【物語の外側Ⅲ・後編】 ─門が閉じる日─
※本文は『物語の外側』シリーズのⅢ・後編です。Ⅰ・ⅡおよびⅢ・前編の内容に触れています。
物語を読む読者と、物語を書く作者。
そして、完結したはずの物語の外側で、作者との再会を待っていた騎士。
不審な表示から始まった出来事は、作者と読者、そして騎士の言葉を巻き込みながら、少しずつ現実と物語の境界を曖昧にしていきます。
ログインできなくなった作者の前に、傷ついた姿で現れた騎士。
彼は、誰かの言葉を拾い、つなぎ合わせ、元の意味を変えてしまう「影」が、再び動き始めたことを告げました。
やがて、物語と現実をつないでいた門にも、変化が訪れます。
守るために閉じること。
大切なものを失わないために、手放さなければならないこと。
そして、言葉を交わした相手と出会えたという事実は、どこに残るのでしょうか。
これは、作者と読者、そして騎士が、それぞれの言葉と向き合う物語です。
どうぞ、前編からの続きをお楽しみください。m(_ _)m
【物語の外側Ⅲ・後編】
─門が閉じる日─
◇◇◇
翌朝、騎士は、窓辺の床に座っていた。
座っている、というより、壁にもたれて、剣を膝に預けていた。兜は被ったまま。昨夜から、一度も動かなかったのかもしれない。
私は、毛布を抱えたまま、リビングの入口で立ち止まった。
──昨日より、濃い。
右半身の輪郭が、薄い水から、すりガラスくらいには戻っていた。透けてはいる。けれど、向こう側の壁紙の模様は、少しぼやけて見えた。
「おはよう、作者」
声も、昨夜よりずっと、聞き取りやすかった。
「……おはよう。ずっと、そこにいたの?」
「ああ。休んでいた」
「休む、ってできるのね」
「お前が書かなかった場面だがな」
思わず、苦笑した。
スマートフォンが震えた。
『おはようございます! 入れました! 何だか嬉しくて、作者さんの物語をまた最初から読み返しています』
『一章です。騎士さんが、はじめて名乗らずに去る場面』
私が画面を見せると、騎士は、少しだけ顔を上げた。
「……分かる」
「え?」
「温かいものが、流れてくる。章を順にたどっている者がいる」
右籠手の指が、小さく、金属音を立てた。昨夜より、はっきり動いていた。
読み返されるたびに、直る。
そのことは、知っていた。けれど、目の前で見ると、また胸が詰まった。
それから昼まで、彼女は、少しずつメッセージを送ってくれた。
『三章の渡し場、また泣きました』
「三章か」
騎士が、低くつぶやいた。
「渡し守は、いい男だった」
「覚えてるの?」
「斬らずに済んだ、数少ない相手だ」
私は、声を出して笑った。
笑いながら、思った。こういう朝が、ずっと続けばいいのに、と。
◇◇◇
昼を過ぎた頃、投稿サイトから、お知らせが届いた。
重大な脆弱性への対応。利用者を守るために、サイトを一時的に停止する。
運営の文面は、丁寧で、落ち着いていて、誠実だった。必要なことを、必要な順番でやっているのだと、読めば分かった。
私は告知を読み、ひとつうなずいた。
それだけのことだった。
──その背後で、金属が、小さく鳴った。
騎士の右籠手が、また、薄れ始めていた。
朝、あれほど戻っていた輪郭が、砂時計の砂のように、指先から抜けていく。
「……騎士さん?」
「門が、細くなる」
彼は、自分の手を、ゆっくり、ひっくり返して見つめた。
「物語とこちらの世界をつないでいたものが、失われつつある」
「サイトが止まっただけよ。一時的な……」
「そうだ。だが、それだけでは、ない」
胸騒ぎを感じ、私は、パソコンを開いた。
──新たなお知らせが公開されていた。
突然の、サイトの閉鎖が告げられた。
実行されるまで、僅かな猶予しかなかった。
既に私の知る作品ページは、表示されなかった。
安全のための、正しい措置だった。
だが、騎士にとっては違った。
「私の存在は、あの物語につながっている」
「なら、別の場所に移せばいいじゃない。本文を保存して、別のサイトに投稿すれば――」
「試してみるか」
その言い方が、少しも悲観的でなかったことが、かえって怖かった。
私は本文を選択し、コピーした。貼り付けても、白い画面には何も現れなかった。テキストファイルに保存すると、開いた先に見知らぬ文字列が並んでいた。意味を成さない記号が、私の書いた一行目の位置からずるずると下へ流れていた。
