第12話:粉を止めたのは、どなたでしょう
粉が届かなくなって、四日でございます。
棚に残っておりますのは半袋でございました。薄く延ばして焼けば二日、いつもどおりに焼けば一日と半分。砂糖は足りております。蜂蜜も胡桃も塩も足りております。足りないのは粉だけでございました。
粉だけがないというのは、菓子屋にとりましては、全部がないのと同じことでございます。
タニアさんは朝から一言も口をきかれません。看板を拭いて、卓を拭いて、拭き終わった卓をもう一度拭いていらっしゃいます。
「タニアさん」
「はい」
「粉挽き屋へ、ご一緒いただけますか」
布の音が止まりました。
「……行っても、ないですよ」
「ないのは存じております。伺いたいのは、なぜないのかでございます」
タニアさんは布を絞って、それから前掛けを外されました。
粉挽き屋は町外れでございます。水路が引き込んでございまして、近づくと臼の音がいたします。
回っておりました。
回っているということは、挽くものがあるということでございます。
お父上は土間で袋の口を縫っていらっしゃいました。朝でございますので、まだ酔ってはいらっしゃいません。
「うちの粉は、あんたには売れん」
こちらが口を開く前でございました。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
「理由はない」
「では、いつからでしょう」
「先週の水曜からだ」
わたくしは炭を出して、書き取りました。
「何を書いとる」
「伺ったことを書いております」
「理由はないと言うたぞ」
「はい。理由はないと伺った、と書いております」
お父上は針を置かれました。それから、奥のほうを一度ご覧になりました。
奥から、人が出ていらっしゃいました。
四十の半ばほどでございましょうか。外套の裾が土間の粉で白くなっております。その方は立ち止まると、手袋を片方ずつ外して、外したそばから丁寧に畳んでいらっしゃいました。粉挽き屋の土間で手袋を畳む方を、わたくしは初めて見ました。
「ハウゼルの菓子屋の寄合で、まとめ役をしております。ボードワンと申します」
「ロゼリア・アルディと申します」
「存じております。街道沿いの、字だけの看板の」
ボードワン様は紙の束を小脇に抱えていらっしゃいました。上の一枚に、数と印がびっしり並んでおります。注文書でございます。
「粉を止めたのは、どなたでしょう」
わたくしは、そう伺いました。
「わたしです」
隠されませんでした。
「先週から、うちの七軒ぶんを先に挽いていただくことにしました。七軒ぶんです。この臼で朝から晩まで挽いて、それで一日が終わる」
「余りは」
「出ません」
「明日も、でございますか」
「来月の末まで、注文書を置いてあります」
ボードワン様は畳んだ手袋を懐に納められました。
「規約を破ってはおりません。誰にも、あなたに売るなとは申しておりません。わたしはただ、先に買っただけです」
「はい」
「お分かりになりますか」
「分かります」
分かりますとも。三年間、屋敷の台所で同じことをしておりました。八人ぶんの膳を回すには、先に何を押さえるかで全部が決まります。押さえた者が勝ちます。押さえられた者は、当日になって初めて気づきます。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「ボードワン様のお店では、獣脂をお使いになりますか」
ボードワン様は、少し間を置かれました。
「使います。七軒とも使いますよ。安いですから」
「ありがとうございます」
わたくしは書き取りました。ボードワン。七軒。獣脂を使う。
「……いま、何をお書きに」
「伺ったことを書いております」
そのとき、タニアさんが土間を一歩前に出られました。
「あの」
「なんです」
「七軒って、全部あなたの店じゃないですよね」
ボードワン様はタニアさんのほうを向かれました。子どもだからといって顔を伏せる方ではございませんでした。そこだけは、きちんとご覧になりました。
「わたしの店は一軒だ。あとの六軒は、わたしに従っているのではない。粉の値が上がるのを嫌がっているだけです」
「値、上がるんですか」
「新しい店が一軒増えれば、そのぶん粉の取り合いになる。取り合いになれば値は上がる。上がったぶんは菓子の値に乗る。乗せれば、この町の者は買わなくなる」
「それ、姉さんのせいですか」
「誰のせいでもありません。順番の話です」
タニアさんが息を吸われました。わたくしは名前をお呼びしました。
「タニアさん」
それだけでございます。
タニアさんは口を閉じて、外套の裾を睨んでいらっしゃいました。
「腹立つな」
小さな声でございましたが、聞こえておりました。ボードワン様にも聞こえたと思います。ボードワン様は聞こえなかった顔をなさいました。そういうことのできる方でございます。
「アルディさん」
「はい」
「あなたのところは、日に何人お見えです」
「四人ほどでございます」
「四人」
「はい」
「四人のために、この町の粉の値を動かすわけには参りません」
ボードワン様は注文書を抱え直して、戸口へ向かわれました。
わたくしは何も申し上げませんでした。申し上げることが、ございませんでしたので。
外へ出られる前に、一度だけ振り返られました。
「一つ、こちらからも伺いましょう。あなたは、菓子屋のおつもりですか」
「はい」
「そうですか」
それだけでございました。臼の音が戻ってまいります。
帰り道で、タニアさんは黙っていらっしゃいました。半分ほど来たところで、こうおっしゃいます。
「姉さん、あと何日ですか」
「粉でございますか」
「はい」
「二日でございます。薄く焼けば、でございますが」
「薄いと、ドランさんが噛めないですよ」
「はい」
「じゃあ一日半ですね」
数え方が速うございます。お父上に似ていらっしゃいます。
わたくしがそう申し上げますと、タニアさんは足を速められました。
店へ戻る前に、粉挽き屋の土間へ荷を忘れておりましたので、わたくしだけ引き返しました。
お父上は、また袋を縫っていらっしゃいました。
「ロゼリアさん」
「はい」
「あの人はな。二十年前は、うちで二袋しか買わんかった」
わたくしは荷を抱えたまま、立ち止まりました。
「一袋を三日で使う店だった。値切りもせん。ただ、挽きが粗いと言うて、二度突き返してきた」
お父上は針を進めながらおっしゃいます。
「二十年、この町で粉の粗いのが分かったのは、あの人だけだった」
「……そうですか」
「そのあと寄合を作って、値を揃えた。揃えてから、あの人は突き返さんようになった」
針が止まりました。
「粗いままでも、誰も文句を言わんようになったからだ」
水路の音がいたします。臼は回り続けております。七軒ぶんでございます。
タニアさんが戸口から顔を出されました。
「姉さん、遅い」
「はい」
わたくしは荷を持ち上げて、土間を出ました。
タニアさんは街道に立って、粉挽き屋の屋根を見上げていらっしゃいました。
「姉さん」
「はい」
「うち、あの人の店にも粉を売ってるんですよね」
「はい」
「……父さん、どっち向いて挽いてるんですか」
【今日の帳面】
ボードワン/四十五ほど。菓子屋の寄合のまとめ役。獣脂を使う(七軒とも)。
二十年前、この町で粉の粗さが分かったのはこの方だけだった。
召し上がれないものは、まだ存じません。
押さえた者は当日までそれを言いません。押さえられた者は、当日になって初めて数えます。
次回、その方が店にいらっしゃいます。お一人で、召し上がらずに帰られます。




