第9話:屋敷に、写しはございますか
朝、看板に字が増えておりました。
タニアさんが先に見つけて、店の中へ知らせにいらっしゃいます。
「七文字です」
「七文字ですね」
「一つ目は……『ち』です」
わたくしは天板を拭く手を止めました。
「読めたのですか」
「形で覚えました。姉さんが帳面に書くとき、いちばん多く出てくるやつです」
「そうでございますか」
「乳でしょう。乳の話ばっかりですもん、あの帳面」
外へ出ますと、こう書いてございました。
——ちちがのめない
書いた方は、まだいらっしゃいません。
その方が、昼の少し前にいらっしゃいました。
戸口で一度足を止めて、天井の梁を見上げてから入ってこられます。厨房に入るときの癖でございます。梁の高さで、煙の抜け方を見る。
五十を過ぎた男の方でした。背は高くございません。手だけが大きうございます。
わたくしは、その手を存じておりました。
「ロゼリア様」
「……ギードさん」
ヴァレンティ伯爵家の料理番でございます。三年、同じ厨房におりました。
タニアさんが椅子を引かれました。
「どうぞ」
「いえ」
ギードさんは土間に立ったままでいらっしゃいます。前掛けはしておられませんが、上着の右の袖口だけが濃く汚れておりました。鍋の縁を拭う側でございます。
「何を召し上がりますか」
「いえ」
「湯だけでもお出しします」
「いえ」
それから、ギードさんはこうおっしゃいました。
「一つだけ、伺いに参りました」
「はい」
「屋敷に、写しはございますか」
わたくしは炭を置きました。
「写し、と申しますと」
「ロゼリア様の帳面の写しでございます。お発ちになる前に屋敷へお残しになったものが、一冊でも」
「ございません」
「……そうですか」
ギードさんは、それだけ伺うと戸口のほうを向かれました。
「ギードさん」
「はい」
「屋敷にいらっしゃるのは、ギードさんのほうでございます」
ギードさんの背が、止まりました。
「お探しになったのですね」
「……はい」
「どちらを」
「厨房の棚。壁の紙。ヴェルナー様の文箱。それから、奥様の……先の奥様のお部屋の、抽斗を全部」
「壁の紙は、月ごとに貼り替えておりました」
「剥がされておりました」
「そうですか」
「はい」
わたくしは頷きました。
貼り替えた古い紙は、火口に使っておりました。三年ぶん残しておけば、厨房が紙で埋まります。
「白い帳面は、届きましたか」
話が変わりました。
「はい。昨日でございます」
「あれは、私が作らせました」
わたくしは、ギードさんの顔を見ました。
「革は三月かけて選びました。綴じは王都の職人にやらせました。ヴェルナー様に願い出て、金を出していただきました」
「立派なものでございました」
「一枚も、書けませんでした」
「献立は、書いてございました」
「献立は書けます」
ギードさんは、そこで初めてこちらをご覧になりました。
「献立しか、書けんのです」
タニアさんが、布を絞ったままこちらを見ていらっしゃいました。
「あの字は、三人目の方でございますか」
「はい。二十二の男です。王宮の下で三年やっておりました」
「お若うございますね」
「昨日、荷を出しました」
わたくしは天板を裏返して、油の乗りを見ておりました。
「いまは、どうなさっていますか」
「王都から取り寄せて、温め直しております」
「温め直しますと、香草が飛びます」
「飛びます」
「肉は、締まります」
「締まります」
ギードさんは、そこで一度、息を吐かれました。
「ロゼリア様。私は、温め直しをやっております。二十年、鍋を持ってきた男がです」
わたくしは何も申し上げませんでした。
「ギードさん」
「はい」
「なぜ、写しをお探しなのですか」
ギードさんは、答えられませんでした。
長うございました。数えれば四十は数えられたと思います。数えませんでした。
「……そちらの棚の粉は、下の段へ移されたほうがよろしい」
ギードさんは、そうおっしゃいました。
「その壁は、朝に水を吸います。裏が井戸でしょう」
「はい」
「差し出がましいことを申しました」
「いいえ。助かります」
ギードさんは頭を下げて、出ていかれました。
何もお買いになりませんでした。湯も召し上がりませんでした。
タニアさんが戸口まで走って、外を覗いてから戻ってこられました。
「なんですか、あの人」
「元の、屋敷の料理番でございます」
「何も買わないで、粉の置き場だけ直して帰りましたよ」
「はい」
「腹立つな」
「はい」
タニアさんは腕を組んで、一歩下がられました。
「姉さん。あの人、姉さんを追い出した側の人ですよね」
「はい」
「怒らないんですか」
「怒っておりません」
「じゃあ、いま何してるんですか」
「粉を移しております」
わたくしは袋を抱えて、下の段へ移しておりました。
袋の底が、少し湿っておりました。ギードさんのおっしゃるとおりでございます。
袋は六つございました。一つずつ抱えて、下の段へ入れ替えます。上の段には天板を寝かせました。壁に触れる面が減れば、吸う水も減ります。
入れ替え終わるまでに、半刻ほどかかりました。
その半刻のあいだ、わたくしはギードさんの手のことを考えておりました。
あの方の右手の甲には、火傷の痕が三つございます。三年前からございました。増えても減ってもおりません。
鍋を持つ人の手でございます。温め直しをする人の手ではございません。
あの方は、店に入ってから出ていくまでのあいだに、うちの壁の乾き方を見ておられました。
三年、同じ厨房におりました。厨房でわたくしが何を書いていたかを、あの方は毎日見ていらっしゃいました。壁の紙を貼り替えるのも、見ていらっしゃいました。
剥がされていたと、いま伺いました。
夕方、レイフ様が窯の火を落としにいらっしゃいました。
「昼間、うちの客が行っただろう」
「ギードさんでしょうか」
「名は聞いてねえ。年寄りだ。三日前から泊まってる」
「三日」
「三日だ」
レイフ様は、竈の口を覗いていらっしゃいます。
「初日から、あんたの店を見てた。道の向かいの塀んとこで、朝から晩まで座ってる。四日目に入っていった」
「はい」
「それと、荷がない」
「荷、でございますか」
「着替えを持ってねえ。街道を三日来る男が、鞄一つ提げてねえんだ」
わたくしは天板を拭く手を止めました。
「いつまでいらっしゃるのでしょう」
「聞いた」
「何とおっしゃいましたか」
レイフ様は、竈の口を閉められました。
「分からん、と言った」
【今日の帳面】
(書き置き)「ちちがのめない」——七文字。書いた方はまだ現れず。
ギード/五十二。ヴァレンティ伯爵家 料理番。注文なし。屋敷にて捜索済み——厨房の棚/壁の紙/文箱/先の奥様の抽斗。本人の言「献立しか、書けんのです」。
何を頼まれたかではなく、何を尋ねられたかのほうを書いておくことが、ときどきございます。
次回、王都から一台の馬車が街道を戻ってまいります。乗っておられるのは、伯爵家の晩餐会に招かれた方でございます。たいへん、お腹を空かせていらっしゃいます。




