第17話:王宮の菓子職人が、なぜ街道にいるのか
翌朝、組合の若い方が紙を一枚置いていかれました。
戸を開けずに、隙間から差し入れて帰られます。中には入っていらっしゃいません。
タニアさんが土間から拾い上げて、卓に広げられました。
「読みます」
「どうぞ」
「ことし、の……ひん、ぴょう、かい……申し込み、よう、りょう」
一行に、たっぷり十を数えるほどかかりました。それでも読んでいらっしゃいます。指で字を押さえながら、一つずつでございます。
「品評会って、なんですか」
「町の菓子屋が、秋に一日だけ皿を並べる催しでございます」
「出るんですか」
「出られるかどうかを、そこに書いてございます」
わたくしは残りを読みました。
出品には組合員お二人の推挙が要ります。これは、たぶん揃いません。
その下に、二つ書き足してございました。
——出品は組合の定める品目に限る。王都風の蜂蜜菓子、配合は別紙のとおり。
——特定の客に合わせて配合を変えた品は、菓子と認めない。
二つ目のほうは、去年までの要領にはなかったそうです。紙の端に、新しい墨で書き足してございました。
「どういう意味ですか、これ」
「うちの菓子は、出せないという意味でございます」
「はあ?」
タニアさんが紙を持ち上げられました。
「これ、姉さんの店だけのために書いたんじゃないですか」
「そうかもしれません」
「腹立つな」
「推挙のほうが先でございます」
「推挙って、なんですか」
「組合の方お二人に、名前を書いていただくことでございます」
「頼めばいいじゃないですか」
昼から、三軒を回りました。
一軒目は向かいの飴屋でございます。戸は開いておりましたが、ご主人は帳場から動かれませんでした。
「悪いね。今年は誰の推挙もしないことにしたんだ」
「どなたがお決めになりましたか」
「決めたんじゃない。そうしただけだ」
二軒目でも、ほとんど同じことを伺いました。
三軒目のご主人だけは、戸口まで出てきてくださいました。
「あんたのとこ、この前ヤンさんが甘くないのを買ってったろう」
「はい」
「うちの親父も、あれだ。甘いのが苦いと言う」
「はい」
「……悪いね」
店へ戻ると、タニアさんが組合の紙を裏返して、裏に何か書いていらっしゃいました。
「何をお書きですか」
「行った店の名前です。三つ」
「なぜでしょう」
「あとで数えるのに要るでしょう」
夕方、戸が開きました。
レイフ様が薪を抱えて入っていらっしゃいます。窯の口が今朝から具合が悪いので、見にいらしたのだと思います。
薪を土間に置いて、卓の紙をご覧になりました。
それから、動かなくなられました。
わたくしは天板を拭いておりました。手は止めておりません。
「レイフ様」
「……その二つ目な」
「はい」
「同じ文を、俺は見たことがある」
レイフ様は椅子を引いて、腰を下ろされました。座られるのを見たのは、初めてでございます。
「王宮の菓子方に十一年いた」
「はい」
「十一年目の秋に、宴があった。他国からの使節を入れる席だ」
わたくしは天板を置きました。
「前の日にな、宿直の者が紙を回してきた。使節のうち一人、胡桃が食えないと」
「書いてあったのですね」
「書いてあった。誰が書いたかは書いてなかった」
レイフ様は、卓の木目を左手の親指でなぞっていらっしゃいます。
「俺は菓子方の頭に言った。口で言った。一人だけ別に焼きますと」
「頭の方は」
「一人のために宴の品を変えられるか、と言った。それだけだ」
「それで」
「別に焼いた。勝手にな。翌日、配膳の前に自分の皿を差し替えようとした」
レイフ様はそこで一度、言葉を切られました。
「止められた。三人だ。厨の入口まで引かれて、扉に右手を挟まれた」
わたくしは何も申し上げませんでした。
「事故ということになった。実際、そう書いてある。菓子方の一人が配膳の場で取り乱し、扉に手を挟んだ。宴は滞りなく終わった。そう残ってる」
「使節の方は」
「食った。俺が焼いたほうじゃない」
「それで」
「三日寝込んだ。死にはしてねえ」
レイフ様は指を止められました。
「誰も、なんで寝込んだかは調べなかった。菓子方の頭も、宮の医者も、誰もだ。あの方は元々お体が弱いという話になって、それで終わった」
わたくしは湯を汲んで、卓に置きました。
レイフ様は椀に触れられません。
「使節が寝込んだことは、どこにも残ってねえ。俺が扉に手を挟んだことだけが残ってる。おかしいだろう」
「はい」
「口で言ったからだ」
レイフ様は、初めてこちらをご覧になりました。
「俺は書かなかった。頭に言った。宿直に言った。配膳の者に言った。全部口だ。だから、あの日のことは俺の手のことになった」
わたくしは椀を少し押しました。
「その紙をお書きになったのは、どなたでしょう」
「紙?」
「使節の方が胡桃を召し上がれないと、前の日に回ってきた紙でございます」
レイフ様は、しばらく黙っていらっしゃいました。
「……知らん。名も書いてなかった」
「では、その方も、書いた人でございます」
「なんだそりゃ」
「その方が書かなければ、レイフ様は前の日に知ることができませんでした。名前がなくても、書いたことは残っております。レイフ様が今そう覚えていらっしゃいますから」
レイフ様は椀を取られました。左手でございます。
半分ほど飲んで、置かれました。
「あんたの帳面はな」
「はい」
「三年ぶん、残ってる」
それだけおっしゃって、立ち上がられました。
薪を積み直して、窯の口の具合を見に行かれます。左手で薪を割る音が、しばらく外でしておりました。
戻っていらしたときには、もう普段の顔でございました。
「窯は、明日の朝から使える。煙道に灰が詰まってただけだ」
「ありがとうございます」
「それとな」
レイフ様は戸口で止まられました。
「あんたはまだ拒んでいない」
「はい」
「その紙は、まだ品目のことしか書いてない。そのうち『この客にこれを出せ』と言ってくる。断るのは、そこからだ」
「はい」
「断ったあとのことは、誰も書いちゃくれねえぞ」
戸が閉まりました。
タニアさんが卓の紙を引き寄せて、じっと見ていらっしゃいます。
「姉さん」
「はい」
「これ、わたしが写しときます」
「写しますか」
「持っていかれたら、なかったことになるでしょう」
タニアさんは二冊目の帳面の、後ろのほうの白い頁を開かれました。炭を握って、一字ずつでございます。「特定の客に合わせて」のところで三度止まって、三度とも指で字を数え直していらっしゃいました。
わたくしは一冊目のほうを出して、新しい頁を作りました。
レイフ・コルネ。
召し上がれないもの——。
そこで炭が止まりました。
この方が召し上がれないものを、わたくしは一つも存じません。三日月亭の賄いは何でも召し上がります。宿の客の残りも召し上がります。
書けることは、まだ何もございませんでした。
外で、薪の割れる音が続いております。
一本につき、一度でございます。二度目の音がいたしません。
【今日の帳面】
レイフ・コルネ/三十。召し上がれないもの——記載なし。本日、頁を作る。
(組合よりの書付・写し)出品は組合の定める品目に限る。特定の客に合わせて配合を変えた品は、菓子と認めない。
口で言ったことは、その日のうちに無かったことになります。書いたものだけが、翌朝も同じ形で残っております。
次回、甘いものがこわいという子が参ります。話を聞き出せるのは、わたくしではございません。