スクリーンショットを撮った。画面の中には、背景と、私の部屋の隅と、騎士の姿だけが抜け落ちた空白があった。
紙に書き写そうとして、ペンを走らせた。書いたそばから、インクが紙に吸われるように薄れていく。
「やめて……」
私は、ペン先を紙に押しつけた。線は、黒くなる前に、白に戻った。
喉の奥が、からからに乾いた。
現実が、こんな現象を起こすはずがない。それは分かっている。これは私たちの物語の中で起きている異変なのだ。分かっているのに、「分かっている」ことが何の役にも立たなかった。
「どうして……。物語は、私の中にあるのに」
「作者よ」
騎士は静かに言った。
「私がいる限り、門は閉じぬのだろう」
「そんなの、まだ分からないじゃない!」
「星見の姫は、そう告げていた」
私は文庫本を開いた。
――星が消える夜、名を失う者が門を閉じる。
名を失う者。それは、騎士のことなのか。
私は、彼に名前を与えていなかった。書き始めた頃、名前をつけるのが気恥ずかしくて、「騎士」と呼び続けた。そのうち、呼び名のほうが彼自身になった。読者も、彼女も、「騎士さん」と呼んだ。
名前がないのは、書かなかったからだ。
その事実が、胸の奥にゆっくりと沈んだ。
「このままでは、私という門を通して、世界が滅びる」
騎士は淡々と語った。
私はスマートフォンを取った。
彼女に知らせなければ。この騎士を、誰よりも大切に思ってくれた人に。
◇◇◇
「もしもし?」
数回の呼び出しのあと、彼女が出た。
聞き慣れた声の向こうに、生活の音がある。食器の触れ合う音。遠くで流れるテレビ。私はその普通さに、ほとんど泣きそうになった。
「急にごめんなさい。大変なことになったの」
「あ、作者さん。ちょうど、五章の星の峠の夜のところで、ページが開けなくなって……」
「ええ、そのこと。サイトが閉鎖されるの」
サイトのメンテナンスと閉鎖のこと。騎士が消え始めていること。文章を保存することさえできないこと。順序立てて話そうとしたのに、言葉はあちこちに散らばった。それでも彼女は、途中で遮らなかった。
話し終えると、受話口の向こうで、短い沈黙があった。
「……騎士さんは、今そこにいるんですか?」
「ええ。隣にいるわ」
彼女は、受話口の向こうから呼びかけた。
「騎士さん。聞こえますか?」
「聞こえている」
騎士が答えた。
私は、その声を聞いて、少しだけほっとした。
「騎士さん。私です。分かりますか?」
「もちろんだ。お前には、ずいぶん助けられた」
「そんな……。助けてもらったのは、私のほうです」
彼女の声が、かすかに震えた。
「怖いときも、ひとりぼっちだと思ったときも、騎士さんが来てくれました」
「当然だ、私は騎士だからな」
「だから、今度は私が……」
言葉が、そこで切れた。
「……どうした?」
騎士は、続きを待っていた。
「もしもし?」
「私はここにいる」
私は、彼の横顔を見た。輪郭が、また薄くなっていた。兜の縁が、空気に溶けかけた水彩のように曖昧だった。
そのときだった。
「……あの」
電話の向こうから、戸惑った声がした。
「作者さん、騎士さん、喋っていますか?」
私は顔を上げた。
「え?」
「私、声が聞こえないんですけれども」
空気が、凍った。
騎士が口を開く。
「私はここにいる。おまえのことはよく覚えて──」
声が、途切れた。
騎士の口は動いている。けれど、音がない。さっきまで確かに聞こえていた低い声が、薄い膜の向こう側へ遠ざかるように、私の耳からも消えていった。
「騎士さん?」
彼女が何度も呼びかける。
「聞こえません。どうして? 騎士さん、そこにいるんですよね?」
私は、必死に叫んだ。
「いるわ! あなたに返事をしている。ちゃんと、あなたのことを覚えているって!」
「でも、聞こえないんです……!」
通話は、つながっている。私の声は届いている。それなのに、騎士の声だけが、届かない。
物語と現実の境界が、私たちの言葉を、ひとつずつ切り離していく。
そのとき、騎士の口元から、何かがこぼれた。
息ではなかった。
黒い、細い、文字だった。
それは空中で、縦に連なって、静かに止まった。
```
も
う
、
時
間
が
な
い
```
彼の声は、文字になった。
