第2話:食べられないものを、お書きください
街道沿いの宿場町を、ハウゼルと申します。
王都から馬車で三日。荷を運ぶ人と、荷に付いてくる人が通り過ぎるだけの町でございます。宿が二軒、粉挽き屋が一軒、鍛冶屋が一軒。あとは麦の畑が、両側にずっと続いております。
わたくしが借りたのは、街道に面した空き店舗でした。前は蝋燭屋だったそうで、床に蝋の染みが残っております。家賃が安かった理由は、三日目に分かりました。竈が壊れていたからでございます。
「そりゃ火が入らねえよ」
声のほうを見ると、男の方が戸口に立っていらっしゃいました。年の頃は三十ほど。前掛けをして、左手に木箱を提げていらっしゃいます。
「煙道が落ちてる。上から見りゃすぐ分かる。直すのに半月と、たぶんあんたの持ち金の全部だ」
「……そうですか」
わたくしは竈の口を覗き込みました。奥のほうで、確かに何かが崩れております。
「ちなみに、持ち金の全部というのはどれくらいでしょう」
「知るか」
「では、当たっていらっしゃるかもしれません」
男の方は、少し黙られました。
「窯は隣を借りな」
顎で、道を挟んだ向かいをお示しになりました。二階建ての宿屋です。看板に三日月が彫ってございます。
「三日月亭。俺のところだ。朝の四時から六時までは空いてる。その代わり、うちのは火が強すぎるから、焼き加減は自分で覚えてくれ」
「……よろしいのですか」
「よかない。使用料は取る」
男の方は木箱を上がり框に置いて、出ていこうとなさいました。
わたくしはそのとき、木箱の持ち方に気づきました。
左手だけで提げていらっしゃいます。右手は前掛けの下に入れたまま、一度もお出しになりません。箱を置くときも、左の膝を使って支えていらっしゃいました。
わたくしは何も申し上げませんでした。
訊かれなかったことを訊かないというのは、三年で覚えたことの一つでございます。
「レイフだ」と、その方は背中でおっしゃいました。「コルネのレイフ。屋号じゃなく、名前で呼ばれる」
看板は、その日の午後に書きました。
板は蝋燭屋が置いていったものです。表面を小刀で削って、炭を油で溶いて字を入れます。字は大きくしました。馬車の上からでも読める大きさにしたかったのです。
書いたのは一行だけでございます。
——食べられないものを、お書きください。
板の下半分は、余白にいたしました。誰かが書き込めるように、炭の欠片を紐で吊るしておきます。
通りに立てかけて、少し離れて眺めました。
地味です。
わたくしにも分かります。向かいの三日月亭には三日月が彫ってあって、鍛冶屋には金床の絵が描いてございます。うちには字しかございません。しかもその字は、菓子とも店とも言っておりません。
それでも、書き直しませんでした。
三年間あの帳面に書き続けたものが、結局これだったからです。
夕方、粉挽き屋へ参りました。
粉を一袋。値を伺うと、店番の女の子が奥へ怒鳴りました。十四かそこらでしょうか。返事の代わりに、奥から皿の割れる音がいたしました。
「うちの父です。気にしないでください」
「はい」
「あの、お客さん」
女の子は台に肘をついて、わたくしを上から下まで見ました。
「あの看板、書いたの、お客さんですか」
「はい」
「……ふうん」
それだけおっしゃって、粉を寄越されました。
最初のお客様がいらしたのは、三日目の昼でございました。
女の方と、五つか六つほどの男の子です。旅装ではありませんから、町の方でしょう。女の方は看板の前でしばらく立ち止まって、それからおそるおそる戸をお開けになりました。
「あの……ここ、お菓子屋さんですか」
「はい」
「その、看板の」
女の方は言いよどまれました。男の子は母親の後ろに隠れて、こちらを見ております。頬がこけていらっしゃる。
「この子、何も食べられないんです」
わたくしは帳面を開きました。
「では、伺わせてください。何を召し上がって、どうなりましたか」
「……卵です。卵を食べると、吐いてしまって」
わたくしは書き取りました。卵。嘔吐。
「いつからでしょう」
「去年の秋くらいから。それまでは平気だったんですけど」
わたくしは炭を止めました。
「去年の秋から、でございますか」
「はい」
卵そのものであれば、去年の秋から急に、ということは起こりにくうございます。屋敷で三年、そういう頁を書いてまいりました。急に変わったものがあるのなら、変わったのは食べるものではなく、その周りのはずです。
伺いたいことがいくつかございました。何で割るか。どの鍋をお使いか。台所の火は薪か炭か。ほかのご家族はどうか。
けれど、わたくしが次の問いを口に出すより早く、女の方が首を横に振られました。
「……やっぱり、いいです」
「あの」
「すみません。ほかのお店でも、同じことを聞かれたので」
女の方は男の子の手を引いて、戸口へ向かわれました。
「聞かれて、それで終わりでした。どこでも。もう、慣れましたから」
戸が閉まりました。
わたくしは帳面を開いたまま、しばらく立っておりました。
書きかけの頁には、卵、嘔吐、去年の秋、とだけございます。お名前も伺えませんでした。
棚の粉が三袋。砂糖が半分。蜂蜜は一壺。バターは明日には使い切ります。
それから、財布を出しました。
銀貨が七枚と、銅貨が十九枚。家賃はひと月ぶん前払いいたしましたので、来月の分をあと二十日で作らなければなりません。粉が一袋で銅貨四枚。窯の使用料が一日に二枚。砂糖はもっと高うございます。
二十日。
紙の端に書いて、線を引きました。売らずに二十日を過ごせば、この店はなくなります。
数えているうちに、日が傾きました。
三年間、わたくしはこうやって戸棚の中身を数えておりました。数えても、誰も見ませんでした。数えなくても、誰も困りませんでした。
いまは違います。数えた数だけ、日が減ってまいります。
悪い気分ではございませんでした。
問うことと、答えを持って戻ることは違います。あの方が慣れてしまわれたのは、問われることのほうでした。
明日、もう一度あのお宅へ伺おうと思いました。売りにではございません。
向かいの三日月亭に、灯りが入りました。
その日、看板の余白には、何も書かれておりませんでした。
【今日の帳面】
(名前を伺えず)男児・五、六歳/卵で嘔吐。去年の秋から。
——「卵が駄目」と書いて閉じるには、まだ早うございます。
問診だけして帰す店は、この町にもう何軒もあったようです。
次回、わたくしはあのお宅へ伺います。お菓子を売りにではなく、台所を見せていただきに。




