第15話:読めないから、形で写しました
その日、タニアさんはいらっしゃいませんでした。
午前に粉挽き屋へ参りますと、お父上は臼のそばで袋を積んでいらっしゃいました。
「知らん。三日前から、夜に出ていく。上の二人は嫁に出した。末の行き先まで訊いとったら、臼が回らん」
わたくしは店へ戻って、篩を二度かけました。粉はあと二日ぶんでございます。
昼を過ぎて、街道に馬車の音がいたしました。今度は店の前で停まりました。
戸が開いて、若い女の方が入っていらっしゃいます。手袋は外していらっしゃいません。
わたくしは、一目では分かりませんでした。
「思ったより、狭いのですね」
「はい」
「姉様」
それで、分かりました。
リディア・アルディでございます。わたくしの妹でございます。最後に会いましたのは、嫁ぐ前でございます。
「よくいらっしゃいました」
「お茶は結構です」
奥の卓では、カレンさんとヨナさんが湯を待っていらっしゃいます。リディアは、そちらをご覧になりませんでした。
卓へ近づいて、手袋のまま帳面をご覧になります。
それから、両手で持ち上げられました。
「これはアルディ家の財産です。姉様のものではありません」
「はい」
「はい、とは」
「そう伺いました、という意味でございます」
「母の遺したものです。綴りも紙も、アルディの家のものです。姉様は、書き足しただけでしょう」
「書き足しました」
「では、家のものです」
わたくしは動きませんでした。立っていた場所から一歩も出ておりません。
ただ、指のほうが先に動きました。
三年間、そうしてまいりました。離縁状が読み上げられていたときも、わたくしは戸棚の中身を数えておりました。蜂蜜が三壺。開けてから十九日。数えているあいだは、手が別のことをしております。
卓の上の湯呑みは、カレンさんとヨナさんのものでございます。粉は棚に二日ぶん。砂糖は昨日で終わりました。蜂蜜の壺は空でございます。空の壺は数に入りません。窯は隣のものでございますから、人様のものは数えられません。
わたくしの手が探しておりましたのは、卓の真ん中にあったものでございます。
それは、いま妹の手の中にございます。
「何をなさっているの」
「……数えております」
「何を」
「数えるものが、何もありません」
自分の声が、思ったより低うございました。
カレンさんがヨナさんの手を引いて立ち上がられます。わたくしは首を振って、椅子をお勧めしました。
「これは、家に置いておくべきものです。姉様は離縁されて、この町の店番です。こんなところに置いておくものではありません」
「こんなところ」
「言い方が悪ければ、謝ります」
「いえ」
妹の言い方は正しゅうございます。ここは店でございますし、わたくしは店番でございます。
リディアは帳面を胸の高さで抱えていらっしゃいました。落とすまいとする持ち方ではなく、こちらへ返さないための持ち方でございます。
戸が開きました。
タニアさんでございました。
三日ぶんの土がついた靴で土間に入っていらっしゃいます。抱えていらっしゃるのは、麻の紐で綴じた紙の束でございました。粉袋の紙の、裏が白いところを切って重ねてございます。帳面より、ずっと厚うございました。
「返さなくていいですよ、姉さん」
「タニアさん」
「その人にあげてください」
タニアさんは卓まで来て、束を置かれました。音がいたしました。それくらいの重さがございました。
「こっちが、ありますので」
リディアが束をご覧になりました。
一枚目に、字が並んでおります。
字と申しますか、字の形でございます。大きさが揃いません。行が右へ行くほど下がってまいります。線の太さが途中で変わるのは、炭を持ち替えていらっしゃるからでございましょう。
けれど、並びは同じでございました。
左の上に日付。その下に名前。名前の下に、召し上がれないもの。右の余白に、あとから書き足した印。わたくしが三年つけてまいりました書き方が、そのまま形で写してございます。線を引いて消したところまで、線を引いて消してございました。
「一枚に、半日かかりました。午後は看板の見張りをしながら、夜は、うちの土間で。父さんは寝てるので」
「タニアさん」
「ひと月半ぶんです。ぜんぶは無理でした。それより古いところは、姉さんが二回ずつ読み上げてくれたので、覚えてます」
