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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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第8話:屋敷は、誰が回していたのか

 第二章でございます。ここから、置いてきた屋敷のことが、噂や荷になって届くようになります。

 ロゼリアはその場に、一度もおりません。

 荷馬車は、朝の六時に着きました。


 わたくしは三日月亭の窯でパンを焼いておりましたので、裏口の窓から見ておりました。木箱が一つ。縄が二重に掛かって、蝋の封がしてございます。


 ヴァレンティ家の封でございました。三年、毎朝見ていたものです。


 レイフ様が受け取って、そのまま裏口へ回ってこられました。


「重いぞ」


「はい」


「開けるか」


「パンが焼けてからにいたします」


 レイフ様は木箱を土間に置いて、こちらをご覧になりました。


「先に開けろよ」


「ここで開けますと、下の段が焦げます」


 パンは十二個でございます。焼き上がりまで、あと二百を数えるほどでした。


 わたくしは数えました。


 箱を開けたのは、店へ戻ってからでございます。


 中には帳面が一冊、入っておりました。


 革の表紙で、角に金の箔が押してございます。綴じの糸は絹でした。わたくしのものより、ひと回り大きうございます。


 添え状が一枚。家令のヴェルナーさんの字でございました。


 ——当家は記録を整備した。貴殿が持ち出した手控えと同じ形式のものが当家にある。よって貴殿が保持する必要はない。速やかに返却されたい。


「立派ですね」


 タニアさんが横から覗き込まれます。


「はい」


「姉さんのより立派ですよ」


「はい」


「腹立つな」


 わたくしは帳面を開きました。


 一枚目に日付。その下に、その日の献立が並んでおります。字は整っておりました。ヴェルナーさんの字ではございません。もっと若い方の字でございます。


 ——三の月の四日。鴨の腿肉。豆の煮込み。白身魚の香草焼き。主人、召し上がらず。


 二枚目も同じでした。三枚目も同じでした。四枚目で終わっております。


 あとは、白紙でございました。


「これ、途中でやめたんですか」


「そのようでございます」


「なんでですか」


 わたくしは四枚目をもう一度読みました。


 日付がございます。料理の名がございます。召し上がったか、召し上がらなかったかがございます。


 誰が何を召し上がれないかは、一行もございませんでした。


「これは、献立表でございます」


「姉さんのと、違うんですか」


「献立表は、作ったものを書きます。帳面は、食べる方を書きます」


 わたくしは、書いてある三日ぶんをもう一度読みました。


 三の月の四日、五日、六日と、腿肉と煮込みと白身の魚が、順番だけを入れ替えて並んでおります。


 同じ手を三度繰り返される方は、迷っていらっしゃる方でございます。


 そして三日とも、主人、召し上がらず、と書いてございました。


 このうち五日の献立でしたら、あの方は、召し上がるはずでございました。


 なぜそう思うのかは、書けません。三年ぶんの頁が、そう言っているだけでございます。


 わたくしは帳面を閉じました。


 タニアさんは表紙を撫でて、それから裏返して裏表紙もご覧になりました。


「姉さんのは、油で真っ黒ですけど」


「はい」


「そっちのほうが役に立つってことですか」


「はい」


 白紙の頁を数えました。百八十枚ございます。


 もう一度数えました。やはり百八十枚でございました。


 昼過ぎ、看板の余白の方がいらっしゃいました。


 「まつりのつきはにくをたべない」と書いていかれた方です。針と糸の行商で、アダンさんとおっしゃいます。五十ほどの、痩せた男の方でした。


「祈りの月は、獣のものを口にしないんです」


「ひと月でございますか」


「ひと月です。今年は、次の新月からです」


「そのあいだ、何を召し上がっていますか」


 アダンさんは、しばらく黙っておられました。


「……硬いパンと、水です」


「ひと月」


「毎年です」


 街道の宿で出るパンは、たいてい獣の脂で艶を出します。菓子はなおさらでございます。祈りの月のあいだ、この街道にアダンさんの召し上がれるものは、ほとんどございません。


「宿の方に、おっしゃったことは」


「ないです」


「なぜでしょう」


「面倒な客だと思われますから」


 わたくしは書き取りました。獣の脂すべて不可。ひと月。毎年。誰にも言っていない。


 菜種の油と、擂った胡桃がございます。バターを使わずに焼きますと、口の中でほどけずに崩れますので、蜂蜜を少し多くいたしました。


 一度目は、天板に張りつきました。菜種は、バターほど生地から離れてくれません。


 二度目は、離れましたが、縁が薄くなりすぎて割れました。


 三度目に、粉を混ぜる順を変えました。油を先に粉へ入れて、指で潰すように混ぜてから、蜂蜜を落とします。


 それで形になりました。


 アダンさんは一つ召し上がって、それから包みのほうをご覧になりました。


「これ、日持ちしますか」


「四日でございます。菜種は早う傷みます」


「四日か」


「祈りの月に入りましたら、五日おきにこの町をお通りください。焼いておきます」


 アダンさんは、包みを両手で持ったまま動かれませんでした。


「あんた、ひと月ぶん焼くのか」


「五日ぶんずつでございます」


 その晩、三日月亭の卓で、荷運びの方たちが話していらっしゃいました。


 わたくしは翌朝の粉を計っておりました。


「ヴァレンティのとこ、三人目も辞めたぞ」


「早えな」


「今度は屋敷で作らせるのをやめて、王都から取り寄せてるらしい」


「三日かかるだろ」


「かかる。着いた頃には冷めてる。で、冷めてるから下げろと言うんだと」


「じゃあ何も食ってねえのか」


「そういうことになるな」


 分銅を足して、皿を水平に戻しました。


「あそこ、じきに晩餐会をやるらしいぞ」


「この状態でか」


「もう招きを出しちまったんだと」


 卓が笑いました。


 わたくしは粉の袋の口を縛って、紐を二重に回しました。


 夜、店に戻って、届いた帳面を棚へ入れることにいたしました。


 返送はいたしません。返事も書きません。


「返さねえのか」


 戸口でレイフ様がおっしゃいます。


「はい」


「向こうは返せと書いてきたんだろ」


「同じものがあるから返せ、と書いてございました」


「同じじゃなかったな」


「はい」


 妹は、アルディ家のものだと書いて寄越しました。屋敷は、当家のものだと書いて寄越しました。


 どちらの方も、あの帳面の中をご覧になったことがございません。


 書いてあるのは、誰が何を召し上がれないかだけでございます。


「で、誰が欲しがってるんだ」


「存じません」


 棚へ入れる前に、綴じの具合を見ようと思いまして、最後まで頁を繰りました。


 いちばん後ろの頁に、字がございました。


 一行だけです。ほかの頁の字とは違います。震えて、大きうございました。


 ——マルタ、乳ではない。柄杓。


 三年前、わたくしが厨房の壁に貼った紙に、そう書いてございました。


 書き写した方が、屋敷にいらっしゃいます。


 どなたか、存じません。

【今日の帳面】


アダン/祈りの月のあいだ、獣の脂すべて不可。菜種の油と胡桃で可。日持ち四日、五日おきに焼く。毎年ひと月、誰にも言わずに硬いパンで過ごしていた。

(届いた帳面より)記入は四枚。以降 白紙百八十枚。日付と献立のみ。誰が何を召し上がれないかは、一行もなし。


 同じ形の帳面を作ることはできます。同じことが書けるかどうかは、別の話でございます。


 次回、店に一人の男の方がいらっしゃいます。何も注文なさらず、「屋敷に、写しはございますか」とだけ伺って帰られます。

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