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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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16/30

第16話:その薬を飲んでから、でございますか

 ここから第三章「舌の格差」でございます。妹が帳面を掴んで帰った、その三日後から始まります。

 二冊目の帳面は、卓の上に出したままにしております。


 タニアさんが写されたほうでございます。字は歪んでおりますし、綴りも半分は間違っております。それでも中身は全部ございました。


 タニアさんは毎朝それを広げて、一頁ずつ声に出して読んでいらっしゃいます。


「これ、なんですか」


「『あぶら』でございます」


「なんでわたし、こんな形に書いたんでしょう」


「形は合っております」


「合ってないから聞いてるんですけど」


 ご自分で写した字を、ご自分で読めないことがあるのだそうです。それでも三日で、頁をめくる速さが変わりました。


 わたくしは一冊目のほうを出して、妹の頁に一行足しました。


 ——三日前、店に来た。帳面を掴んだ。返した。名前を探していた。


 その下は空いたままでございます。召し上がれないもの、存じません。嫌いなもの、存じません。


 八年ぶりに会って、増えたのは一行だけでございました。


 アダンさんには、昨日で二度目をお渡ししました。あと四回でございます。


 昼前に、タニアさんが粉を担いで戻っていらっしゃいました。


「姉さん。ヴァレンティのとこ、四人目が入ったそうですよ」


「そうですか」


「四人目ですよ。今度は王都から取らないで、町の食堂の人だそうです。三人目までが王宮だの何だのだったのに」


 タニアさんは袋を土間に下ろされました。


「うちの父が言ってました。旦那が食わないんだから、誰が作っても同じだろって」


「そうですか」


「それだけですか」


「粉は、いくらでしたか」


「銅貨四枚です」


「では、変わっておりませんね」


 タニアさんは腕を組んで、一歩下がられました。


「腹立つな」


「粉の値がでしょうか」


「姉さんがです」


 わたくしは秤に袋を載せました。四枚ぶんの目方がございます。


 その日の午後、看板に新しい字が増えました。


 ——あまいものがわからない


 大人の字でございました。書いた方は、書いたまま戸口に立っていらっしゃいます。


 四十ほどの、日に焼けた男の方でした。背の荷が、ご自分の背丈より高うございます。


「ドランに聞いた。ここは書けば聞いてくれると」


「お入りください」


 荷を下ろすと、土間が半分埋まりました。乾した杏と無花果、香辛料の小袋、それから蜂蜜の壺が四つ。王都と港のあいだを年に四度回っていらっしゃるそうです。ローデさんとおっしゃいます。


「甘いのが分からん」


 ローデさんは、そう切り出されました。


「塩は分かる。酸っぱいのも分かる。苦いのも分かる。甘いのだけが、水と同じだ」


「いつからでございましょう」


「二年前の夏だ」


「その夏に、何かございましたか」


 ローデさんは荷の紐を握り直されました。


「……熱病をやった。街道の宿で二十日寝た」


「お薬は」


「薬師が粉をくれた。苦いやつだ。ひと月飲んだ」


 わたくしは炭を止めました。


「その薬を飲んでから、でございますか」


 答えるまでに、少しかかりました。


「……飲み終えた頃だ。最初は、宿の飯が薄いんだと思ってた。次の宿でも薄かった。三軒目で、宿のせいじゃないと分かった」


「どなたかに、お話しになりましたか」


「言えるか」


 ローデさんは荷のほうへ顎をやられました。


「蜂蜜を売る男が、甘いのが分からんと言えるか」


「二年、でございますね」


「二年だ」


 その二年で、困っておいでのことを伺いました。


 先月、港で客に返品されたのだそうです。この蜂蜜は酸っぱいと言われて、その場で舐めて、分からなかった。三壺ぶんお返しになりました。悪くなっていたのかどうか、今でもご存じないそうです。


「その四つの壺を、開けてくださいますか」


 ローデさんは並べられました。返された三壺と、今朝まで売っていた一壺だそうです。


 わたくしは順に匙を入れました。


 一つ目。糸が長うございます。匙を上げると細くなって、切れずに落ちます。


 二つ目も同じでございました。


 三つ目は、白く固まっております。


 四つ目は、匙を上げた途端に糸が短く切れました。壺の縁に細かい泡がついております。


「三つ目は、悪くなっておりません」


「白くなってるぞ」


「冷えて固まっただけでございます。壺のまま湯に浸けて、指で触れて温いくらいで止めれば戻ります」


「四つ目は」


「これは、お返しになって当然でございます」


 戸口に、レイフ様が薪を抱えて立っていらっしゃいました。いつからかは存じません。


 薪を土間に置いて、匙を取られました。左手でございます。右手は前掛けの下にございました。


 四つとも順に舐められます。


「三つは何ともない。四つ目は酸っぱい」


 ローデさんがレイフ様を見上げられました。


「あんた、舌がいいのか」


「悪くはない」


「……この人と同じことを言った」


「この人は舐めてねえよ」


 レイフ様は匙を置いて、薪を抱え直して出ていかれました。


「ローデさん。舐めなくても分かることを、四つ書いてよろしいでしょうか」


「四つ」


「匂いと、糸の長さと、縁の泡。それから、開けた日でございます」


「開けた日」


「壺を開けた日を、どこかにお書きになっていますか」


「書くわけがない。売れりゃ空になる」


「では、今日から書いてください」


 木札を四枚いただいて、炭で日を入れました。開けた日と、目安の日と。夏は短く、冬は長うございます。


「これを蓋の紐に結んでください」


「……字は読める。数もだ」


「では、足ります」


 その日の菓子には、蜂蜜を少しだけ使いました。甘みのためではございません。焼き色と匂いのためでございます。


 刻んだ杏を多めに入れて酸味を前に出し、胡桃は粗く砕いて歯に当たるようにいたしました。塩はひとつまみより少し多く。


 ローデさんは立ったまま二つ召し上がりました。


「……酸っぱいな」


「はい」


「歯にくる」


「はい」


「久しぶりに、口の中で何か起きた」


 三つ目に手を伸ばして、途中で止められました。


「治るのか、これは」


「存じません」


「あんたでも分からんことがあるのか」


「わたくしは、書くだけでございます」


 帰り支度をしながら、ローデさんは荷から乾した杏をひと掴み出して、卓に置かれました。


「代金だ」


「いただきすぎでございます」


「四壺ぶんだ。三壺は返らんかったが、残りの荷は助かる」


 紐を締めて、荷を背負われます。


「十日で港まで行って、帰りにまたここを通る」


「はい」


「そのときにまた来る。荷を、見てくれ」


「承知いたしました」


 戸に手をかけて、ローデさんは卓の杏のほうをご覧になりました。


「甘いんだろう、それは」


「はい」


「……俺には、分からんが」


 戸が閉まりました。


 卓の上に杏が残っております。数えると、十七ございました。


 十日ののちに、またいらっしゃるそうです。

【今日の帳面】


ローデ/四十ほど。甘みのみ不可。二年前の夏、熱病の薬を飲み終えた頃から。塩・酸・苦は残っている。

蜂蜜の見分け——匂い/糸の長さ/縁の泡/開けた日を壺の木札に書く。次は十日後。


 舐めれば分かることを、舐めずに分かる手が四つあれば、その方は明日も商いを続けられます。


 次回、宿の主が右手のことを話します。王宮の菓子職人が、なぜ街道で薪を割っているのか。

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