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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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15/30

第15話:読めないから、形で写しました

 その日、タニアさんはいらっしゃいませんでした。


 午前に粉挽き屋へ参りますと、お父上は臼のそばで袋を積んでいらっしゃいました。


「知らん。三日前から、夜に出ていく。上の二人は嫁に出した。末の行き先まで訊いとったら、臼が回らん」


 わたくしは店へ戻って、篩を二度かけました。粉はあと二日ぶんでございます。


 昼を過ぎて、街道に馬車の音がいたしました。今度は店の前で停まりました。


 戸が開いて、若い女の方が入っていらっしゃいます。手袋は外していらっしゃいません。


 わたくしは、一目では分かりませんでした。


「思ったより、狭いのですね」


「はい」


「姉様」


 それで、分かりました。


 リディア・アルディでございます。わたくしの妹でございます。最後に会いましたのは、嫁ぐ前でございます。


「よくいらっしゃいました」


「お茶は結構です」


 奥の卓では、カレンさんとヨナさんが湯を待っていらっしゃいます。リディアは、そちらをご覧になりませんでした。


 卓へ近づいて、手袋のまま帳面をご覧になります。


 それから、両手で持ち上げられました。


「これはアルディ家の財産です。姉様のものではありません」


「はい」


「はい、とは」


「そう伺いました、という意味でございます」


「母の遺したものです。綴りも紙も、アルディの家のものです。姉様は、書き足しただけでしょう」


「書き足しました」


「では、家のものです」


 わたくしは動きませんでした。立っていた場所から一歩も出ておりません。


 ただ、指のほうが先に動きました。


 三年間、そうしてまいりました。離縁状が読み上げられていたときも、わたくしは戸棚の中身を数えておりました。蜂蜜が三壺。開けてから十九日。数えているあいだは、手が別のことをしております。


 卓の上の湯呑みは、カレンさんとヨナさんのものでございます。粉は棚に二日ぶん。砂糖は昨日で終わりました。蜂蜜の壺は空でございます。空の壺は数に入りません。窯は隣のものでございますから、人様のものは数えられません。


 わたくしの手が探しておりましたのは、卓の真ん中にあったものでございます。


 それは、いま妹の手の中にございます。


「何をなさっているの」


「……数えております」


「何を」


「数えるものが、何もありません」


 自分の声が、思ったより低うございました。


 カレンさんがヨナさんの手を引いて立ち上がられます。わたくしは首を振って、椅子をお勧めしました。


「これは、家に置いておくべきものです。姉様は離縁されて、この町の店番です。こんなところに置いておくものではありません」


「こんなところ」


「言い方が悪ければ、謝ります」


「いえ」


 妹の言い方は正しゅうございます。ここは店でございますし、わたくしは店番でございます。


 リディアは帳面を胸の高さで抱えていらっしゃいました。落とすまいとする持ち方ではなく、こちらへ返さないための持ち方でございます。


 戸が開きました。


 タニアさんでございました。


 三日ぶんの土がついた靴で土間に入っていらっしゃいます。抱えていらっしゃるのは、麻の紐で綴じた紙の束でございました。粉袋の紙の、裏が白いところを切って重ねてございます。帳面より、ずっと厚うございました。


「返さなくていいですよ、姉さん」


「タニアさん」


「その人にあげてください」


 タニアさんは卓まで来て、束を置かれました。音がいたしました。それくらいの重さがございました。


「こっちが、ありますので」


 リディアが束をご覧になりました。


 一枚目に、字が並んでおります。


 字と申しますか、字の形でございます。大きさが揃いません。行が右へ行くほど下がってまいります。線の太さが途中で変わるのは、炭を持ち替えていらっしゃるからでございましょう。


 けれど、並びは同じでございました。


 左の上に日付。その下に名前。名前の下に、召し上がれないもの。右の余白に、あとから書き足した印。わたくしが三年つけてまいりました書き方が、そのまま形で写してございます。線を引いて消したところまで、線を引いて消してございました。


