第13話:食べられない客のための菓子は、菓子ではない
朝、戸を開けますと、麦の袋が置いてございました。
袋ではございません。麻布の端を縄で縛っただけのものでございます。中は粉でした。指で取って舐めますと、ざらりときます。ふすまが混じっております。
「ヤンさんです」
タニアさんが街道のほうを指されました。荷車が遠ざかっていくところでございます。
追いつきますと、ヤンさんは荷車を止めて、こちらをご覧になりませんでした。
「うちの畑のだ。去年の。うちの臼で挽いたから粗い。売り物にはならん」
「いただけません」
ヤンさんは轅を持ち直されました。
「あんた、うちの薬のことを紙に書いてくれたろう」
「はい」
「薬師が読んだ。粉が変わった。いま、甘いものが食える」
それだけおっしゃって、行ってしまわれました。
わたくしは麻布を抱えて戻りました。重さは半袋ぶんほどで、粗挽きでございますので、篩を二度かけなければ使えません。二度かければ、目減りいたします。
「何日ぶんですか」
「四日ぶんでございます」
「昨日より増えてるじゃないですか」
「はい」
「じゃあいいです」
昼前に、巡礼の方が三人いらっしゃいました。
街道を南へ下る方たちでございます。この時期は、よくお通りになります。三人とも埃をかぶって、痩せていらっしゃいました。
一番年嵩の方が、看板の前でずいぶん長く立っていらっしゃいました。
「あれは、本当ですか」
「伺うだけでございます。そのあとのことは、伺ってからでございます」
その方は、アニカさんとおっしゃいました。
「祭りの月のあいだは、獣のものを口にしません」
わたくしは帳面を繰りました。ひと月ほど前、看板の余白に同じことを書いていかれた方がございます。針と糸の行商の、アダンさんでございます。
——祭りの月。獣のもの。二十八日。菜種の油と胡桃で可。
「二十八日でございますか」
「よくご存じで」
「以前、書いていかれた方がございました。あの方は、次の新月からだとおっしゃっておいででした」
「南から下ってまいりますと、半月早う始まります。同じ月でも、暦が違いますので」
街道の菓子は、たいてい獣脂で焼きます。安うございますし、日持ちもいたします。パンにも練り込んでございますし、宿の朝の膳も、油はまず獣のものでございます。
つまりこの方たちは、二十八日のあいだ、この街道でほとんど何も口にできません。
「今日で、何日目でしょう」
「十九日目です」
「昨日は、何を召し上がりました」
アニカさんは、少し黙られました。
「……水と、干した果実を」
わたくしは書き取りました。十九日目。水。干した果実。
「お座りください。少しお時間をいただきます」
窯は借りものでございますので、朝の四時から六時までしか使えません。昼に焼くときは、天板を火鉢にかけ、蓋をして、上からも炭を載せます。
粗い粉を篩にかけて、二度目の篩に落ちたものだけを使います。油は使わず、蜂蜜と、擂った胡桃の脂だけでまとめます。塩をひとつまみ。ふすまが混じっておりますので、水は多めでございます。
天板を火鉢にかけたところで、戸が開きました。
ボードワン様でございました。
お一人でございます。店の中を、天井から順にご覧になります。棚。壁に立てかけた古い看板。卓が一つと、椅子が二脚。
「席が二つですか」
「はい」
「四人お見えになると伺いましたが」
「二人ずつ、時刻をずらしていらっしゃいます」
ボードワン様は、椅子には座られませんでした。
巡礼の方たちが壁際に寄られます。ボードワン様は、そちらを一度もご覧になりませんでした。
「じきに品評会がございます」
「はい」
「街道沿いの店を集めて、王都の商人に見せる。年に一度です。出られるのは寄合の店だけです」
「はい」
「あなたは出られない」
「はい」
ボードワン様は、天板の上をご覧になりました。焼きかけのものが並んでおりますが、色は白っぽうございます。獣脂を使いませんと、そうなります。
「それは、何をお使いです」
「胡桃と蜂蜜でございます」
「油は」
「使っておりません」
「なぜ」
「召し上がれない方がいらっしゃいますので」
ボードワン様は、そこで初めて壁際をご覧になりました。ほんの一瞬でございます。それから、こちらへ向き直られます。
「アルディさん。菓子というのは、贅沢です」
「はい」
