第6話:妹は、舌が鋭いのだそうです
手紙が届いたのは、家賃まであと十日という日でございました。
差出人は、リディア・アルディ。妹でございます。
三年ぶりでした。
封を切ると便箋が一枚だけ入っておりました。
——姉様がヴァレンティ家を出られたと伺いました。実家の名に傷がつきます。帳面をお返しください。あれはアルディ家のものです。
「なんて書いてあるんですか」
タニアさんが卓の向かいから覗き込まれます。
「帳面を返せと」
「その、持ってるやつですか」
「はい」
「なんで妹さんが」
「アルディ家のものだと書いてございます」
タニアさんはしばらく便箋を睨んでいらっしゃいました。読めないのに睨むところが、この方らしゅうございます。
「姉さんが三年書いたんですよね」
「はい」
「じゃあ姉さんのでしょ」
「そうなのですが」
わたくしは便箋を畳みました。
「妹は、舌が鋭いのだそうです」
「は?」
「小さい頃からそう言われて育ちました。リディアは舌が鋭い。ロゼリアは字が丁寧。それで、うちは決まっておりました」
タニアさんは口を開けて、そのまま閉じられました。
「……決まってた、って」
「そういうものでございます。二人姉妹ですと、だいたい何かで分かれます」
わたくしがまだ十かそこらの頃、母が台所で二人に汁を飲ませたことがございました。同じ鍋から同じ椀に。
リディアが一口飲んで、こう申しました。
「これ、おいしくない」
母は笑って、リディアの頭を撫でました。
わたくしは、そのとき何と申し上げたか覚えております。
「お父様は、これを召し上がると咳をなさいます」
母は少し困った顔をなさいました。
その日から父の膳だけは、わたくしが用意することになりました。誰にも褒められませんでしたが、咳は止まりました。
褒められたのは、いつもリディアのほうでございました。おいしくないと言えば大人は笑って撫でます。咳が止まりましたと言っても誰も撫でません。止まって当たり前だからでございましょう。
一度だけ、父に尋ねたことがございます。
「お父様。わたくしは、何が上手でしょうか」
「字だな」
「字だけでしょうか」
「字は大事だぞ。嫁いだ先で恥をかかん」
それで終わりでした。
父は悪い人ではございません。ただ、二人の娘がいて、片方に何かがあれば、もう片方には別の何かを割り当てなければ収まらない。そういう順番で物を考える人でした。リディアに舌が割り当てられた時点で、わたくしには舌以外が回ってまいります。
どちらが実際にどうであるかは、その順番のあとに来ます。あるいは、来ません。
わたくしは二十三でヴァレンティ家に嫁ぎました。政略でございます。妹は十九でございました。
「あの」
タニアさんが、卓に肘をついていらっしゃいました。
「その妹さん、何が鋭いんですか」
「舌でございます」
「だから、何が」
わたくしは炭を持つ手を止めました。
「……おいしいか、おいしくないか、でございましょうね」
「それ、わたしも言えますけど」
「はい」
「わたしも言えますよ。この店の菓子、最初のやつはちょっと固かったです」
「はい」
「じゃあわたしも舌が鋭いんですか」
わたくしは、返事をいたしませんでした。
できませんでした。そう申し上げたほうが正しゅうございます。
「姉さん」
「はい」
「答えないってことは、答えがないってことですよね」
「そうかもしれません」
「妹さん、実際どうなんですか」
「存じません」
「知らないんですか」
「はい」
タニアさんは椅子に座り直されました。
「三年会ってないからですか」
「いいえ」
わたくしは首を振りました。
「三年前も、存じませんでした」
誰かがリディアの舌を確かめたところを、わたくしは一度も見たことがございません。母も、父も、家の者も、そういうものだとして扱っておりました。三年前に嫁いだきり、わたくしも確かめておりません。
確かめるのは、手間がかかりますから。
夕方、帳面を開いてリディアの頁を作りました。
三年ぶんの中に、妹の頁はございません。嫁ぐ前のことは書いておりませんでしたし、書く必要もございませんでした。
新しい頁に、まず名前を書きます。
リディア・アルディ。
その下に、書けることを探しました。
召し上がれないもの。存じません。
召し上がって具合の悪くなったもの。存じません。
嫌いなもの。……これも、存じません。
わたくしは、妹について何も書けませんでした。
三年ぶんではございません。生まれてからずっとでございます。
わたくしは炭を置いて帳面を一枚目まで戻しました。
一枚目には、わたくしの字ではないものが書いてございます。
母の字でございます。
母はわたくしが嫁ぐ年に亡くなりました。この帳面は、母の遺したものの中にあった、白紙の綴りでございました。一枚目にだけ、何か書いてありましたので、そこを飛ばして二枚目から使い始めました。
書いてあるのは、名前と、そのあとに一行だけ。
字は掠れておりまして、いま読み返しても名前の部分がどうしても読めません。
読めるのは、あとの一行のほうでございます。
——この方は、白いものを召し上がれない。
わたくしはしばらくその一行を見ておりました。
母も、同じことをしていたのでしょうか。
いつから。誰のために。
台所で汁を飲ませたあの日、母が困った顔をなさった意味を、わたくしはずっと勘違いしておりました。余計なことを言った子を持て余した顔だと思っておりました。
帳面を閉じました。
戸口で、タニアさんが看板を拭いていらっしゃいます。
「姉さん」
「はい」
「『にがい』の人、今日も来ませんでした」
「そうですか」
「明日も来なかったら、わたし、探しに行っていいですか」
わたくしは、少し驚きました。
「探すのですか」
「だって、書いていったんですよ」
タニアさんは布を絞りながら、こちらをご覧になりません。
「書いたってことは、言いたかったってことでしょう」
わたくしは帳面に手を置いたまま、その言葉を聞いておりました。
妹は、手紙を寄越しました。
書いたということは、言いたかったということでございます。
書いてあったのは、返せ、の三文字だけでございましたが。
【今日の帳面】
リディア・アルディ/召し上がれないもの——記載なし。
嫌いなもの——記載なし。生まれてから一度も、確かめられたことがない。
「あの子は舌が鋭い」と家じゅうが言うとき、たいてい誰も確かめてはおりません。
次回、第一章の最後でございます。看板の余白が、初めて全部埋まります。




