第4話:旦那様が、召し上がらない
四日が過ぎました。
家賃までは、あと十六日でございます。
看板の余白には、字が三つ増えました。「なべ」の下に「はがいたい」と「あさだけ」。書いた方はどなたも、まだ店には入っていらっしゃいません。
最初に入ってこられたのは、荷運びのドランさんでした。
背の高い方で、戸口をくぐるときに頭を下げられます。三日月亭に泊まって、王都と港のあいだを行き来していらっしゃるそうです。
「あんた、あれ書いたのか」
ドランさんは看板のほうへ顎をやられました。
「はい」
「俺は『はがいたい』だ」
「では、伺わせてください。どちらの歯でございましょう」
「どっちって、歯だよ。全部だ」
「右と左では、どちらでお噛みになりますか」
ドランさんは口を動かして、しばらく考えていらっしゃいました。
「……左だな」
「いつからでしょう」
「さあ。気にしたことがねえ」
わたくしは書き取りました。左で噛む。右は使わない。硬いものを避ける。
硬いものが全部駄目なのではございません。左だけで噛める形にすれば、召し上がれます。厚く焼いて割るのではなく、薄く焼いて折る。胡桃は砕いて混ぜ込む。
その日の午後に焼いたものを、ドランさんは立ったまま四つ召し上がりました。
「あんた、歯医者か」
「菓子屋でございます」
銅貨が三枚。
その次の日は、三日月亭の女中のミナさんがいらっしゃいました。「あさだけ」の方です。
朝だけ、何を口にしても気持ちが悪くなる。昼と夜はなんともない。もう何年もそうだから、朝は食べないことにしている——そう伺いました。
「起きて、最初に召し上がるものは何でしょう」
「井戸の水です。汲みたてのを、いつも一杯」
わたくしは炭を止めました。
冷たい水を空の腹に入れてから、すぐに食べる。それだけのことでございます。順番を入れ替えれば済むことでした。
ミナさんは翌朝、白湯を先に飲んでから、わたくしの焼いたものを二つ召し上がったそうです。
昼にいらして、そう教えてくださいました。それから、しばらく黙って、こうおっしゃいました。
「何年も、体が弱いんだと思ってました」
「はい」
「弱くなかったんですね」
わたくしは帳面に書き足しました。
——ミナ/朝の不調は水の順番。体質ではない。
銅貨が二枚。
家賃まで、あと十四日。売り上げは、締めて銅貨が十一枚でございます。粉を一袋買えば四枚出てまいりますから、増えているとは申せません。
けれど、看板の余白は埋まってまいりました。
窯を貸していただく代わりに、朝は宿の分のパンも焼くことになりました。レイフ様が「使用料を引く代わりだ」とおっしゃいましたので、たぶんそのほうがお得なのはあちらでございます。
朝の四時に、三日月亭の裏口から入ります。
窯は前の晩の熾火が残っておりますので、薪を足して口を閉め、その間に粉を計ります。四時半に手を入れて、奥の壁までの熱を数えます。十を数えるあいだ手を入れていられれば、まだ足りません。七で抜きたくなれば、頃合いでございます。
最初の三日は、六で抜けませんでした。四日目に、六で抜けました。
同じ窯でも、雨の朝は火の回りが遅うございます。前の晩に泊まり客が多いと、湯を沸かした分だけ熾火が減っております。ですから、宿の帳場をのぞいて泊まり客の数を見てから、薪の本数を決めることにいたしました。
三日目からは、帳面の後ろの頁にそれも書いております。
——雨。泊まり四人。薪五本。七で抜けた。
レイフ様が一度、後ろからそれを覗かれました。
「窯の日誌をつける菓子屋は、王都でも見たことがねえ」
「三年、書く癖がついておりますので」
「癖でつけるもんじゃない」
レイフ様はそれだけおっしゃって、行ってしまわれました。
褒められたのか、呆れられたのか、分かりかねます。
その晩、三日月亭の土間をお借りして、翌朝の粉を計っておりました。
卓では、ドランさんが仲間の方と飲んでいらっしゃいました。
わたくしは粉を計っておりましたので、聞くつもりはございませんでした。
「——ヴァレンティのとこな、また替えたらしいぞ」
「また? この前、王都から取ったばかりだろ」
「ひと月もたねえんだと。二人続けて辞めた」
計りの皿が、少し傾きました。
わたくしは分銅を足して、水平に戻しました。
「なんでだよ。あそこ、金は出すだろ」
「それがな。作っても作っても、旦那が食わねえんだと」
仲間の方が笑われました。
「そりゃ、料理が下手なんだろ」
「二人続けてか?」
「三人目もどうせ辞めるさ」
卓が笑いに包まれました。
わたくしは粉を計り終えて、袋の口を縛りました。
厨房の棚に、明日の分の蜂蜜がございます。開けてから六日。あと三週間はもちます。バターは二日ぶん。砂糖は七日ぶん。
数えました。
それから、もう一度数えました。
帳面は、鞄の中にございます。オズワルド様の頁は、三年ぶんございます。何を残されたか。どれくらい残されたか。その日、外がどんな空だったか。
開けば、そこに書いてあります。
わたくしは鞄に手をかけて、そのままにいたしました。
もう、わたくしの家の食卓ではございません。
「おい」
レイフ様が、卓を拭きながらこちらをご覧になっていました。
「粉、二回計ったぞ」
「……はい」
「同じ袋を」
「はい」
レイフ様は、それ以上おっしゃいませんでした。
次の朝、三日月亭にもう一人、王都からのお客が入られました。
その方も同じ話をしていらっしゃいました。ヴァレンティ伯爵家では三人目の料理番が入ったばかりだそうです。
「三人目はどこから取ったんだ」
「王宮の下で修業したやつだと」
「そこまでやるか」
「やるだろ。伯爵家だぞ」
卓が笑いました。
わたくしはパンの生地を切り分けておりました。八つに割って、丸めて、布をかけます。手は止めておりません。
王宮の下で修業した方でも、たぶん同じことになります。
なぜそう思うのか、自分でも説明ができませんでした。ただ、三年ぶんの頁がそう言っております。あの方は、腕の善し悪しで残しているのではございません。残す日と残さない日に、腕とは別の並びがございました。
わたくしはそこまで考えて、手を止めました。
もう、わたくしの領分ではございません。
布をかけ直して、竈の口を閉めました。
そして、その方が付け足された一言だけが、卓の笑い声を少し止めました。
「旦那が痩せたって、屋敷の下働きが言ってたぜ」
【今日の帳面】
ドラン/左で噛む。薄く焼いて折る形なら可。「歯が悪い」ではなく「右が使えない」。
ミナ/朝の不調は水の順番。体質ではない。
「体が弱い」と何年も言われてきたものが、順番ひとつのこともございます。
次回、うちの店にはっきり「潰れますよ」とおっしゃった方が来ます。十四歳です。




