第7話:看板が、埋まった日
「にがい」の方は、翌日にご自分でいらっしゃいました。
タニアさんが探しに出る前でございます。町外れで畑をなさっている、六十ほどの男の方でした。ヤンさんとおっしゃいます。
「三日、迷った」
ヤンさんは戸口で立ったまま、そうおっしゃいました。
「書いたはいいが、入るのに三日かかった」
「お入りください」
ヤンさんが召し上がれないのは、甘いものでございました。
正しくは、甘いものが苦く感じられる。三年ほど前から、砂糖の入ったものを口に入れると、舌の奥のほうが苦くなるのだそうです。
「歳だと言われた。町の薬師にも、そう言われた」
「お薬を、飲んでいらっしゃいますか」
「膝のを。もう五年になる」
わたくしは書き取りました。膝の薬。五年。苦みは三年前から。
合いません。二年ずれております。
「五年のあいだに、お薬は変わりましたか」
ヤンさんは、しばらく考えていらっしゃいました。
「……変わった。三年前に、薬師が代替わりして、粉が変わった」
わたくしは炭を止めました。
それ以上は、わたくしの領分ではございません。薬のことは薬師の領分でございます。
ただ、書くことはできます。
「ヤンさん。次に薬師のところへいらっしゃるとき、この頁をお持ちください」
わたくしは帳面を一枚破って、お渡ししました。
——三年前、粉が変わった時期と、甘みが苦くなった時期が重なる。膝の薬。ヤン。
「わたしは字が」
「読めなくても構いません。薬師の方はお読みになります」
ヤンさんは、紙を両手で受け取られました。
それから、しばらく黙っていらっしゃいました。
「三年、誰にも言わなかった」
「はい」
「言っても、歳だと言われるから」
「はい」
「あんた、書いてくれるんだな」
わたくしは頷きました。
その日、ヤンさんには蜂蜜も砂糖も使わないものをお出ししました。粉と、擂った胡桃と、塩をひとつまみ。甘くないものを菓子と呼んでよいのか迷いましたが、ヤンさんは二つ召し上がって、三つ目を懐に入れて帰られました。
銅貨が二枚でございます。
その週から、店に人が入るようになりました。
多くはございません。日に三人か、四人。けれど、その方たちはたいてい、看板の余白に何か書いてから入っていらっしゃいます。
ドランさんが仲間を連れてこられました。ミナさんが宿の泊まり客に話されました。ヤンさんが畑の寄合で話されたそうです。
三日目にいらしたのは、旅の途中のご夫婦でした。奥様のほうが、油の匂いで喉が詰まるとおっしゃいます。
「いつからでしょう」
「去年の冬からです」
「その冬に、何かございましたか」
奥様は答えられませんでした。答えられたのは、ご主人のほうでございます。
「子を、亡くしました」
店の中が静かになりました。
わたくしは炭を置きました。
「では、油を使わずに焼きます。少しお時間をいただきます」
「治りますか」
「治すのは、わたくしの領分ではございません」
わたくしは、そう申し上げました。
「今日召し上がれるものをお出しするのが、わたくしの領分でございます」
奥様は、それを二つ召し上がりました。
帳面には、こう書きました。
——去年の冬。油の匂い。理由は書かない。次にいらしたら、同じものを出す。
書かないことを書いておくのも、書くことでございます。
誰も「あの店の菓子はうまい」とはおっしゃいません。
「あそこは、聞いてくれる」とおっしゃるそうです。
タニアさんが、それを聞いて憤慨していらっしゃいました。
「うまいって言えばいいのに」
「はい」
「腹立つな。姉さん、三回焼き直したのに」
「四回でございます」
家賃の期日の前日、看板の余白が埋まりました。
わたくしが外へ出たとき、タニアさんが板の前にしゃがんでいらっしゃいました。
「姉さん。もう書くとこないです」
板の下半分は、上から下まで字で埋まっておりました。大人の字と、子どもの字と、震えた字が混ざっております。
——なべ。はがいたい。あさだけ。にがい。しおからいのがだめ。あぶらがのどにつまる。パンだけたべられない。ちちがのめない。まつりのつきはにくをたべない。
最後の一つは、まだ帳面に写しておりませんでした。
「これ、どうしますか」
「新しい板を出しましょう」
「この板は」
わたくしは、少し考えました。
「店の中に入れます」
その日の夕方、家賃をお納めしました。
大家は町外れの粉挽き屋——タニアさんのお父上でございます。昼から酔っていらっしゃると伺っておりましたが、その時刻はもう夕方でしたので、たいへん酔っていらっしゃいました。
「払えたのか」
「はい」
「二十日で潰れると思っとった」
「わたくしもです」
お父上は銅貨を数えて、卓に置かれました。数え方が速うございます。指が動く順番に無駄がございません。
わたくしはそれを見ておりました。
字が読めない人が、二十年、粉の商いを続けていらっしゃる。数えることだけで続けていらっしゃる。
「なんだ」
「いえ」
「言え」
「……お上手ですね。数えるのが」
お父上は少し黙って、それから鼻で笑われました。
「読めんからな。数えられんかったら死んどる」
その言い方に、恨みはございませんでした。ただの手順の話としておっしゃいました。
わたくしは頭を下げて、店へ戻りました。
銅貨は二枚余りましたので、タニアさんに一枚お渡ししました。
「なんですかこれ」
「給金でございます」
「一枚ですか」
「一枚でございます」
「……最悪ですね」
タニアさんは、それを握って帰られました。
握り方が、たいへん固うございました。
夜、埋まった板を店の中に立てかけて、字を一つずつ帳面へ写しておりました。
戸が叩かれました。
レイフ様でした。手に、封のされた紙を持っていらっしゃいます。
「王都からの荷馬車が、明日の朝に着く」
「はい」
「あんた宛てだ。宿に預かりが来てる」
わたくしは手を止めました。
この町で、わたくし宛ての荷を出す方は、いらっしゃいません。
「どちらからでしょう」
レイフ様は紙を裏返して、差出人のところをこちらへ向けられました。
わたくしはそれを読みました。
ヴァレンティ伯爵家、と書いてございました。
【今日の帳面】
ヤン/甘味が苦く感じられる。膝の薬の粉が変わった時期と一致。以後は薬師の領分。
(看板より書き写し)しおからいのがだめ/あぶらがのどにつまる/まつりのつきはにくをたべない
看板は一枚、埋まりました。二枚目の板は、まだ真っ白でございます。
次回、王都から届いた荷を開けます。中身は、わたくしが三年つけていたものと同じ形をしておりました。




