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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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第3話:鍋を、見せていただけますか

 翌朝、粉挽き屋であの親子のことを伺いました。


 道の突き当たりの、屋根の低い家だそうです。母親はカレンさん。男の子はヨナ。父親は去年の春に、荷運びの途中で亡くなられたとのことでした。


「去年の春、ですか」


「そうですよ。冬に橋が落ちて、直しに行った帰りだって」


 店番の女の子は、粉の袋を積み直しながらおっしゃいました。


「うちの父が言ってました。あの家、それからずっと粥ばっかり買ってくって」


 わたくしは帳面に書き足しました。父・去年の春に死去。


 書いてから、少し考えて、その下にもう一行足しました。


 ——鍋を替えたのは、その後か。


 わたくしは帳面と、炭の欠片を持って参りました。


 戸を叩くと、カレンさんが顔をお出しになりました。わたくしを見て、明らかに困った顔をなさいました。


「あの、昨日は……」


「お菓子を売りに参ったのではございません」


 わたくしは頭を下げました。


「台所を、見せていただけませんか」


 カレンさんは、一度まばたきをなさいました。


「台所を、ですか」


「はい。それだけでございます。何も召し上がっていただかなくて結構です。買っていただかなくても結構です」


「……あの、お代は」


「いただきません。まだ何も焼いておりませんので」


 カレンさんは、しばらく戸の縁を握っていらっしゃいました。


 それから、体を横にずらされました。


 土間の隅に、竈が一つございました。


 鍋は二つ。大きいほうで湯を沸かし、小さいほうで何でも作るのだと伺いました。粥も、汁も、卵も。


 わたくしは小さいほうの鍋を、持ち上げてよろしいかと伺ってから、裏返しました。


 底の外側に、赤茶色の粒が浮いております。指で撫でると、ざらりと落ちました。


「この鍋は、いつからお使いですか」


「去年の……秋くらいでしょうか。前のが割れてしまって、市で安いのを」


「割れたほうの鍋では、卵はお出しになりましたか」


「ええ。毎朝」


「そのときは、なんともございませんでしたか」


「……はい」


 カレンさんの声が、少し落ちました。ご自分で気づかれたのだと思います。


 わたくしは帳面を開いて、昨日の頁に書き足しました。


 ——卵ではない。鍋。


「ヨナさんが召し上がれないのは、卵ではございません」


「え」


「この鍋で火を通したものです」


 わたくしは鍋の底をお見せしました。


「卵を焼くときは、鉄をよく熱してから薄く広げますでしょう。錆の浮いた鍋でそれをすると、いちばん強く出ます。汁物は水気が多いので、出方が弱うございます。粥はもっと弱い。ですからカレンさんには、卵だけが悪者に見えたのだと思います」


 カレンさんは、鍋を見つめていらっしゃいました。


「じゃあ、わたしが」


「いいえ」


 わたくしは鍋を置きました。


「安い鍋をお選びになったのは、そうしなければならなかったからでございましょう。それは、どなたのせいでもございません」


 屋敷のマルタも同じでした。乳が駄目なのだと三年言われ続けて、実際に駄目だったのは乳ではなく、乳を掬う柄杓のほうでした。柄杓を替えたら、その日から何ともなくなりました。


 誰も確かめないだけです。


 確かめるのは、手間がかかりますから。


 その日の午後、三日月亭の窯をお借りしました。


 卵は使います。鍋は使いません。粉と、蜂蜜と、砕いた胡桃を混ぜて、天板に直接広げて焼きます。天板は新しいものを、鍛冶屋で分けていただきました。


 火が強すぎるとレイフ様がおっしゃった意味は、一度目で分かりました。


 二十を数えるより早く、縁が黒くなりました。


 二度目は奥へ入れました。今度は中央が生のままです。三度目は天板を途中で回しましたが、回した拍子に生地が寄って、片側だけ厚くなりました。


 四度目に、焼けました。


 厚さが指の半分。縁がわずかに反って、胡桃のところだけ色が濃うございます。割ると、湯気が出ました。


 窯の前で、わたくしは少し、手が止まりました。


 三年間、わたくしが焼いたものは、毎晩下げられて戻ってまいりました。減っているか、いないか。それだけを見て、帳面に書いておりました。


 焼けたものを、これから食べる人のことを考えて見るのは、久しぶりでございました。


 夕方、カレンさんとヨナさんが店にいらっしゃいました。


 小皿を出しました。


 ヨナさんが見ます。


 カレンさんが息を止められました。


 ヨナさんはわたくしを見上げて、それからお母様を見上げて、小さいほうの欠片を指でつまみました。


 口に入れて、噛みました。


 噛んで、飲み込みました。


 それから、もう一つ手を伸ばしました。


 カレンさんが口を押さえて、そのまま動かなくなられました。


 わたくしは帳面を開いて、書きました。


 ——ヨナ/五歳。卵は可。錆の浮いた鉄鍋を不可。天板焼きなら可。


 書き終えてから顔を上げると、カレンさんが深く頭を下げていらっしゃいました。


 わたくしにではありません。


 戸口のほうです。


 いつからいらしたのか、レイフ様が枠にもたれて立っていらっしゃいました。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


「……いや」


「息子が、こんなに食べたのは久しぶりで」


 レイフ様は、わたくしのほうをちらりとご覧になりました。


 わたくしは何も申し上げませんでした。


 カレンさんは、この店の主が男の方だと思っていらっしゃる。無理もございません。窯は三日月亭のものですし、看板には菓子とも店とも書いておりません。


 訂正するほどのことではございませんでした。


 親子がお帰りになったあと、レイフ様が土間に一歩入ってこられました。


「あんた、なんで言わない」


「何をでしょう」


「焼いたのは自分だと」


 わたくしは天板を拭いておりました。


「焼いたのはわたくしですが、召し上がったのはヨナさんです」


 レイフ様は、しばらく黙っていらっしゃいました。


 それから、右手を前掛けの下からお出しになりました。


 指が二本、内側へ曲がったまま伸びません。手の甲を、古い傷が横切っております。


 わたくしは、見ました。それだけです。


「使用料は、明日から三割引いてやる」


「まあ。……よろしいのですか」


「よかない」


 レイフ様は右手を戻して、出ていかれました。


 その夜、看板の余白に、初めて字が書き込まれておりました。


 下手な字で、こうございました。


 ——なべ

【今日の帳面】


ヨナ/五歳。卵は可。錆の浮いた鉄鍋を不可。天板焼きなら可。

母カレン/落ち度なし。安い鍋を選ぶ理由のほうを書くこと。


 「嫌い」と「食べられない」は違います。そして「食べられない」の理由は、たいてい食べもののほうにはございません。


 次回、話は一度この町を離れます。馬車で三日の屋敷で、下げられる皿がまた一枚増えます。

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