わたくしは束の縁を指で押さえました。
二枚目をめくり、三枚目もめくりました。ドランさんの頁もヤンさんの頁もございます。看板の余白から写した九つの言葉が、九行ぶん並んでおりました。
字は間違っておりました。「にがい」が「にかい」に、「たまご」が「たまこ」になっております。日付は形だけを写していらっしゃるので、六と九が同じ形でございました。
中身は、全部ございました。
「読めないから、形で写しました」
タニアさんは、腕を組んで一歩下がられました。
「……間違ってたら、言ってください」
わたくしは、何も申し上げられませんでした。
「タニアさん。なぜ」
「姉さんが言ったからです」
「わたくしが」
「わたくしがいない日もございます、って。ひと月半前に言いました」
タニアさんは土間のほうをご覧になっておりました。
「あの日から、ずっと考えてました。姉さんがいない日に、うちに何ができるか。読めるようになるのは、たぶん間に合わないので」
リディアが口を開かれました。
「……これは、字ではありません」
「字ですよ」
タニアさんは、そちらを見られました。
「わたしが書きました」
リディアは束の一枚目を手袋のまま押さえて、手を離されました。
それから、抱えていらっしゃった帳面を卓に置き、一枚目を開かれます。
わたくしの字ではないものが書いてある頁でございます。名前と、そのあとに一行だけ。名前の部分は掠れて読めません。
——この方は、白いものを召し上がれない。
リディアは、その一行を長くご覧になっておりました。手袋を片方だけ外します。その手で、掠れた名前のところを一度なぞられました。
「お母様の字です」
「はい」
「わたくしは、この綴りを見たことがあります。母の鏡台の抽斗に入っておりました。一度だけ開けて、叱られました」
リディアは、そこで言葉を切られました。それから、こちらをご覧にならないまま、こうおっしゃいます。
「……その帳面に、わたくしの名前は、ありますか」
わたくしは卓に近づいて、妹の手のそばから帳面を取りました。後ろのほうへ繰ります。ひと月ほど前に作った頁でございます。開いて、そのまま卓へ置きました。
リディア・アルディ、と書いてございます。
その下は、空でございました。
召し上がれないもの。記載なし。召し上がって具合の悪くなったもの。記載なし。嫌いなもの。記載なし。
「……何も、書いていない」
「はい」
「なぜ」
「存じませんので」
リディアは、その頁を見ていらっしゃいました。手袋を外したほうの手が外套の裾を握っております。
「調べればよろしいでしょう。姉様は、そういうことがお得意なのでしょう」
「伺えば、書けます」
「では」
「いま、伺ってもよろしいでしょうか」
リディアは顔を上げられました。
わたくしは炭を持っております。
妹は何もおっしゃいません。
しばらくして、手袋をはめ直されました。
「結構です」
戸口へ向かわれます。帳面にも、タニアさんの束にも、もうお触れになりませんでした。
「姉様。三日、宿におります」
それだけおっしゃって、出ていかれました。
わたくしは湯を淹れ直して、カレンさんとヨナさんにお出ししました。
馬車の音が遠ざかってから、タニアさんが口を開かれました。
「姉さん」
「はい」
「あの人、姉さんの帳面、めくってませんでした」
「はい」
「一枚目と、最後の一枚だけです。あとは、持ってただけです」
わたくしは卓の上を見ておりました。
「……でも、わたしの写しのほうは、全部めくってました」
卓の上に、綴りが二つございます。
どちらにも、妹の名前が書いてございます。どちらも、その下は空でございました。
【今日の帳面】
リディア・アルディ/召し上がれないもの——記載なし。本日、ご本人にお伺いする機会があったが、伺えず。
(写し・タニア筆)にかい/たまこ/なへ——綴りは違う。並びと中身は同じ。ひと月半ぶん。
読める人が三年かけて書いたものと、読めない人が三月かけて写したものが、同じ卓に並びました。厚みは、写しのほうがございます。
次回、甘いものが分からなくなったという行商人がいらっしゃいます。三年前から飲みはじめたお薬が、一つあるそうです。
ブックマークと評価をいただけますと、夜に写しを取る灯りが、もう一晩ぶん持ちます。




