第11話:粉屋の荷が、止まりました
その朝、粉が届きませんでした。
三日月亭の窯は四時からお借りしております。宿のパンを焼き終えて店の粉を計ろうとしたところで、袋が一つも積まれていないことに気づきました。
六時に、タニアさんがいらっしゃいました。手ぶらでございます。
「粉、出せないそうです」
「そうですか」
「父が言うには『言えん』だそうです」
「言えん」
「言えん、です。三回聞きましたけど、三回とも言えんでした」
わたくしは棚を確かめました。
粉は袋の底に四日ぶん。蜂蜜は開けてから三日で、あと十二日はもちます。胡桃は擂ったものが六日ぶんと殻つきが九日ぶん。菜種の油が二本。
「四日でございます」
「四日」
「粉が四日で、胡桃が九日ございます。胡桃だけが余ります」
「そこで胡桃の話をするから潰れるんです」
「はい」
「腹立つな」
次の家賃まで、あと十三日でございます。
昼までに、町の粉屋を三軒回りました。
一軒目は、今月はもう出せないとおっしゃいました。二軒目は奥から出てこられませんでした。
三軒目は戸を開けてくださいましたが、わたくしの顔を見てから看板の立ててある方角をご覧になって、こうおっしゃいました。
「あんたのとこには、うちからは出せんことになった」
「どなたがそうお決めになったのでしょう」
「決まったんだ」
それだけでございました。
町の外の粉挽きまでは馬車で半日でございます。半日かけて行って半日かけて戻りますと、その日は焼けません。焼けない日が続けば、四日ぶんの粉は四日ぶんのままでございます。
昼過ぎに、アダンさんが店の前を通られました。
「新月まで、あと六日です」
「はい」
「五日おきでしたな」
「はい」
「ひと月ぶんで六回だ。数えました」
アダンさんは指を折って、もう一度数え直していらっしゃいました。
わたくしは棚の粉を思いました。四日ぶんでございます。
「アダンさん」
「はい」
「粉が」
そこまで申し上げて、やめました。
まだ六日ございます。六日あれば、何とかなる見込みが立つかもしれません。立たなければ、そのときに申し上げます。
「……いえ。お待ちしております」
「頼みます」
アダンさんは頭を下げて行かれました。
三日月亭へ戻りますと、レイフ様が帳場で紙を睨んでいらっしゃいました。
「明日から、宿のパンを二十四にする」
「十二ではございませんでしたか」
「増やす」
「泊まりのお客様は昨日と同じ四人でございます」
「増やすと言ってる」
宿の粉で焼く数を増やせば、宿の粉が減ります。減った分は宿が仕入れます。三日月亭は組合に入っておりますので、そちらの粉は止まりません。
「レイフ様」
「なんだ」
「二十四は、多うございます」
「じゃあ十八だ」
「十八でも、四人では余ります」
「余ったら俺が食う」
わたくしは頭を下げました。
それ以上は申し上げませんでした。
「姉さん」
「はい」
「あの人、パン嫌いですよ」
「そうでございますか」
「宿の朝、いつも残してます。端っこだけ食べて、残りは犬にやってます」
焼けない日ができましたので、棚の整理をいたしました。
帳面は三年で厚くなっております。綴じの糸が緩んで、頁の順が崩れかけておりました。糸を掛け直すには一度全部を外さなければなりません。
外した頁を日付の順に卓へ並べました。三年ぶんで、卓が二つ要ります。
棚には屋敷から届いた白い帳面も入っております。白紙が百八十枚ございました。使ってよいものかどうか少し考えて、そのままにいたしました。
卓のいちばん端に来るのが一枚目でございます。
母の字でございます。
——この方は、白いものを召し上がれない。
名前のところは、掠れて読めません。
わたくしはその紙を、初めて綴じから外して持ちました。
外して分かったことが、二つございます。
一つ。この紙だけ、ほかの頁より厚うございます。指で挟むと、手触りが違います。
二つ。端が切り揃えられておりません。片側だけ繊維が毛羽立っております。
破って、綴じ込まれた紙でございました。
もとは別の綴りにあったものです。
窓の明かりに透かしてみました。裏から見ても、名前のところは掠れたままでございます。
母には、別の帳面がございました。
これはそこから一枚だけ抜いたものでございます。
なぜ一枚だけなのか。残りはどこへ行ったのか。
考えても、書いてはございません。
もう一つ、腑に落ちないことがございます。
白いもの、という書き方でございます。
わたくしでしたら、そうは書きません。乳か、粉か、卵の白身か、塩か、どれかを書きます。書けなければ、書けないと書きます。
母は書けなかったのか、書かなかったのか。
どちらであるかで意味が変わります。
「姉さん、何してるんですか」
「紙を透かしております」
「なんでですか」
「読めない字が、裏から読めることがございます」
「読めましたか」
「いいえ」
「じゃあ意味ないですね」
「はい」
タニアさんは卓に並んだ紙をご覧になって、それから両手を後ろに回されました。
「触りませんよ」
「触っていただいて構いません」
「順番が分からなくなったら困るでしょう」
「日付が書いてございます」
「読めません」
わたくしは糸を通す手を止めました。
「タニアさん」
「はい」
「日付の数字だけでしたら、十個でございます」
「十個」
「十個覚えれば、順番に並べられます」
タニアさんはしばらく卓を見ていらっしゃいました。
「……十個ですか」
「十個でございます」
「多いんだか少ないんだか、分かりません」
その晩、戸が叩かれました。
タニアさんのお父上でございました。
酔っていらっしゃいません。それだけで、たいへんなことでございます。
「明日から、うちは粉を出せん」
「はい」
「理由は言えん」
「はい」
「聞かんのか」
「伺っても、言えないのでございましょう」
お父上はしばらく戸の縁を握っていらっしゃいました。
それから、頭を下げられました。
「……すまん」
字の読めない方が二十年、粉の商いを続けていらっしゃいます。
その方が、頭を下げて帰られました。
どなたに頼まれて粉を止めたのか、伺っておりません。
伺っても、言えないのでございましょう。
【今日の帳面】
在庫/粉四日・蜂蜜十二日・胡桃九日・菜種油二本。焼ける日は、あと四日。次の家賃まで十三日。祈りの月の新月まで六日。
帳面 一枚目/別の綴りから破って綴じ込まれた一枚。紙質が違う。端が切り揃えられていない。母には、もう一冊あった。
数えられるうちは、まだ何とかなります。困りますのは、数えるものが無くなったときでございます。
次回、粉を止めさせた方が、こちらから名乗っていらっしゃいます。菓子組合の長で、ボードワン様とおっしゃいます。




