表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/30

第9話:屋敷に、写しはございますか

 朝、看板に字が増えておりました。


 タニアさんが先に見つけて、店の中へ知らせにいらっしゃいます。


「七文字です」


「七文字ですね」


「一つ目は……『ち』です」


 わたくしは天板を拭く手を止めました。


「読めたのですか」


「形で覚えました。姉さんが帳面に書くとき、いちばん多く出てくるやつです」


「そうでございますか」


「乳でしょう。乳の話ばっかりですもん、あの帳面」


 外へ出ますと、こう書いてございました。


 ——ちちがのめない


 書いた方は、まだいらっしゃいません。


 その方が、昼の少し前にいらっしゃいました。


 戸口で一度足を止めて、天井の梁を見上げてから入ってこられます。厨房に入るときの癖でございます。梁の高さで、煙の抜け方を見る。


 五十を過ぎた男の方でした。背は高くございません。手だけが大きうございます。


 わたくしは、その手を存じておりました。


「ロゼリア様」


「……ギードさん」


 ヴァレンティ伯爵家の料理番でございます。三年、同じ厨房におりました。


 タニアさんが椅子を引かれました。


「どうぞ」


「いえ」


 ギードさんは土間に立ったままでいらっしゃいます。前掛けはしておられませんが、上着の右の袖口だけが濃く汚れておりました。鍋の縁を拭う側でございます。


「何を召し上がりますか」


「いえ」


「湯だけでもお出しします」


「いえ」


 それから、ギードさんはこうおっしゃいました。


「一つだけ、伺いに参りました」


「はい」


「屋敷に、写しはございますか」


 わたくしは炭を置きました。


「写し、と申しますと」


「ロゼリア様の帳面の写しでございます。お発ちになる前に屋敷へお残しになったものが、一冊でも」


「ございません」


「……そうですか」


 ギードさんは、それだけ伺うと戸口のほうを向かれました。


「ギードさん」


「はい」


「屋敷にいらっしゃるのは、ギードさんのほうでございます」


 ギードさんの背が、止まりました。


「お探しになったのですね」


「……はい」


「どちらを」


「厨房の棚。壁の紙。ヴェルナー様の文箱。それから、奥様の……先の奥様のお部屋の、抽斗を全部」


「壁の紙は、月ごとに貼り替えておりました」


「剥がされておりました」


「そうですか」


「はい」


 わたくしは頷きました。


 貼り替えた古い紙は、火口に使っておりました。三年ぶん残しておけば、厨房が紙で埋まります。


「白い帳面は、届きましたか」


 話が変わりました。


「はい。昨日でございます」


「あれは、私が作らせました」


 わたくしは、ギードさんの顔を見ました。


「革は三月かけて選びました。綴じは王都の職人にやらせました。ヴェルナー様に願い出て、金を出していただきました」


「立派なものでございました」


「一枚も、書けませんでした」


「献立は、書いてございました」


「献立は書けます」


 ギードさんは、そこで初めてこちらをご覧になりました。


「献立しか、書けんのです」


 タニアさんが、布を絞ったままこちらを見ていらっしゃいました。


「あの字は、三人目の方でございますか」


「はい。二十二の男です。王宮の下で三年やっておりました」


「お若うございますね」


「昨日、荷を出しました」


 わたくしは天板を裏返して、油の乗りを見ておりました。


「いまは、どうなさっていますか」


「王都から取り寄せて、温め直しております」


「温め直しますと、香草が飛びます」


「飛びます」


「肉は、締まります」


「締まります」


 ギードさんは、そこで一度、息を吐かれました。


「ロゼリア様。私は、温め直しをやっております。二十年、鍋を持ってきた男がです」


 わたくしは何も申し上げませんでした。


「ギードさん」


「はい」


「なぜ、写しをお探しなのですか」


 ギードさんは、答えられませんでした。


 長うございました。数えれば四十は数えられたと思います。数えませんでした。


「……そちらの棚の粉は、下の段へ移されたほうがよろしい」


 ギードさんは、そうおっしゃいました。


「その壁は、朝に水を吸います。裏が井戸でしょう」


「はい」


「差し出がましいことを申しました」


「いいえ。助かります」


 ギードさんは頭を下げて、出ていかれました。


 何もお買いになりませんでした。湯も召し上がりませんでした。


 タニアさんが戸口まで走って、外を覗いてから戻ってこられました。


「なんですか、あの人」


「元の、屋敷の料理番でございます」


「何も買わないで、粉の置き場だけ直して帰りましたよ」


「はい」


「腹立つな」


「はい」


 タニアさんは腕を組んで、一歩下がられました。


「姉さん。あの人、姉さんを追い出した側の人ですよね」


「はい」


「怒らないんですか」


「怒っておりません」


「じゃあ、いま何してるんですか」


「粉を移しております」


 わたくしは袋を抱えて、下の段へ移しておりました。


 袋の底が、少し湿っておりました。ギードさんのおっしゃるとおりでございます。


 袋は六つございました。一つずつ抱えて、下の段へ入れ替えます。上の段には天板を寝かせました。壁に触れる面が減れば、吸う水も減ります。


 入れ替え終わるまでに、半刻ほどかかりました。


 その半刻のあいだ、わたくしはギードさんの手のことを考えておりました。


 あの方の右手の甲には、火傷の痕が三つございます。三年前からございました。増えても減ってもおりません。


 鍋を持つ人の手でございます。温め直しをする人の手ではございません。


 あの方は、店に入ってから出ていくまでのあいだに、うちの壁の乾き方を見ておられました。


 三年、同じ厨房におりました。厨房でわたくしが何を書いていたかを、あの方は毎日見ていらっしゃいました。壁の紙を貼り替えるのも、見ていらっしゃいました。


 剥がされていたと、いま伺いました。


 夕方、レイフ様が窯の火を落としにいらっしゃいました。


「昼間、うちの客が行っただろう」


「ギードさんでしょうか」


「名は聞いてねえ。年寄りだ。三日前から泊まってる」


「三日」


「三日だ」


 レイフ様は、竈の口を覗いていらっしゃいます。


「初日から、あんたの店を見てた。道の向かいの塀んとこで、朝から晩まで座ってる。四日目に入っていった」


「はい」


「それと、荷がない」


「荷、でございますか」


「着替えを持ってねえ。街道を三日来る男が、鞄一つ提げてねえんだ」


 わたくしは天板を拭く手を止めました。


「いつまでいらっしゃるのでしょう」


「聞いた」


「何とおっしゃいましたか」


 レイフ様は、竈の口を閉められました。


「分からん、と言った」

【今日の帳面】


(書き置き)「ちちがのめない」——七文字。書いた方はまだ現れず。

ギード/五十二。ヴァレンティ伯爵家 料理番。注文なし。屋敷にて捜索済み——厨房の棚/壁の紙/文箱/先の奥様の抽斗。本人の言「献立しか、書けんのです」。


 何を頼まれたかではなく、何を尋ねられたかのほうを書いておくことが、ときどきございます。


 次回、王都から一台の馬車が街道を戻ってまいります。乗っておられるのは、伯爵家の晩餐会に招かれた方でございます。たいへん、お腹を空かせていらっしゃいます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