第5話:この店、潰れますよ
「この店、潰れますよ」
粉を担いで入ってきた女の子は袋を土間に下ろすなり、そうおっしゃいました。
粉挽き屋の店番をしていらした方です。歳は十四だと伺いました。
「そうかもしれません」
「そこで『そうかもしれません』って言うから潰れるんです」
「はい」
「腹立つな」
女の子は腕を組んで、一歩下がられました。
それから店の中をぐるりと見回されました。棚。天板。竈——壊れているほうです。卓が一つと、椅子が二脚。
「まず看板が地味です」
「はい」
「向かいは三日月ですよ。鍛冶屋は金床の絵です。うちは麦の穂です。絵があるでしょう。絵が」
「字しかございません」
「しかも菓子屋って書いてないんですよ、あれ」
おっしゃるとおりでございます。
「わたし、最初に見たとき、代書屋かと思いました」
「代書屋」
「手紙を書いてくれるところです。困りごとを書けって言われてるのかと」
近うございます。
「タニアです」
女の子は、粉の袋を積み直しながらおっしゃいました。
「粉挽き屋の三女です。上の姉二人は嫁に行きました。父は昼から酔ってます。以上です」
「以上ですか」
「以上です。長い話をすると、だいたい同情されるので」
わたくしは頷きました。
「では、伺いません」
タニアさんが、こちらを見られました。
「……伺わないんですか」
「はい」
「ふつう、そこで『大変ね』って言いませんか」
「言われて楽になるのでしたら、申し上げます」
タニアさんは口を開けて、そのまま閉じられました。
それから袋を一つ余計に積み直されました。もう積み終わっているのに、でございます。
「ロゼリア・アルディと申します」
「知ってます。宿の女中さんが言ってました。朝が食べられるようになったって」
タニアさんは天板を指で撫でて粉の残りを確かめられました。それから、卓に置いてあった帳面のほうへ目をやられます。
「それ、なんですか」
「帳面でございます」
「読んでいいですか」
わたくしは頷きました。
タニアさんは、両手で帳面を持ち上げられました。
しばらく、そのままでいらっしゃいました。
帳面は、上下が逆さでございました。
わたくしは何も申し上げませんでした。
タニアさんはゆっくりと頁をめくっていらっしゃいます。時折、指で字をなぞられます。目は動いておりません。
「……字が、多いですね」
「はい。三年ぶんございます」
「ふうん」
帳面が閉じられて、卓に戻されました。
向きは、逆さのままでした。
わたくしは湯を沸かして、二人ぶんの湯呑みを出しました。
「タニアさん」
「はい」
「うちの看板に、絵を足すとしたら、何がよろしいでしょう」
タニアさんは湯呑みを両手で持って、しばらく考えていらっしゃいました。
「……菓子の絵じゃ駄目なんですか」
「駄目ではございません。ただ、うちに来る方は菓子が食べたくて来るのではないようです」
「じゃあ何しに来るんですか」
「食べられないものを言いに来られます」
タニアさんは湯呑みから顔を上げられました。
「それ、絵に描けます?」
「難しゅうございますね」
「無理ですよ」
タニアさんは湯呑みを置いて、また腕を組まれました。
「じゃあ、地味なままでいいです」
「よろしいのですか」
「よくないですけど、嘘の絵を描くよりましです。菓子の絵を描いたら、菓子を食べに来た人が来ますよね。で、その人は看板の下の字を読まないですよね。読まない人が来ても、この店、意味ないでしょう」
わたくしは湯呑みを持ったまま、少し黙りました。
三日で、この方はそこまで見ていらっしゃる。
「タニアさん」
「はい」
「うちで、手伝っていただけませんか」
「お金は」
「いまはございません」
「ないんですか」
「あと十二日ぶんはございます」
タニアさんは、天井を見上げられました。
「……最悪ですね」
「はい」
「粉は父が卸してるので、うちが取りっぱぐれるだけです。まあいいです」
その日の帰り際、タニアさんが戸口で足を止められました。
「あの、姉さん」
「はい」
「さっきの帳面、逆さでしたよね」
「はい」
「なんで言わなかったんですか」
わたくしは天板を拭く手を止めました。
「どちらから読んでも、書いてあることは変わりませんので」
「変わりますよ。読めるか読めないかが変わります」
「そうですね」
タニアさんは、戸の枠を指で叩いていらっしゃいました。
「わたし、字が読めません」
「はい」
「知ってたんですね」
「存じませんでした。いま伺いました」
タニアさんは、こちらを睨まれました。
「……姉さん、そういうところがずるいです」
「申し訳ございません」
「謝らないでください。余計むかつくので」
その日から、タニアさんは午後になると店にいらっしゃるようになりました。
やっていただくのは、客席の片づけと、看板の余白の見張りです。誰かが何か書いていったら、消えないうちに帳面へ写す。それだけをお願いいたしました。
「片づけはできます」
「はい」
「見張りもできます」
「はい」
「写すのは無理です」
「口で伝えてください。書くのはわたくしがいたします」
タニアさんは、しばらく黙っていらっしゃいました。
「それ、二度手間ですよね」
「はい」
「なんでそんな手間をかけるんですか」
「二度手間のほうが、確かだからでございます」
嘘ではございません。ただ、それだけでもございませんでした。
「姉さん」
「はい」
「うちの父も、字が読めません」
「そうですか」
「だから、わたしが読めなくても誰も困らなかったんです。ずっと」
わたくしは炭を削っておりました。手を止めるべきかどうか、少し迷いました。
止めませんでした。
「困る日は、あとから来ます」
「来ますかね」
「来ます」
タニアさんは布を絞って、卓を拭き始められました。
拭きながら、こうおっしゃいました。
「困る日って、どんな日ですか」
「たとえば、誰かがあなたに何かを書いて渡した日でございます」
「渡されても、姉さんに読んでもらえばいいでしょう」
「わたくしがいない日もございます」
布の音が止まりました。
それから、また動き始めました。
夕方、看板に新しい字が増えておりました。
タニアさんが戸口から呼ばれます。
「なんか増えてます」
「なんと書いてございますか」
「……」
少し間がございました。
「わたし、見てきます」
タニアさんが看板の前まで走っていってしゃがんで、また戻ってこられました。
「三文字です」
「三文字ですね」
「一つ目が縦の棒で、その右に短いのが二つあります。二つ目は丸くて、右の上に点が二つ。三つ目は、短い棒が二つです」
わたくしは炭を持って、外へ出ました。
書いてあったのは、「にがい」でございました。
【今日の帳面】
(書き置き)「にがい」——三文字。書いた方はまだ現れず。
タニア/十四歳。看板に絵を描くことに反対。理由が正しい。
絵を描けば人は増えます。ただ、増えるのは違う人でございます。
次回、実家から手紙が届きます。差出人は妹です。八年ぶりでございました。




