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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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11/30

第11話:粉屋の荷が、止まりました

 その朝、粉が届きませんでした。


 三日月亭の窯は四時からお借りしております。宿のパンを焼き終えて店の粉を計ろうとしたところで、袋が一つも積まれていないことに気づきました。


 六時に、タニアさんがいらっしゃいました。手ぶらでございます。


「粉、出せないそうです」


「そうですか」


「父が言うには『言えん』だそうです」


「言えん」


「言えん、です。三回聞きましたけど、三回とも言えんでした」


 わたくしは棚を確かめました。


 粉は袋の底に四日ぶん。蜂蜜は開けてから三日で、あと十二日はもちます。胡桃は擂ったものが六日ぶんと殻つきが九日ぶん。菜種の油が二本。


「四日でございます」


「四日」


「粉が四日で、胡桃が九日ございます。胡桃だけが余ります」


「そこで胡桃の話をするから潰れるんです」


「はい」


「腹立つな」


 次の家賃まで、あと十三日でございます。


 昼までに、町の粉屋を三軒回りました。


 一軒目は、今月はもう出せないとおっしゃいました。二軒目は奥から出てこられませんでした。


 三軒目は戸を開けてくださいましたが、わたくしの顔を見てから看板の立ててある方角をご覧になって、こうおっしゃいました。


「あんたのとこには、うちからは出せんことになった」


「どなたがそうお決めになったのでしょう」


「決まったんだ」


 それだけでございました。


 町の外の粉挽きまでは馬車で半日でございます。半日かけて行って半日かけて戻りますと、その日は焼けません。焼けない日が続けば、四日ぶんの粉は四日ぶんのままでございます。


 昼過ぎに、アダンさんが店の前を通られました。


「新月まで、あと六日です」


「はい」


「五日おきでしたな」


「はい」


「ひと月ぶんで六回だ。数えました」


 アダンさんは指を折って、もう一度数え直していらっしゃいました。


 わたくしは棚の粉を思いました。四日ぶんでございます。


「アダンさん」


「はい」


「粉が」


 そこまで申し上げて、やめました。


 まだ六日ございます。六日あれば、何とかなる見込みが立つかもしれません。立たなければ、そのときに申し上げます。


「……いえ。お待ちしております」


「頼みます」


 アダンさんは頭を下げて行かれました。


 三日月亭へ戻りますと、レイフ様が帳場で紙を睨んでいらっしゃいました。


「明日から、宿のパンを二十四にする」


「十二ではございませんでしたか」


「増やす」


「泊まりのお客様は昨日と同じ四人でございます」


「増やすと言ってる」


 宿の粉で焼く数を増やせば、宿の粉が減ります。減った分は宿が仕入れます。三日月亭は組合に入っておりますので、そちらの粉は止まりません。


「レイフ様」


「なんだ」


「二十四は、多うございます」


「じゃあ十八だ」


「十八でも、四人では余ります」


「余ったら俺が食う」


 わたくしは頭を下げました。


 それ以上は申し上げませんでした。


「姉さん」


「はい」


「あの人、パン嫌いですよ」


「そうでございますか」


「宿の朝、いつも残してます。端っこだけ食べて、残りは犬にやってます」


 焼けない日ができましたので、棚の整理をいたしました。


 帳面は三年で厚くなっております。綴じの糸が緩んで、頁の順が崩れかけておりました。糸を掛け直すには一度全部を外さなければなりません。


 外した頁を日付の順に卓へ並べました。三年ぶんで、卓が二つ要ります。


 棚には屋敷から届いた白い帳面も入っております。白紙が百八十枚ございました。使ってよいものかどうか少し考えて、そのままにいたしました。


 卓のいちばん端に来るのが一枚目でございます。


 母の字でございます。


 ——この方は、白いものを召し上がれない。


 名前のところは、掠れて読めません。


 わたくしはその紙を、初めて綴じから外して持ちました。


 外して分かったことが、二つございます。


 一つ。この紙だけ、ほかの頁より厚うございます。指で挟むと、手触りが違います。


 二つ。端が切り揃えられておりません。片側だけ繊維が毛羽立っております。


 破って、綴じ込まれた紙でございました。


 もとは別の綴りにあったものです。


 窓の明かりに透かしてみました。裏から見ても、名前のところは掠れたままでございます。


 母には、別の帳面がございました。


 これはそこから一枚だけ抜いたものでございます。


 なぜ一枚だけなのか。残りはどこへ行ったのか。


 考えても、書いてはございません。


 もう一つ、腑に落ちないことがございます。


 白いもの、という書き方でございます。


 わたくしでしたら、そうは書きません。乳か、粉か、卵の白身か、塩か、どれかを書きます。書けなければ、書けないと書きます。


 母は書けなかったのか、書かなかったのか。


 どちらであるかで意味が変わります。


「姉さん、何してるんですか」


「紙を透かしております」


「なんでですか」


「読めない字が、裏から読めることがございます」


「読めましたか」


「いいえ」


「じゃあ意味ないですね」


「はい」


 タニアさんは卓に並んだ紙をご覧になって、それから両手を後ろに回されました。


「触りませんよ」


「触っていただいて構いません」


「順番が分からなくなったら困るでしょう」


「日付が書いてございます」


「読めません」


 わたくしは糸を通す手を止めました。


「タニアさん」


「はい」


「日付の数字だけでしたら、十個でございます」


「十個」


「十個覚えれば、順番に並べられます」


 タニアさんはしばらく卓を見ていらっしゃいました。


「……十個ですか」


「十個でございます」


「多いんだか少ないんだか、分かりません」


 その晩、戸が叩かれました。


 タニアさんのお父上でございました。


 酔っていらっしゃいません。それだけで、たいへんなことでございます。


「明日から、うちは粉を出せん」


「はい」


「理由は言えん」


「はい」


「聞かんのか」


「伺っても、言えないのでございましょう」


 お父上はしばらく戸の縁を握っていらっしゃいました。


 それから、頭を下げられました。


「……すまん」


 字の読めない方が二十年、粉の商いを続けていらっしゃいます。


 その方が、頭を下げて帰られました。


 どなたに頼まれて粉を止めたのか、伺っておりません。


 伺っても、言えないのでございましょう。

【今日の帳面】


在庫/粉四日・蜂蜜十二日・胡桃九日・菜種油二本。焼ける日は、あと四日。次の家賃まで十三日。祈りの月の新月まで六日。

帳面 一枚目/別の綴りから破って綴じ込まれた一枚。紙質が違う。端が切り揃えられていない。母には、もう一冊あった。


 数えられるうちは、まだ何とかなります。困りますのは、数えるものが無くなったときでございます。


 次回、粉を止めさせた方が、こちらから名乗っていらっしゃいます。菓子組合の長で、ボードワン様とおっしゃいます。

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