第16話:その薬を飲んでから、でございますか
ここから第三章「舌の格差」でございます。妹が帳面を掴んで帰った、その三日後から始まります。
二冊目の帳面は、卓の上に出したままにしております。
タニアさんが写されたほうでございます。字は歪んでおりますし、綴りも半分は間違っております。それでも中身は全部ございました。
タニアさんは毎朝それを広げて、一頁ずつ声に出して読んでいらっしゃいます。
「これ、なんですか」
「『あぶら』でございます」
「なんでわたし、こんな形に書いたんでしょう」
「形は合っております」
「合ってないから聞いてるんですけど」
ご自分で写した字を、ご自分で読めないことがあるのだそうです。それでも三日で、頁をめくる速さが変わりました。
わたくしは一冊目のほうを出して、妹の頁に一行足しました。
——三日前、店に来た。帳面を掴んだ。返した。名前を探していた。
その下は空いたままでございます。召し上がれないもの、存じません。嫌いなもの、存じません。
八年ぶりに会って、増えたのは一行だけでございました。
アダンさんには、昨日で二度目をお渡ししました。あと四回でございます。
昼前に、タニアさんが粉を担いで戻っていらっしゃいました。
「姉さん。ヴァレンティのとこ、四人目が入ったそうですよ」
「そうですか」
「四人目ですよ。今度は王都から取らないで、町の食堂の人だそうです。三人目までが王宮だの何だのだったのに」
タニアさんは袋を土間に下ろされました。
「うちの父が言ってました。旦那が食わないんだから、誰が作っても同じだろって」
「そうですか」
「それだけですか」
「粉は、いくらでしたか」
「銅貨四枚です」
「では、変わっておりませんね」
タニアさんは腕を組んで、一歩下がられました。
「腹立つな」
「粉の値がでしょうか」
「姉さんがです」
わたくしは秤に袋を載せました。四枚ぶんの目方がございます。
その日の午後、看板に新しい字が増えました。
——あまいものがわからない
大人の字でございました。書いた方は、書いたまま戸口に立っていらっしゃいます。
四十ほどの、日に焼けた男の方でした。背の荷が、ご自分の背丈より高うございます。
「ドランに聞いた。ここは書けば聞いてくれると」
「お入りください」
荷を下ろすと、土間が半分埋まりました。乾した杏と無花果、香辛料の小袋、それから蜂蜜の壺が四つ。王都と港のあいだを年に四度回っていらっしゃるそうです。ローデさんとおっしゃいます。
「甘いのが分からん」
ローデさんは、そう切り出されました。
「塩は分かる。酸っぱいのも分かる。苦いのも分かる。甘いのだけが、水と同じだ」
「いつからでございましょう」
「二年前の夏だ」
「その夏に、何かございましたか」
ローデさんは荷の紐を握り直されました。
「……熱病をやった。街道の宿で二十日寝た」
「お薬は」
「薬師が粉をくれた。苦いやつだ。ひと月飲んだ」
わたくしは炭を止めました。
「その薬を飲んでから、でございますか」
答えるまでに、少しかかりました。
「……飲み終えた頃だ。最初は、宿の飯が薄いんだと思ってた。次の宿でも薄かった。三軒目で、宿のせいじゃないと分かった」
「どなたかに、お話しになりましたか」
「言えるか」
ローデさんは荷のほうへ顎をやられました。
「蜂蜜を売る男が、甘いのが分からんと言えるか」
「二年、でございますね」
「二年だ」
その二年で、困っておいでのことを伺いました。
先月、港で客に返品されたのだそうです。この蜂蜜は酸っぱいと言われて、その場で舐めて、分からなかった。三壺ぶんお返しになりました。悪くなっていたのかどうか、今でもご存じないそうです。
「その四つの壺を、開けてくださいますか」
ローデさんは並べられました。返された三壺と、今朝まで売っていた一壺だそうです。
わたくしは順に匙を入れました。
一つ目。糸が長うございます。匙を上げると細くなって、切れずに落ちます。
二つ目も同じでございました。
三つ目は、白く固まっております。
四つ目は、匙を上げた途端に糸が短く切れました。壺の縁に細かい泡がついております。
「三つ目は、悪くなっておりません」
「白くなってるぞ」
「冷えて固まっただけでございます。壺のまま湯に浸けて、指で触れて温いくらいで止めれば戻ります」
「四つ目は」
「これは、お返しになって当然でございます」
戸口に、レイフ様が薪を抱えて立っていらっしゃいました。いつからかは存じません。
薪を土間に置いて、匙を取られました。左手でございます。右手は前掛けの下にございました。
四つとも順に舐められます。
「三つは何ともない。四つ目は酸っぱい」
ローデさんがレイフ様を見上げられました。
「あんた、舌がいいのか」
「悪くはない」
「……この人と同じことを言った」
「この人は舐めてねえよ」
レイフ様は匙を置いて、薪を抱え直して出ていかれました。
「ローデさん。舐めなくても分かることを、四つ書いてよろしいでしょうか」
「四つ」
「匂いと、糸の長さと、縁の泡。それから、開けた日でございます」
「開けた日」
「壺を開けた日を、どこかにお書きになっていますか」
「書くわけがない。売れりゃ空になる」
「では、今日から書いてください」
木札を四枚いただいて、炭で日を入れました。開けた日と、目安の日と。夏は短く、冬は長うございます。
「これを蓋の紐に結んでください」
「……字は読める。数もだ」
「では、足ります」
その日の菓子には、蜂蜜を少しだけ使いました。甘みのためではございません。焼き色と匂いのためでございます。
刻んだ杏を多めに入れて酸味を前に出し、胡桃は粗く砕いて歯に当たるようにいたしました。塩はひとつまみより少し多く。
ローデさんは立ったまま二つ召し上がりました。
「……酸っぱいな」
「はい」
「歯にくる」
「はい」
「久しぶりに、口の中で何か起きた」
三つ目に手を伸ばして、途中で止められました。
「治るのか、これは」
「存じません」
「あんたでも分からんことがあるのか」
「わたくしは、書くだけでございます」
帰り支度をしながら、ローデさんは荷から乾した杏をひと掴み出して、卓に置かれました。
「代金だ」
「いただきすぎでございます」
「四壺ぶんだ。三壺は返らんかったが、残りの荷は助かる」
紐を締めて、荷を背負われます。
「十日で港まで行って、帰りにまたここを通る」
「はい」
「そのときにまた来る。荷を、見てくれ」
「承知いたしました」
戸に手をかけて、ローデさんは卓の杏のほうをご覧になりました。
「甘いんだろう、それは」
「はい」
「……俺には、分からんが」
戸が閉まりました。
卓の上に杏が残っております。数えると、十七ございました。
十日ののちに、またいらっしゃるそうです。
【今日の帳面】
ローデ/四十ほど。甘みのみ不可。二年前の夏、熱病の薬を飲み終えた頃から。塩・酸・苦は残っている。
蜂蜜の見分け——匂い/糸の長さ/縁の泡/開けた日を壺の木札に書く。次は十日後。
舐めれば分かることを、舐めずに分かる手が四つあれば、その方は明日も商いを続けられます。
次回、宿の主が右手のことを話します。王宮の菓子職人が、なぜ街道で薪を割っているのか。