私が書いた言葉でできた人だ。声を失っても、言葉までは失わない。そんな当たり前のことに、私はそのとき、ようやく思い至った。
「騎士さん!」
彼女が叫んだ。
「私、覚えていますから!」
私はスマートフォンを、手のひらに汗がにじむほど握りしめた。
騎士には、彼女の声が聞こえていない。それでも彼は、まっすぐ前を向いていた。まるで、聞こえているかのように。
「最初に会ったとき、怖かったんです。黒い鎧で、怖いことを言って……。絶対、敵だと思いました」
彼女は、泣きながら笑っていた。笑い声の底に、嗚咽が混じっているのが、はっきり分かった。
「でも、違った。騎士さんは、私を助けてくれた。私がもう駄目だと思ったとき、来てくれたんです」
騎士の指先が、光の粒になってほどけた。ほどけた粒は、床に落ちる前に、空気の中で消えた。
「あなたがいたことを、私は忘れません。物語が読めなくなっても、ここで終わってしまっても、私の中に残っています」
私は、目を閉じた。
彼女が騎士に語りかける声が、耳の奥に響く。それは、私の記憶と重なった。
彼女が感想を送ってくれた夜。書けなくて、画面の前で固まっていた私に、「待っていますから」と言ってくれたこと。私が一文ずつ紡いだ言葉を、誰かが受け取って、胸の中で温めてくれていたこと。
物語は、私ひとりのものではなかった。
騎士は、私が書いた文章の中だけにいたのではない。読んでくれた人の心にも、確かにいたのだ。
だからこそ、怖かった。作品を消すということは、彼に別れを告げるだけではない。彼を愛してくれた読者の記憶まで、私の手で壊してしまうような気がした。
「……私、どうしたらいいの」
声が、漏れた。
騎士は、もうほとんど透けていた。それでも、私のほうを向いた。音のない唇が、動く。
――作者よ。
私は、唇を噛んだ。
――お前が決めろ。
作者、という言葉が、いつもより重かった。
作者とは、物語を生み出す人のことだと思っていた。ここまで来て、ようやく分かった。作者とは、生み出したものを終わらせる権利を持ってしまった人のことでもあるのだ。
誰も代わってくれない。誰にも、代われない。
騎士の唇が、また動いた。
――私が残れば、門も残る。
――門が残れば、影は、お前たちの言葉を伝って、こちら側へ手を伸ばす。
「でも、あなたを消したら……あの人の、あなたへの言葉まで」
――消えはせぬ。
騎士は、静かに首を振った。
――物語を閉じることと、出会ったことをなかったことにするのは、違う。
私は、唇を噛んだ。
そのとき、電話の向こうで、彼女が鼻をすすって言った。
「……作者さん」
「なに?」
「電話が駄目なら、書きます」
彼女は、少しだけ笑った。
「私、いつも感想を書いてきましたから。声が届かないなら、いつもの方法で伝えます。……作者さん、それを騎士さんに見せてあげてください」
スマートフォンが震えた。
画面に、彼女からのメッセージが届いていた。
『騎士さんへ。
あなたの物語を読んで、私は何度も救われました。
読み返しながら、また何度も救われました。
戦う姿より、立ち止まって迷う姿のほうが、ずっと好きでした。
怖いことも、情けないことも、全部ひっくるめて、あなたのことが大好きです。
会えて、よかった。ありがとう。
あなたの読者より』
私は震える手で、画面を騎士のほうへ向けた。
騎士は、画面を見た。
文字が、画面から静かに浮かび上がった。彼女の書いた一文字ずつが、淡い光の糸になって、彼の兜の中へ吸い込まれていく。
読んでいるのだ、と思った。
彼は、読んでいた。
作られた者が、自分を読んでくれた人の言葉を、読んでいた。
長い沈黙があった。
やがて、彼の鎧の胸のあたりから、再び文字があふれ出した。
今度は、止まらなかった。
黒い文字が、部屋の空気の中に、縦に並んで立ち上がっていく。右から左へ、一列、また一列。まるで、見えない紙に、見えない筆で書かれていくように。
```
お 書 私 そ 星 誰 様
前 く を れ 見 か 々
た 手 導 は の の な
ち と い 正 姫 存 女
二 、 た し だ 在 性
人 読 の く と を た
だ む は 、 思 感 ち
っ 目 違 っ じ の
た っ た て 影
て い に
い た
た
```
私は息を止めた。
