↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/30

第7話:看板が、埋まった日

 「にがい」の方は、翌日にご自分でいらっしゃいました。


 タニアさんが探しに出る前でございます。町外れで畑をなさっている、六十ほどの男の方でした。ヤンさんとおっしゃいます。


「三日、迷った」


 ヤンさんは戸口で立ったまま、そうおっしゃいました。


「書いたはいいが、入るのに三日かかった」


「お入りください」


 ヤンさんが召し上がれないのは、甘いものでございました。


 正しくは、甘いものが苦く感じられる。三年ほど前から、砂糖の入ったものを口に入れると、舌の奥のほうが苦くなるのだそうです。


「歳だと言われた。町の薬師にも、そう言われた」


「お薬を、飲んでいらっしゃいますか」


「膝のを。もう五年になる」


 わたくしは書き取りました。膝の薬。五年。苦みは三年前から。


 合いません。二年ずれております。


「五年のあいだに、お薬は変わりましたか」


 ヤンさんは、しばらく考えていらっしゃいました。


「……変わった。三年前に、薬師が代替わりして、粉が変わった」


 わたくしは炭を止めました。


 それ以上は、わたくしの領分ではございません。薬のことは薬師の領分でございます。


 ただ、書くことはできます。


「ヤンさん。次に薬師のところへいらっしゃるとき、この頁をお持ちください」


 わたくしは帳面を一枚破って、お渡ししました。


 ——三年前、粉が変わった時期と、甘みが苦くなった時期が重なる。膝の薬。ヤン。


「わたしは字が」


「読めなくても構いません。薬師の方はお読みになります」


 ヤンさんは、紙を両手で受け取られました。


 それから、しばらく黙っていらっしゃいました。


「三年、誰にも言わなかった」


「はい」


「言っても、歳だと言われるから」


「はい」


「あんた、書いてくれるんだな」


 わたくしは頷きました。


 その日、ヤンさんには蜂蜜も砂糖も使わないものをお出ししました。粉と、擂った胡桃と、塩をひとつまみ。甘くないものを菓子と呼んでよいのか迷いましたが、ヤンさんは二つ召し上がって、三つ目を懐に入れて帰られました。


 銅貨が二枚でございます。


 その週から、店に人が入るようになりました。


 多くはございません。日に三人か、四人。けれど、その方たちはたいてい、看板の余白に何か書いてから入っていらっしゃいます。


 ドランさんが仲間を連れてこられました。ミナさんが宿の泊まり客に話されました。ヤンさんが畑の寄合で話されたそうです。


 三日目にいらしたのは、旅の途中のご夫婦でした。奥様のほうが、油の匂いで喉が詰まるとおっしゃいます。


「いつからでしょう」


「去年の冬からです」


「その冬に、何かございましたか」


 奥様は答えられませんでした。答えられたのは、ご主人のほうでございます。


「子を、亡くしました」


 店の中が静かになりました。


 わたくしは炭を置きました。


「では、油を使わずに焼きます。少しお時間をいただきます」


「治りますか」


「治すのは、わたくしの領分ではございません」


 わたくしは、そう申し上げました。


「今日召し上がれるものをお出しするのが、わたくしの領分でございます」


 奥様は、それを二つ召し上がりました。


 帳面には、こう書きました。


 ——去年の冬。油の匂い。理由は書かない。次にいらしたら、同じものを出す。


 書かないことを書いておくのも、書くことでございます。


 誰も「あの店の菓子はうまい」とはおっしゃいません。


 「あそこは、聞いてくれる」とおっしゃるそうです。


 タニアさんが、それを聞いて憤慨していらっしゃいました。


「うまいって言えばいいのに」


「はい」


「腹立つな。姉さん、三回焼き直したのに」


「四回でございます」


 家賃の期日の前日、看板の余白が埋まりました。


 わたくしが外へ出たとき、タニアさんが板の前にしゃがんでいらっしゃいました。


「姉さん。もう書くとこないです」


 板の下半分は、上から下まで字で埋まっておりました。大人の字と、子どもの字と、震えた字が混ざっております。


 ——なべ。はがいたい。あさだけ。にがい。しおからいのがだめ。あぶらがのどにつまる。パンだけたべられない。ちちがのめない。まつりのつきはにくをたべない。


 最後の一つは、まだ帳面に写しておりませんでした。


「これ、どうしますか」


「新しい板を出しましょう」


「この板は」


 わたくしは、少し考えました。


「店の中に入れます」


 その日の夕方、家賃をお納めしました。


 大家は町外れの粉挽き屋——タニアさんのお父上でございます。昼から酔っていらっしゃると伺っておりましたが、その時刻はもう夕方でしたので、たいへん酔っていらっしゃいました。


「払えたのか」


「はい」


「二十日で潰れると思っとった」


「わたくしもです」


 お父上は銅貨を数えて、卓に置かれました。数え方が速うございます。指が動く順番に無駄がございません。


 わたくしはそれを見ておりました。


 字が読めない人が、二十年、粉の商いを続けていらっしゃる。数えることだけで続けていらっしゃる。


「なんだ」


「いえ」


「言え」


「……お上手ですね。数えるのが」


 お父上は少し黙って、それから鼻で笑われました。


「読めんからな。数えられんかったら死んどる」


 その言い方に、恨みはございませんでした。ただの手順の話としておっしゃいました。


 わたくしは頭を下げて、店へ戻りました。


 銅貨は二枚余りましたので、タニアさんに一枚お渡ししました。


「なんですかこれ」


「給金でございます」


「一枚ですか」


「一枚でございます」


「……最悪ですね」


 タニアさんは、それを握って帰られました。


 握り方が、たいへん固うございました。


 夜、埋まった板を店の中に立てかけて、字を一つずつ帳面へ写しておりました。


 戸が叩かれました。


 レイフ様でした。手に、封のされた紙を持っていらっしゃいます。


「王都からの荷馬車が、明日の朝に着く」


「はい」


「あんた宛てだ。宿に預かりが来てる」


 わたくしは手を止めました。


 この町で、わたくし宛ての荷を出す方は、いらっしゃいません。


「どちらからでしょう」


 レイフ様は紙を裏返して、差出人のところをこちらへ向けられました。


 わたくしはそれを読みました。


 ヴァレンティ伯爵家、と書いてございました。

【今日の帳面】


ヤン/甘味が苦く感じられる。膝の薬の粉が変わった時期と一致。以後は薬師の領分。

(看板より書き写し)しおからいのがだめ/あぶらがのどにつまる/まつりのつきはにくをたべない


 看板は一枚、埋まりました。二枚目の板は、まだ真っ白でございます。


 次回、王都から届いた荷を開けます。中身は、わたくしが三年つけていたものと同じ形をしておりました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。