第14話:帳面を見せてくださいませんか
粗い粉で焼いて三日目に、ドランさんが噛めなくなりました。
ドランさんは荷運びの方でございます。奥の歯が一本しかございませんので、左でしか噛めません。うちでは、そのぶん薄く焼いて、湯を含ませてお出ししております。
その朝、ドランさんは一口召し上がって、口の中でしばらく動かしていらっしゃいました。それから、卓の上へ戻されました。
「悪い。今日のは硬い」
「はい」
「昨日のは食えた」
「はい。粉が変わりました」
わたくしは帳面を繰りました。ドランさんの頁でございます。ひと月半ぶんの記録がございます。
——薄さ。三分の一。湯を含ませる。左で三度噛んで飲み込まれる。
三度でございます。今日は五度動いておりました。
「ドランさん。もう一度、焼き直してもよろしいでしょうか」
「今日はいい。仕事だ」
「明日で構いません」
その日は篩を三度かけました。三度目で落ちたものは、ずいぶん目減りいたします。四日ぶんが三日ぶんになりました。目減りしたぶんはふすまでございますので、それはそれで別に取っておきます。捨てるものではございません。
湯を増やして、薄く延ばして、二度に分けて焼きます。一度目は火を弱く、二度目で乾かします。ヤンさんの粉はふすまの香りが立ちますので、蜂蜜を少し減らしました。
天板から取り出したものを、タニアさんが指で割られました。
「割れ方が違います」
「はい」
「昨日のは、ぱきって割れました。今日のは、ふにゃっとします」
「ドランさんには、ふにゃっとしているほうがよろしいのです」
「ヤンさんには」
「ヤンさんには、ぱきっとしているほうでございます」
「二種類作るんですか」
「はい」
「面倒じゃないですか」
「面倒でございます」
タニアさんは腕を組んで、一歩下がられました。
「まあ、いいです」
昼を過ぎた頃、街道のほうから人が歩いてまいりました。
馬車は三日月亭の前で停まったようでございます。あとで見に参りましたが、紋はございませんでした。王都の貸馬車屋の焼き印が轅に入っているだけでございます。
戸を開けて入っていらしたのは、四十ほどの女の方でございました。旅装ではございますが、埃がついておりません。馬車から宿までの二十歩ぶんしか歩いていない方の靴でございました。
「アルディ様でいらっしゃいますか」
「はい」
「ドロテアと申します」
その方は帽子を取って、両手で持たれました。それから、店の中をご覧になりません。卓の上だけを、一度ご覧になりました。
帳面は、そこに置いてございます。
「帳面を見せてくださいませんか」
早うございました。世間話が一つもございません。
「どちら様のお使いでしょう」
「申し上げられません」
「では、お見せできません」
「拝見するだけでございます」
「はい」
「持ち出しはいたしません。この場で、この椅子に座って、めくるだけでございます」
「お見せできません」
ドロテアさんは頷かれました。断られることを、あらかじめ数に入れていらっしゃる頷き方でございます。
「では、写しを取らせていただくというのはいかがでしょう。書き手をこちらで連れて参ります。三日ほどで済みます」
「お断りいたします」
「お手間は取らせません」
「手間の話ではございません」
「では、何の話でございましょう」
わたくしは炭を置きました。
「ここに書いてございますのは、この町の方たちが、召し上がれないものでございます。ドランさんが左でしか噛めないこと。ヤンさんが三年、甘いものを苦いとおっしゃっていたこと。書いたのはわたくしでございますが、書いてあることは、わたくしのものではございません」
「お売りいただくというのは」
「売り買いのできるものではございません」
「銀貨で、二十でございます」
タニアさんが、皿を置く手を止められました。
家賃が、月に銀貨二枚でございます。
「お断りいたします」
ドロテアさんは、金額を上げませんでした。上げれば下品になると心得ていらっしゃるのだと思います。代わりに、こうおっしゃいました。
「三年ぶんですと、二百枚ほどでございましょうか」
わたくしは顔を上げました。
帳面は閉じたまま、卓の上にございます。厚みは見えますが、枚数までは分かりません。
