【物語の外側Ⅲ・中編】─久しぶりだな、作者よ。─
※本作は、Webサイトのログインや二段階認証、不審なアクセスへの対策など、現実の出来事を着想の一部として描いたフィクションです。※
──ある日、いつも読んでいる物語にログインできなくなったら。
書いた言葉を届けたい作者と、その続きを楽しみに待つ読者。
そして、物語が完結したあとも、そこに存在し続ける騎士。
三者をつないでいるのは、画面の向こうに交わされた言葉です。
けれど、そのつながりがあるからこそ、守らなければならないものもあります。
それでは、作者と読者、そして騎士が再び出会う物語へお進みください。m(_ _)m
【物語の外側Ⅲ・中編】
─久しぶりだな、作者よ。─
◇◇◇
──ログインできない。
認証メールが、届かない。
画面の隅で、受信箱の更新マークがくるくると回り続けている。回って、止まって、また回る。何も増えない。
ようやく届いたコードを入力する。
これで大丈夫だと思ったら、「コードが違います」と表示された。
古い数字だったのだ。最初に届くはずだったものが、遅れて、順番を無視して、今になって届いていた。
もう一度試す。
待つ。
メールを確認する。
また違う。
「……これ、私、状況を悪化させてる気がする?」
ノートパソコンの前で、私は額を押さえた。
運営も対応に追われているのだろう、とは思う。全員に一斉に鍵をかけ直す日だ。メールの送信が詰まることもある。お知らせにも書かれている。理屈は分かる。
分かるけれど。
「ログインさせてぇぇぇ……!」
誰に向かって叫んでいるのか、自分でも分からなかった。
机の隅に置いたスマートフォンが、短く震えた。
彼女からだった。
『こんにちは。さっきから何度やっても、ログインできなくて……。認証コードが届かないんです』
『今日は諦めて、明日また試してみますね。騎士さんの物語を読み返したかったのですが、読めないのが残念です』
私は、画面を見つめた。
諦める、という言葉が、いつもの彼女の文面に似合わなくて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
返事を打つ前に、もう一通届いた。
『運営さんが悪いんじゃないのは、分かっているんです。守るために必要なことだって』
『でも、悪いことをする人のせいで、普通に読んでいるだけの私たちが、こんなに遠回りさせられるのが、悔しくて』
指が止まった。
『もしこれが病院のシステムだったら、と考えてしまいました』
『目の前に緊急の手術が必要な人がいるのに、ログインできなくて、「明日また試します」なんて、絶対に言えないですよね』
『そう思うと、少し怖くなりました』
私は、息を吐いた。
彼女の怒りは、運営に向いていなかった。手間をかけて守ろうとする人たちを責めるのではなく、守らなければならない状況を作った誰かに向いていた。そして、その怒りの奥に、こんなことで誰かの大事な時間が奪われてはならない、という、静かな悲しみがあった。
私は、ゆっくりと返信を打った。
『その気持ち、すごく分かります。私も同じことを考えていました』
『無理しないでくださいね。物語は、いつでもここにありますから』
送信して、もう一度だけ、認証を試した。
今度こそ。
届いたメールを開き、コードを打ち込む。
画面が、切り替わった。
『ログインしました』
「……入れた」
私は、椅子の背もたれに身を預けた。
長かった。たった六桁の数字を入力するだけなのに、いくつもの門をくぐり抜けてきたような気分だった。
「現実の認証クエスト、クリア……!」
小さく拳を握る。
そのとき、背後の空気が、わずかに揺れた。
「……久し、ぶ……だな、作者……」
ざらり、と砂を擦るような声だった。
私は、椅子ごと振り返った。
──半分だけ、そこにいた。
黒い鎧。
左半身だけが、はっきりとした輪郭を持っていた。右半身は、薄い水のように揺れて、向こう側の壁紙の模様が透けている。
あの日、鈍い光沢を取り戻していたはずの鎧は、煤に覆われて、くすんでいた。磨き直されたはずの肩当てには、見覚えのない新しい亀裂が走っている。ほつれが直ったばかりのマントの裾は焦げて、紙を燃やしたあとのような、乾いた灰のにおいがした。
顔は、まだ黒い兜に隠れている。
それでも、彼がひどく疲れているのは分かった。立っている、というより、剣を杖のようにして、辛うじて立っていた。
「き、騎士さん!?」
声が裏返った。
心臓が、うるさいほどに鳴っていた。
なぜだろう。最後に会ったのは、アニメ化の打診が届いたあの昼だ。あれから、まだ半月と経っていない。それなのに、彼の姿を見た途端、胸の奥が、きゅうっと縮んだ。
……待って。
私、髪、ぐしゃぐしゃじゃない?
