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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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第10話:晩餐会で、誰も皿に手をつけなかった

 その馬車が三日月亭の前に止まったのは、店を閉めたあとでございました。


 四頭立てで、御者が二人ついております。この街道では見ないものです。


 タニアさんが戸の隙間から覗いて、こうおっしゃいました。


「姉さん、すごいのが来ました」


「そうですか」


「うちの町、こんなの止まる場所ないですよ」


 レイフ様がいらしたのは、それから少し経ってからでございます。


「客が一人、腹を減らしてる」


「宿のお食事は」


「出した。手をつけねえ」


「では、わたくしの領分ではございません」


「貝が駄目だとよ」


 わたくしは炭を取りました。


 リンドラー伯爵様でございました。


 六十を過ぎた小柄な方です。ヴァレンティ家の晩餐には、年に二度、必ずいらしておりました。わたくしが献立を作っておりました。


「ヴァレンティの奥方か」


「いまは違います」


「そうか。そうだったな」


 伯爵様は椅子に腰を下ろされて、それきりしばらく黙っておられました。


「三日、まともに食っておらん」


「三日」


「屋敷を出てからだ」


 わたくしは湯を沸かして二つ出しました。


「晩餐が、成立せんかった」


 伯爵様は、卓に両手を置いていらっしゃいます。


「一の皿が出た。主人が匙を置いた。口に合わん、と言った」


「はい」


「下げさせた。主人が食わんものを、客が食うわけにいかん。全部下がった」


「二の皿は」


「同じだ。三の皿も同じだ」


「何皿ございましたか」


「七皿だ。七皿とも、そのまま下がった」


 わたくしは炭を持ったままでおりました。


「三時間、座っておった。二十二人でだ。誰も何も食わずにだ」


「はい」


「話すこともなくなってな。しまいには、皿を下げる音だけになった」


「お帰りには、なれませんでしたか」


「なれん。招いた家の主人が座っておるうちは、誰も立てん」


「はい」


「主人は、四の皿のところで一度立った」


「戻られましたか」


「戻った。何も言わずにな。それから、また下げさせた」


 伯爵様は湯呑みを持ち上げて、口をつけずに戻されました。


「途中で、新しい奥方が気を利かせた。貝の焼いたのを、私の前に出させた」


「……はい」


「私は貝が食えん」


「はい」


「三十年、王都では知らん者がおらん。ヴァレンティの食卓にも、二十年出たことがなかった」


 伯爵様は、卓の木目をご覧になっておりました。


「出た。今年、初めて出た」


「はい」


「私は下げてくれと言った。奥方は、なぜですかとお尋ねになった」


 わたくしは頷きました。


「なぜですか、と聞かれたのは初めてだ。三十年で初めてだ」


 それから、伯爵様はこうおっしゃいました。


「あの家の食卓は、間違えん家だった」


「はい」


「二十年、一度も間違えんかった。誰がやっておったのかは、知らんが」


 わたくしは、湯呑みを下げました。


 それだけでございます。


 その晩は、貝を使わずに焼きました。


 使わないだけでは足りません。貝の駄目な方は、たいてい貝を茹でた鍋も駄目でございます。三日月亭の窯には、その日の昼に貝の汁を炊いた鍋がかかっておりました。天板は新しいほうに替えて、菜種の油で拭きました。窯へ入れる前に、鍋を全部外していただきました。


「そこまでやるんですか」


 タニアさんが、鍋を抱えて外へ運びながらおっしゃいます。


「はい」


「洗ってあるのに」


「洗ってあっても、湯気が回ります」


 粉と、擂った胡桃と、香草を少し。伯爵様は香草をよくお召しになります。


 焼き上がりまで、レイフ様が戸口に立っていらっしゃいました。何もおっしゃいません。窯の前でわたくしが数を数えるのを、見ていらっしゃっただけでございます。


 伯爵様は、四つ召し上がりました。


 うまい、とはおっしゃいませんでした。


「……皿が空いた」


 そうおっしゃいました。


「三日ぶりだ」


「奥方」


「はい」


「なぜ、私が貝を食えんと分かった」


「宿の主人から伺いました」


「宿の主人は、鍋のことまでは言うまい」


 わたくしは天板を洗っておりました。


「鍋のことは、どこで聞いた」


「三年、同じ食卓におりましたので」


「そうか」


 伯爵様は、それで得心なさったようでございました。


 三年、同じ食卓におりました。伯爵様は上座から三つ目の椅子で、わたくしはその皿を組んでおりました。同じ、ではございません。


 訂正するほどのことではございませんでした。


 わたくしは帳面を出して、リンドラーの頁を繰りました。


 新しい頁は作りませんでした。三年前の頁がございます。


 ——リンドラー伯/貝すべて不可。茹で汁・同じ鍋も不可。香草はよくお召しになる。


 その下に、日付を書き足しました。


 三年前に書いた紙が、まだ働いております。


 一枚目の字のことを、少しだけ考えました。母のあの一行も、どなたかの前で働いていたのでしょうか。


「奥方」


「はい」


「屋敷で、あんたの帳面を探しておるぞ」


「伺っております」


「厨房ではない。ヴェルナーが探しておる」


「はい」


「母君は寝間から出てこられんそうだ。マルグリット殿だ」


 三年のあいだ、あの方が食卓につかなかった日はございませんでした。


「それと、もう一人おる」


 わたくしは炭を置きました。


「もう一人」


「晩餐に来ておった若い娘だ。名は聞かなんだが、食卓で厨房のことばかり聞いておった。前の奥方の手控えはどこへ行ったのか、と」


「……そうですか」


「妙な娘だ。皿には一度も手をつけんかった」


 誰も手をつけなかった晩でございますから、その方だけが妙だということにはなりません。


 なりませんが、わたくしは書き取りました。


 伯爵様は、翌朝お発ちになりました。


 卓に銀貨が一枚置いてございました。多うございましたので追いかけましたが、馬車はもう動き始めておりました。


「王都で、この店の名を出す」


 乗り込む前に、そうおっしゃいました。


「名は」


「ございません」


「店の名がないのか」


「ございません」


「では、そう言おう。街道の、看板に字を書かせる店だとな」


 馬車が行ってから、レイフ様が横に立たれました。


「良かったな」


「はい」


「良いことばかりじゃねえぞ」


「はい」


「この町には、菓子の組合がある」


「伺っております」


「よそから来た店の名が王都で呼ばれると、だいたい何かが止まる」


「何が止まるのでしょう」


 レイフ様は、轍のほうをご覧になっていました。


「さあな」

【今日の帳面】


リンドラー伯/貝すべて不可。茹で汁・同じ鍋も不可。香草は可。(三年前の頁に日付を追記)

ヴァレンティ家 晩餐/七皿、すべて手つかずで下げられる。出席二十二名、三時間。

(聞き書き)若い娘一名。厨房のことばかり尋ねる。皿に一度も手をつけず。


 食卓は、間違えないうちは誰にも気づかれません。気づかれるのは、間違えたときだけでございます。


 次回、朝になっても粉が届きません。粉挽き屋のタニアさんが、お父上の言葉をそのまま持ってこられます。「言えん」でございました。

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