「なぜ、ご存じなのですか」
ドロテアさんは、帽子の縁を持ち直されました。
「……失礼いたしました」
「どなたかが、数えていらっしゃるのですね」
「わたくしは、伺ったことをそのまま申し上げているだけでございます」
どちらのお使いか、とはもう伺いませんでした。伺っても同じ答えが返ってまいります。
伺ったところで、わたくしにはお心当たりが多すぎます。屋敷にも、実家にも、この頁を欲しがる方はいらっしゃいます。
ドロテアさんは椅子に座られました。座ってよいとは、まだ申し上げておりません。
「では、日を改めて参ります」
「同じ答えでございます」
「明日も伺います」
「はい」
「明後日も伺います」
「はい」
「わたくしは、そういう役目でございますので」
その言い方に、脅しはございませんでした。ただの手順の話としておっしゃいました。粉挽き屋のお父上が、読めんからな、とおっしゃったときと同じ調子でございます。
わたくしは薪を取りに、裏へ出ました。
裏の路地に、人が立っていらっしゃいました。
ギードさんでございます。五十を過ぎた方で、ヴァレンティ家の元の料理番でいらっしゃいます。先月、一度だけ店にいらして、屋敷に写しはございますか、とだけ伺って帰られた方でございます。
ギードさんは街道のほうをご覧になっておりました。三日月亭の前に停まっている馬車を、でございます。
「ギードさん」
肩が動きました。
「……奥様」
「その呼び方は、もう」
「はい」
ギードさんは帽子を取られました。
「あの馬車は、屋敷のものではございません」
「はい」
「轅の焼き印は貸馬車屋のものです。ですが、御者の座り方が屋敷の者と違います。あれは、王都の南のほうで雇われた者の座り方です」
ずいぶん細かくご覧になります。
「ギードさん。屋敷の写しのことを、なぜお尋ねになったのですか」
ギードさんは、帽子を両手で持ち直されました。
「……お屋敷では、いま、献立が立ちません」
「はい」
「わたしは、三年——」
そこで止まられました。
路地の向こうを荷車が通ります。通り過ぎるまで、ギードさんは何もおっしゃいませんでした。
「いえ。また参ります」
「ギードさん」
「近いうちに」
ギードさんは帽子をかぶって、街道のほうへ歩いていかれました。三日月亭の前は通らずに、裏の畑のほうへ回っていかれます。
わたくしは薪を抱えて、店へ戻りました。
ドロテアさんは、椅子に座ったままでいらっしゃいました。帳面には触れておりません。触れずに、ずっとご覧になっていたのだと思います。
タニアさんが、卓の向かいに立っていらっしゃいました。動いていらっしゃいません。
ドロテアさんが、そのタニアさんに気づかれました。
「そちらのお嬢さんは」
「粉挽き屋の娘です」
タニアさんが、ご自分でお答えになりました。
「そう」
ドロテアさんは、少しだけ表情を和らげられました。
「あなたは、字が読めまして」
「読めません」
「そう」
それきりでございました。ドロテアさんはタニアさんのほうを、二度とご覧になりませんでした。
夕方、ドロテアさんは帽子をかぶって立ち上がられました。
「今日は、これで失礼いたします」
「はい」
「アルディ様。一つだけ、申し添えておきます」
「はい」
ドロテアさんは戸口で振り返られました。
「明日こちらへ参りますのは、わたくしではございません」
「どちら様でしょう」
ドロテアさんは答えられませんでした。頭を下げて、街道を渡っていかれます。
戸が閉まりました。
わたくしは帳面を布で包みかけて、途中で手を止めました。
包んで奥へ入れてしまいますと、明日いらした方が、書けません。
包んだ布を外して、帳面を卓の真ん中に戻しました。
【今日の帳面】
ドラン/粗い粉に替えたところ、左で五度噛んで飲み込めず(通常三度)。篩を三度かけ、湯を増やし、薄く二度焼き。以後、ドランさん用とヤンさん用を分けて焼く。
(追記)帳面の枚数を、こちらの知らないところで数えている方がある。
二百枚ほどでございます。数えた方がいらっしゃるのなら、その方はきっと、一枚ずつめくったのでしょう。
次回、その帳面が、わたくしではない方の手に初めて持ち上げられます。