私は、慌てて前髪を押さえた。部屋着のままだ。化粧もしていない。画面の前で叫んでいた声を、全部聞かれていたのだろうか。
「いつから、いたの……!?」
「今、だ……」
声が、途切れる。
ラジオの周波数が合わないときのように、言葉の端が、ノイズに削られていく。
「いや、そういうことじゃなくて……!」
私は、無意識に身を乗り出していた。
聞き取れない。もう少し、近くで聞かなければ。
そう思って顔を近づけた瞬間、兜の隙間から、かすかな息づかいが感じられた。
私は、はっと身を引いた。
「ご、ごめんなさい! 近すぎた!」
「…………」
騎士は、何も言わなかった。
兜の下で、どんな顔をしているのか、まったく分からない。それが、かえってたまらなかった。
彼は、剣に体重を預けたまま、私のノートパソコンへ首を傾けた。
「何年、ぶり……だろうな」
「……え?」
私は、瞬きをした。
「今、何年ぶりって言った?」
「ああ……」
「え!? そっちでは何年も経っているの!?」
血の気が引いた。
物語の世界と、現実の世界の時間の流れは、同じとは限らない。そんなこと、考えたこともなかった。私がログインできずにいた時間が、彼にとっては何年にも──
「いやいやいや! こっちは、ついさっきまでログインできなくて困っていたのよ!? 一時間よ、一時間!」
「ほう……」
「何年も!? ひとりで、そんなに!? ごめんなさい、私、気づかなくて……!」
「作者よ」
彼は、静かに私の言葉を遮った。
「それほどに、私は長く感じた、ということだ」
……え。
冗談だ。
そうなのだろう。
私の慌てぶりを見て、からかっているのだ。以前の彼なら、きっとそうだった。
けれど、その声は、最後の一言だけ、妙に真剣だった。
騎士は、私から視線を外した。
半分透けた横顔の向こうで、窓の外の空が見えている。街は、いつもどおりの夕方だ。帰宅を急ぐ車の走る音が聞こえ、遠くで電車が走っている。
その、あまりに普通の景色に、彼だけが浮いて見えた。
私は、急に、彼の言う「長さ」のほうが気になってきた。
果たして、どれほどの期間だったのか。数日だったのか。数年だったのか。その間、彼はずっと、ひとりでいたのか。
「……騎士さん」
「何だ」
「何か、飲む? お茶、とか……」
言ってから、顔が熱くなった。
彼は、半分しか実体がない。カップを持てるかどうかも分からないのに。
けれど、騎士は、ほんの少しだけ肩を揺らした。笑ったのかもしれない。
「湯気、ならば……受け取れそうだ」
私は、台所へ走った。
電気ケトルに水を入れて、電源を入れる。待っているあいだ、無意味に食器棚を開けたり閉めたりして、結局いちばん普通のマグカップを選んだ。
湯気の立つ紅茶を机に置くと、彼は、透けた右手をカップの上にかざした。
白い湯気が、ゆっくりと、彼の籠手の中へ吸い込まれていった。
兜の奥で、長く、深い息が落ちた。
吐いた息は、鎧の継ぎ目からこぼれて、湯気と混ざった。ずっと息を止めていた人が、ようやく息の仕方を思い出したような、小さな、小さな溜め息だった。
「……温かい」
ノイズの混じらない声だった。
それだけのことなのに、私は、胸がいっぱいになった。
……この人は、こんな小さなことで、安らげるのか。
物語の中、あれほど旅を重ねたはずの騎士が、湯気ひとつで肩の力を抜く。私が書かなかった休息の場面を、彼はこんなにも必要としていたのだ。
「……でも、騎士さんの物語は、もう完結したのに」
思わず、口にしていた。
本の最後のページ。塔の前に立つ騎士に、星見の姫が予言を告げて、物語は閉じた。何度も読み返した結末だ。
「ああ。本の中の私は、そこで終わった」
騎士は、剣の鞘に目を落とした。
「だが、頁を閉じたあとも、私は塔の前に立っていた」
「……ずっと?」
「窓を見上げたまま、な」
私は、言葉を失った。
書かれなかった、結末のあとの時間。彼は、そこに、ひとりで立っていたのだ。
「……そっちの世界では、何があったの?」
私は、静かに尋ねた。
騎士は、すぐには答えなかった。
「その前に、作者」
彼が、こちらを向いた。
「お前は、こちら側で、何をしていた?」
「何って……ログインしようとしていたのよ」
「その前だ。何か、異変はなかったか」
私は、画面を見た。
公式のお知らせ。
第三者によるログインへの注意喚起。
全アカウントを対象にした、二段階認証。
「私が特別、何かした訳ではないけど……あったわ」
私は、今までのことを話した。