「……あ」
電話の向こうで、彼女が小さな声を上げた。
「作者さん。今、私の画面にも……縦に、文字が」
騎士の言葉は、彼女のスマートフォンにも届いていた。感想の返信として、縦に並んだ黒い文字が、彼女の画面に現れていたのだ。
「読みます」
彼女が言った。
「聞こえなくても、私が読みます。……騎士さんの声は、私が」
彼女の声が、受話口から流れてきた。一列ずつ、右から左へ。震えながら、つかえながら、それでも途切れずに。
「『様々な女性たちの影に、誰かの存在を感じていた』」
「『星見の姫だと思った。それは正しく、違っていた』」
「『私を導いたのは、書く手と、読む目。お前たち二人だった』」
星見の姫は、書く手と、読む目。
……私と、彼女。
彼の言葉を、騎士ではない人の声で聞いているのに、不思議と、彼の声に聞こえた。
読み上げ終えたとき、彼女は泣いていた。
「……二人、って」
「ええ」
「私も、含まれているんですね」
「当たり前でしょう」
私は、泣き笑いになった。
「あなたがいなければ、あの物語は、ここまで来なかった」
騎士が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
床は、もう軋まなかった。彼の足音は、ほとんど聞こえなかった。
その歩みが止まったのは、私の目の前だった。
彼は、静かに手を上げた。兜に手をかけて、それを外した。
私は、息をのんだ。
私は一度も、彼の顔を書いたことがなかった。
名前を書かなかったように、顔も書かなかった。読者が自由に思い描けるように、と自分に言い訳をして。本当は、書く勇気がなかっただけなのかもしれない。
現れた顔は、想像していたよりもずっと普通だった。
少し疲れた目。額には、小さな傷。口元だけが、少し皮肉に歪んでいる。
ああ、この人だ、と思った。
私が書いた、私の知っている彼だ。
空気が、また縦に震えた。
```
お 私 待 世
前 が っ 界
た 待 て の
ち っ い 女
二 て る 性
人 い と た
だ た は ち
け の 言 が
だ は っ
た
が
```
「『世界の女性たちが待っているとは言ったが、私が待っていたのは、お前たち二人だけだ』」
彼女が、受話口の向こうで、泣きながら読み上げた。
「……ずるい人ね」
私は、笑おうとして、失敗した。
「最後に、そんなことを言うなんて」
騎士は、わずかに口元を上げた。
彼の手が、私の頬に触れた。触れた、というよりも、そこに温度が置かれた、という感覚だった。
彼は、顔を寄せてきた。
目を閉じるべきだ、と思った。
このまま、彼の唇を受け入れてしまえば、きっと私は一生、この瞬間を忘れない。
──けれど同時に、気づいていた。
この距離を許したら、私は二度と──削除ボタンを押せなくなる。
私は、目を閉じなかった。
泣きながら、見開いたまま、右手を伸ばした。
マウスの上に、指を置く。
画面には、『この作品を削除しますか?』という、小さな確認が表示されていた。
あまりに小さい、あまりに事務的な二つのボタン。
何年もかけて育てた物語が、こんな四角の中に収まっていいはずがない。
──それでも、押さなければならなかった。
彼を愛してくれた人の記憶は、私の手では壊せない。
壊れもしない。
出会ったことは、なかったことにならない。
「……騎士さん」
私は、彼の目を見た。
「あなたを、消すわ」
騎士は、静かにうなずいた。
その顔には、恐れも、恨みもなかった。
ただ、自分を生み出した者を信じる、まっすぐな目があった。
「ごめんなさい。これが、私の答え」
「……無茶はするなって、今、言うところだったのに」
騎士の唇が、動いた。
――遅いぞ、作者。
私は、泣きながら、笑ってしまった。
最後まで、この人は。
指に、力を込めた。
押した。
画面が、白くなった。
騎士の鎧が、光の粒となってほどけていく。
肩から、胸から、籠手から。
彼の顔が、私の顔に触れる、ほんの一センチ手前まで来ていた。
唇に、息の温かさだけが触れた。
それは、口づけと呼ぶには足りなくて──何もなかったと呼ぶには確かすぎた。
ほどけていく光の中から、最後の文字が、立ち上がった。
黒い文字が、縦に、六列。
```
強 も そ 休 次 作
い う し め の 者
