか。今後どうなるのか。それは警察署での取り調べを経て、明らかになるだろう。
つまりマイの件は、報告が上がるのを待つしかない。
気になるのは、王都へ戻ったばかりのランスが、なぜあの場に駆け付けることになったかだった。






















