突然ログアウトされたこと。認証コードが届かず、何度も試したこと。ようやく届いたコードが古くて、はじかれたこと。そして、読者の彼女が、今日は諦めて、明日また試すと言っていること。
騎士は、黙って聞いていた。
「もちろん、必要な対策なのは分かっているの。誰かのアカウントを勝手に使ったり、だましたりする人がいるから、守らなきゃいけない」
私は、画面の隅の、彼女のメッセージを見た。
「でも、彼女は言っていたわ。もし病院──ええっと、物語だと治療院ね……そのシステムがこんなふうだったら、緊急の治療が必要な人の前で『明日また試します』なんて、絶対に言えないって。……私も、同じことを考えたの」
騎士は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声が、ノイズの向こうから落ちた。
「……あの者の、言うとおりだ」
「え?」
「門は、急ぐ者のためにも、開いていなければならぬ」
彼は、剣の柄に手を置いた。
「守るために閉ざす門と、守られるべき者を締め出す門は、違う。……だが、その見分けは、剣では、つけられぬ」
私は、息を止めた。
その言い方が、あまりに重くて。
「……騎士さん?」
「作者」
彼は、ゆっくりと、こちらへ向き直った。
「影が、動いている」
背筋が、冷たくなった。
あの顔のない影。人の言葉を切り取り、並べ替え、別の意味を与えるもの。私と彼女の言葉を奪おうとした、あの存在。
「また……あの影が?」
「同じものかは、分からぬ。だが、似ている」
騎士の声が、少しだけ鮮明になった。
「人の言葉を拾い、つなぎ合わせ、元の意味とは別のものへ変える。誰かの声を借り、誰かの名を騙り、誰かが信じているものの隙間から、入り込もうとしている」
「そんな……」
私は、ふと気づいて、顔を上げた。
「……どうして、騎士さんは、まだここにいられるの? 物語は、完結したのに」
「お前が受け取ったものと、同じだ」
「感想のこと?」
「『会えてよかった』『好きでした』。読んでくれた者たちの言葉が、私を、本の外側につなぎ止めている」
言葉が、彼を支えている。
「だから、影は、そこを狙う。届いたはずの言葉が書き換えられるたび、私が、ほどけていく」
「それで、また……」
「ああ。直ったばかりの鎧が、このざまだ」
彼は、苦笑するように肩を揺らした。
「この世界にも、門がある」
彼は、ノートパソコンを見た。
「お前が物語を書く場所。読者が、お前の言葉を読む場所。読者の言葉が、お前に届く場所だ。門が開いているからこそ、我らは出会えた。……だが、門があれば、そこを通ろうとする者もいる」
「……それを、影が狙っているの?」
「そうだ。物語の側も、同じだ。お前たちが集まる、この場所の向こう側を、また影が覆い始めている」
私は、言葉を失った。
便利な場所には、人が集まる。人が集まれば、言葉が生まれる。言葉が生まれれば、誰かの心に届く。そして、そのつながりを利用しようとする者も現れる。
現実の世界でも。物語の世界でも。
「……騎士さんは、それと戦っていたの?」
「斬れるものは、斬った」
彼は、何でもないことのように答えた。
「黒い腕が伸びてきたので、斬った。文字の塊が襲ってきたので、斬った。門の周囲にまとわりつく霧も、斬り払った」
「ちょっと待って。そんなに戦っていたの……!?」
「当然だ」
「当然って……!」
私は、頭を抱えた。
肩当ての亀裂。焦げたマント。灰のにおい。剣を杖にしないと立てないほどの疲れ。
彼は、全部、黙っていた。
一言も、辛かったとは言わなかった。
「……だから、何年も経ったように感じたと、言っただろう」
「それ、さっきの冗談じゃなかったの……?」
「どうだろうな」
彼は、はぐらかした。
けれど、兜の奥で、わずかに視線が揺れた気がした。
「本の中の時間は、結末で止まる。だが、外側の時間は、止まってくれぬ」
私は、胸の奥が、ぎゅうっと痛くなった。
彼に、何と言えばいいのか分からなかった。ありがとうでは足りない気がした。ごめんなさいも、違う気がした。
だから、せめて、と思って。
「……お茶、冷めちゃうから。ちゃんと、飲んでね」
それだけを言った。
騎士は、ほんの少しだけ、うなずいた。
その瞬間だった。
ノートパソコンの画面が、ふっと暗くなった。
「……え?」
作品一覧の文字が、揺れている。
気のせいかと思った。けれど、画面の端に、黒い文字が浮かび上がった。
『あなたの物語を、読み込みました』