「なくても人は死なない。要らないものです。要らないものを、それでも食べたいと思わせる。それが我々の仕事です。値を揃えるのも、そのためです」
「はい」
「あなたのは、それではない」
ボードワン様は天板の縁を指で押さえて、こうおっしゃいました。
「食べられない客のための菓子は、菓子ではない。あれは、慰めだ」
店の中で、動いたのはタニアさんでございました。
わたくしは名前をお呼びしました。
「タニアさん」
もう一つ、椅子の鳴る音がいたしました。
窯の刻限のことで朝から店にいらしたレイフ様が、卓に手をついて立ち上がりかけていらっしゃいました。右の肩が先に動いております。腕が途中まで上がって、そこで止まりました。
左手が、右の袖を上から押さえていらっしゃいます。
レイフ様は、そのまま椅子に戻られました。
わたくしは天板の蓋を取りました。
焼き上がっておりました。色は白うございます。三つを小皿に取って、ボードワン様の前を通って、壁際までお持ちしました。
「お待たせいたしました」
アニカさんが両手で受け取られます。ほかのお二人にも、同じものをお出ししました。
それだけでございます。
ボードワン様が、こちらをご覧になりました。
「言い返さないのですか」
「申し上げることが、ございません」
「わたしは、あなたの商売を菓子ではないと申し上げたのですが」
「伺いました」
わたくしは帳面を引き寄せて、炭を持ちました。
「ボードワン様。一つだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「祭りの月に、お店へいらっしゃる方はございますか」
ボードワン様は、少し考えていらっしゃいました。
「祭りの月ですか。来ませんな」
「そうですか」
「あの時期はどこも暇です。旅の者は金を使わん」
「はい」
わたくしは書き取りました。
——祭りの月。寄合の七軒。客が来ない。理由は、ご存じない。
「何をお書きです」
「伺ったことを書いております」
ボードワン様は、それ以上お尋ねになりませんでした。
壁際で、アニカさんが立ち上がられました。
「わたくしどもは、十九日、何も食べておりません」
声が大きいわけではございません。ただ、店の中はそう広くございません。
「街道に店は三十軒ございました。書いてあったのは、こちらの一軒だけです」
ボードワン様は、その方を見ていらっしゃいました。それから、戸口へ向かわれました。
戸を開けたところで、一度止まられます。
「アルディさん」
「はい」
「あなたは、いつまでそれをおやりになる」
「書いてくださる方が、いらっしゃるあいだは」
ボードワン様は出ていかれました。皿には手をつけられませんでした。もっとも、お出ししてもおりません。
その日、巡礼の方たちは八つお買いになりました。宿の連れの方のぶんもあるそうで、銅貨が十六枚でございます。
夕方、タニアさんが皿を洗いながらおっしゃいました。
「姉さん」
「はい」
「レイフさん、さっき、右手上げかけましたよね」
「はい」
「あの人、右手動かないんじゃないんですか」
わたくしは炭を削っておりました。
「伺っておりません」
「ひと月半も窯を借りてるのに」
「はい」
タニアさんは皿を伏せて、布で拭かれました。
「……動かないのに、上げかけたってことですよね」
わたくしは、返事をいたしませんでした。
夜、レイフ様が戸を叩かれました。窯の話ではございません。
「明日の朝、馬車が一台入る」
「はい」
「王都のほうからだ。うちに部屋の問い合わせが来てる。女が一人と、供が二人」
わたくしは手を止めました。
「名前は」
「書いてない」
レイフ様は戸の枠に左手をかけていらっしゃいました。
「宿代は三日ぶん、先に払ってある。三日で帰らんつもりの払い方だ」
【今日の帳面】
アニカ/巡礼・五十ほど。祭りの月の二十八日間、獣のものを口にしない。十九日目。水と干した果実のみ。
胡桃と蜂蜜のみで焼く。油は使わない。三人ぶん。
(追記)祭りの月に寄合の七軒へ来る客は、いない。理由をご存じない。
書いてある店が一軒しかない街道を、十九日ぶん歩くというのがどういうことか、わたくしはまだ数えられておりません。
次回、その馬車が町に入ります。降りてこられたのは、わたくしの存じ上げない方でございました。