敵 少 て る 物 よ
を し 、 場 語
。 、 面 に
を は
```
声を失った彼の、最後の注文だった。
休める場面と、そして、もう少し強い敵。
優しさと負けず嫌いが、最後まで、ひとつの文の中に同居していた。
「……注文の多い騎士ね」
声は、震えていた。
騎士は、笑った。
そして、胸を張った。
――私は騎士だからな。
その言葉が、確かに聞こえた気がした。
光が、静かに、部屋の空気に混ざった。
マントが、最後に一度だけ揺れた。
騎士は、いなくなった。
◇◇◇
「……作者さん?」
電話の向こうから、彼女の声がした。
「騎士さんは……?」
私は、答えられなかった。
喉が、ふさがっていた。画面は、暗くなっていた。映り込んだ私の顔は、ひどくくたびれていた。
震える手で、文庫本を開く。
全てのページには、何も書かれていなかった。星見の姫も。予言も。騎士の名も。
すべてが、消えていた。
名前のない騎士が、名前のない余白を残して、帰っていったのだと思った。
「……ごめんなさい」
私は、ようやく言った。
「騎士は、帰ったわ」
彼女は、黙っていた。
やがて、かすかな声で答えた。
「……そう、ですか」
泣いているのだろう。私も、泣いていた。
しばらく、私たちは何も話さなかった。
通話がつながっていることだけが、私たちの部屋を、ほんの少しつないでいた。
「作者さん」
彼女が、おずおずと言った。
「最後に、騎士さんは、何かしてくれましたか?」
私は少し考えた。
「……内緒」
「ずるいです」
「作者の特権ということで」
彼女は、小さく吹き出した。涙の混じった、湿った笑い声だった。
「でも、私、覚えています」
「……ええ」
「騎士さんがいたこと。私を助けてくれたこと。作者さんが、あの物語を書いてくれたこと」
私は、目を閉じた。
「ありがとうございます」
彼女は言った。
「私に、あの物語をくれて」
通話が、終わった。
部屋には、静けさだけが残った。
冷蔵庫の低い唸り。遠くを走る電車の音。壁時計の秒針。ひとりの部屋の音を、私は久しぶりに聞いた。
それから、新しいノートを開いた。
真っさらな紙の白さが、眩しかった。
ペンを握る。手はまだ震えている。それでも、最初の一行を書いた。
書いたそばから、薄れることはなかった。
インクは、紙に、確かに残った。
窓の外で、星がひとつ、瞬いた。
私は、顔を上げた。
「……休める場面と、もう少し強い敵、ね」
声に出すと、また少し、笑ってしまった。
彼は、もういない。
それでも、最後の注文は、私の中に、確かに残っていた。
言葉を受け取った人の中に、物語が残るのなら。
私は、二行目を、書き始めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。m(_ _)m
今回は、作者と読者、そして騎士にとって、大きな節目となるお話でした。
書いた物語を誰かが読んでくれる。
その人が感想を届けてくれる。
作者は、その言葉に励まされ、また次の一行を書く。
普段は当たり前のように思えるやり取りも、決して当たり前ではないのかもしれません。
物語は、作者が書いただけでは、まだ作者の中にあります。
誰かが読んでくれて、何かを感じ、言葉を返してくれたとき、物語は作者の手を離れ、別の誰かの中にも居場所を持つのだと思います。
だからこそ、今回のお話では、作者ひとりではなく、読者の言葉もまた、騎士にとって大切なものとして描きました。
そして、騎士が最後に残した注文。
「休める場面」と「もう少し強い敵」。
この二つは、少し欲張りな騎士らしい言葉でもあります。
戦い続けるだけではなく、休むことも必要だということ。
優しさだけではなく、乗り越えるべき困難も物語には必要だということ。
そんな思いも、彼の最後の言葉に込めています。
最後に。
物語を閉じることと、そこで出会った誰かをなかったことにするのは、違う。
今回のお話を書きながら、私自身も、そのことを考えていました。
ページが閉じられても、作品が読めなくなっても、そこで感じたことや、誰かと交わした言葉まで、すべてが消えてしまうわけではないのでしょう。
読んでくださった皆さまの中にも、この物語の何かが残ってくれたなら、作者として嬉しく思います。(*人´ω`*)