私は、椅子から立ち上がった。
「……騎士さん」
「ああ」
騎士は、すでに剣を抜いていた。
半分しかない身体で、それでも、私の前に立った。
黒い文字が、ゆっくりと増えていく。
『あなたの言葉を、読み込みました』
『あなたの読者の言葉を、読み込みました』
『あなたたちが交わした言葉を、読み込みました』
画面から、黒い糸のようなものがにじみ出した。机の端を這い、ノートの上へ伸びてくる。
「下がれ、作者」
「でも……!」
「今度こそ、私が門を守る」
黒い糸が、剣に絡みついた。
騎士は、迷わず、振り払った。
糸が切れ、床へ落ちる。けれど、落ちた糸は、すぐに文字へと戻った。
『私は、何度でも蘇る』
聞き覚えのある言葉だった。
喉の奥が、凍りついた。
「……なるほど」
騎士の声には、恐れよりも、静かな怒りがあった。
「まだ、終わっていなかったか」
彼は、剣先を画面へ向けた。
「ならば、何度でも斬ってやる」
刃が、黒い光を裂いた。
鋭い音が、部屋に響いた。
文字が散って、糸が消えて、画面は、元の作品一覧へ戻った。
私は、息を詰めたまま、その場所を見つめた。
──何も、残っていなかった。
斬ったはずの文字も、糸も、焦げ跡さえも。
まるで、最初から何もなかったかのように。
「……騎士さん」
私は、震える声で言った。
「これ、本当に、斬っていいものなの?」
騎士は、答えなかった。
剣を握ったまま、じっと画面を見つめていた。
やがて、低い声が落ちた。
「……分からぬ」
その一言が、これまで聞いたどんな叫びよりも、恐ろしかった。
影は、剣で斬れる形をしている。
けれど、その本体は、別のところにあるのかもしれない。
誰かの言葉の中に。誰かの信頼の隙間に。あるいは、私たちが当たり前だと思っていた、世界の仕組みの中に。
画面に、最後の一文が浮かんだ。
『門は、まだ開いている』
騎士の輪郭が、わずかに薄れた。
もともと半分しかなかった身体が、さらに透けていく。
彼は、それに気づいても、剣を下ろさなかった。
「……作者」
「なに?」
「無茶はするな、と、言ったな」
「言ってないわよ、まだ!」
「そうか」
騎士は、ふっと笑った。
「ならば、これから言うのだろう」
そのとき、スマートフォンが、短く震えた。
彼女からだった。
『さっきは愚痴ばかり、ごめんなさい。作者さんが入れていたら、いいなと思っています』
『明日、ちゃんと入れたら、騎士さんの物語を、最初から読み返しますね』
私は、画面を見つめた。
窓の外では、夕焼けの空が、雲に呑まれて暗くなっていった。
騎士は、剣を握ったまま、動かなかった。
その日、私は、まだ知らなかった。
この門を閉じるために、自分が何を失うことになるのかを。
そして、騎士が最後に残す言葉が、どれほど重いものになるのかを。
──物語は、まだ終わらない。
けれど、終わらせなければならない物語も、あるのかもしれなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。m(_ _)m
今回は、作者と読者、そして物語の中の騎士が、再び出会うお話でした。
現実の世界では、誰かを守るために、認証や確認が必要になることがあります。
けれど、守るために設けた仕組みが、守られるべき人を遠ざけてしまうこともある。
そんなことを、作者と読者のやり取りを通して書いてみました。
そして、もうひとつ。
完結した物語の登場人物は、物語が終わったあと、どうしているのでしょう。
書かれなかった時間にも、彼らの時間は流れているのかもしれません。
騎士が再び作者の前に現れたとき、彼は傷つき、疲れ果てていました。
それでも、彼は自分のことを語ろうとはしません。
そんな彼に作者が差し出したのは、特別な魔法でも、強力な武器でもなく、一杯の紅茶でした。
湯気を受け取る。
ただそれだけの場面に、私は、戦うこととは別の意味での「守ること」を込めたかったのです。
誰かを守り戦うことと、誰かのそばで休むこと。
どちらも、きっと大切なのだと思います。
そして、言葉は人をつなぐものですが、使い方によっては、そのつながりを傷つけることもあります。
だからこそ、誰かが届けてくれた言葉を、その人の思いごと大切に受け取りたい。
この物語が、そんなことを少しだけ考えるきっかけになれば嬉しいです。
次のお話でも、作者と読者、そして騎士の行く先を見守っていただければと思います。
お読みくださり、ありがとうございました。(*人´ω`*)