「一枚に、半日かかりました。午後は看板の見張りをしながら、夜は、うちの土間で。父さんは寝てるので」


「タニアさん」


「ひと月半ぶんです。ぜんぶは無理でした。それより古いところは、姉さんが二回ずつ読み上げてくれたので、覚えてます」


 わたくしは束の縁を指で押さえました。


 二枚目をめくり、三枚目もめくりました。ドランさんの頁もヤンさんの頁もございます。看板の余白から写した九つの言葉が、九行ぶん並んでおりました。


 字は間違っておりました。「にがい」が「にかい」に、「たまご」が「たまこ」になっております。日付は形だけを写していらっしゃるので、六と九が同じ形でございました。


 中身は、全部ございました。


「読めないから、形で写しました」


 タニアさんは、腕を組んで一歩下がられました。


「……間違ってたら、言ってください」


 わたくしは、何も申し上げられませんでした。


「タニアさん。なぜ」


「姉さんが言ったからです」


「わたくしが」


「わたくしがいない日もございます、って。ひと月半前に言いました」


 タニアさんは土間のほうをご覧になっておりました。


「あの日から、ずっと考えてました。姉さんがいない日に、うちに何ができるか。読めるようになるのは、たぶん間に合わないので」


 リディアが口を開かれました。


「……これは、字ではありません」


「字ですよ」


 タニアさんは、そちらを見られました。


「わたしが書きました」


 リディアは束の一枚目を手袋のまま押さえて、手を離されました。


 それから、抱えていらっしゃった帳面を卓に置き、一枚目を開かれます。


 わたくしの字ではないものが書いてある頁でございます。名前と、そのあとに一行だけ。名前の部分は掠れて読めません。


 ——この方は、白いものを召し上がれない。


 リディアは、その一行を長くご覧になっておりました。手袋を片方だけ外します。その手で、掠れた名前のところを一度なぞられました。


「お母様の字です」


「はい」


「わたくしは、この綴りを見たことがあります。母の鏡台の抽斗に入っておりました。一度だけ開けて、叱られました」


 リディアは、そこで言葉を切られました。それから、こちらをご覧にならないまま、こうおっしゃいます。


「……その帳面に、わたくしの名前は、ありますか」


 わたくしは卓に近づいて、妹の手のそばから帳面を取りました。後ろのほうへ繰ります。ひと月ほど前に作った頁でございます。開いて、そのまま卓へ置きました。


 リディア・アルディ、と書いてございます。


 その下は、空でございました。


 召し上がれないもの。記載なし。召し上がって具合の悪くなったもの。記載なし。嫌いなもの。記載なし。


「……何も、書いていない」


「はい」


「なぜ」


「存じませんので」


 リディアは、その頁を見ていらっしゃいました。手袋を外したほうの手が外套の裾を握っております。


「調べればよろしいでしょう。姉様は、そういうことがお得意なのでしょう」


「伺えば、書けます」


「では」


「いま、伺ってもよろしいでしょうか」


 リディアは顔を上げられました。


 わたくしは炭を持っております。


 妹は何もおっしゃいません。


 しばらくして、手袋をはめ直されました。


「結構です」


 戸口へ向かわれます。帳面にも、タニアさんの束にも、もうお触れになりませんでした。


「姉様。三日、宿におります」


 それだけおっしゃって、出ていかれました。


 わたくしは湯を淹れ直して、カレンさんとヨナさんにお出ししました。


 馬車の音が遠ざかってから、タニアさんが口を開かれました。


「姉さん」


「はい」


「あの人、姉さんの帳面、めくってませんでした」


「はい」


「一枚目と、最後の一枚だけです。あとは、持ってただけです」


 わたくしは卓の上を見ておりました。


「……でも、わたしの写しのほうは、全部めくってました」


 卓の上に、綴りが二つございます。


 どちらにも、妹の名前が書いてございます。どちらも、その下は空でございました。

【今日の帳面】


リディア・アルディ/召し上がれないもの——記載なし。本日、ご本人にお伺いする機会があったが、伺えず。

(写し・タニア筆)にかい/たまこ/なへ——綴りは違う。並びと中身は同じ。ひと月半ぶん。


 読める人が三年かけて書いたものと、読めない人が三月かけて写したものが、同じ卓に並びました。厚みは、写しのほうがございます。


 次回、甘いものが分からなくなったという行商人がいらっしゃいます。三年前から飲みはじめたお薬が、一つあるそうです。


 ブックマークと評価をいただけますと、夜に写しを取る灯りが、もう一晩ぶん持ちます。

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