第1話:離縁状と、戸棚の蜂蜜
旦那様は三年間、わたくしの用意した食事を「口に合わない」とおっしゃいました。
ですので本日、離縁いたします。持ち出すものは、帳面が一冊だけです。
離縁状が読み上げられている間、わたくしは戸棚の蜂蜜のことを考えておりました。
三つある壺のうち、右の一つは開けてから十九日になります。あと二週間で香りが飛びます。厨房の誰かが気づくでしょうか。気づかないでしょう。あの厨房で蜂蜜の開封日を書いていたのは、わたくしだけでしたから。
家令のヴェルナーが、書面を目の高さに掲げて読んでおります。声が少し震えていらっしゃるのは、この方が悪いのではございません。八年お仕えして、こういうものを読む役目は初めてなのでしょう。
「——妻たる者の務めを果たさず、当家の食卓を三年にわたり損なわしめたる件につき」
損なわしめたる、というところで一度つかえて、読み直されました。
「——以上の理由により、ロゼリア・ヴァレンティとの婚姻を解消するものとする」
読み上げが終わりました。
理由は一つでした。食事が口に合わない。
三年間、旦那様は毎晩そうおっしゃいました。三年で、およそ千回になります。もっとも、そのうち百回ほどは「まずい」とだけで、言い回しは違いました。帳面には両方書いてございます。
「何か言うことは」
「ございません」
わたくしは頭を下げました。それから、少しだけ迷って、顔を上げました。
「……あの。戸棚の右から一つ目の蜂蜜が、あと二週間で悪くなります」
広間の空気が、わずかに動きました。
「今なにを言った」
「蜂蜜でございます」
「離縁の場だぞ」
「はい」
わたくしはもう一度頭を下げました。旦那様がおっしゃることは正しゅうございます。ただ、いま申し上げなければ、二度と申し上げる機会がないというだけのことでした。
広間の長椅子には、旦那様が——オズワルド様が脚を組んで座っていらっしゃいます。こちらはご覧になりません。手元の書面の端を、指でめくっては戻していらっしゃる。三年前に初めてお会いしたときと、同じ仕草でした。あのときも、わたくしの顔ではなく婚姻契約の端をご覧になっておりました。
「三年だ」と、旦那様がおっしゃいました。「三年間、私は我慢したのだぞ」
はい、と申し上げました。それ以上は申し上げません。
旦那様は一度も、なぜ口に合わないのかとはお尋ねになりませんでした。わたくしも、伺いませんでした。伺えば、それは言い訳になりますから。だからわたくしは、伺う代わりに書いておりました。
昨夜の夕食は、羊の腿肉と、根菜の煮込みと、林檎の焼き菓子でございました。
下げられた皿のうち、腿肉はほとんど手つかずでした。煮込みも三口ほど。
焼き菓子の皿だけが、空でございました。
一昨日もそうです。その前も。ひと月ほど前から、旦那様が召し上がる量は目に見えて減っていらっしゃいましたが、菓子の皿だけはいつも空になって戻ってまいりました。
わたくしはそれを、甘いものはお好きなのだと思っておりました。
「ロゼリアさん」
お義母様が——マルグリット様が、初めてわたくしの名をお呼びになりました。三年で二度目でございます。
「あなた、最後に一つだけ教えてくださいな。三年間、いったい何をしていたの」
「食事の支度を」
「ええ。それで、何を身につけたのかしら」
お義母様は笑っていらっしゃいました。悪意ではございません。この方は本当に不思議でいらっしゃるのだと思います。三年いて、何も残さなかった嫁が。
「刺繍でも覚えていれば、次の嫁ぎ先で役に立ちましたでしょうに」
「はい」
「では、これで」
お義母様が立ち上がり、卓の端へ手を伸ばされました。
そこには、わたくしの帳面が置いてあります。油で黒くなった表紙の、厚い一冊です。
お義母様は、それを暖炉のほうへ持っていこうとなさいました。
わたくしは、口を開きました。
「その帳面は、置いていけません」
声が、思ったより低く出ました。
お義母様が振り返られます。ヴェルナーが書面から目を上げます。旦那様が、初めてこちらをご覧になりました。
「使用人の手控えでしょう」
「はい」
「では、当家のものです」
「その頁を書いたのは、わたくしでございます」
お義母様は、しばらくわたくしを見ていらっしゃいました。それから、汚れたものを返すような手つきで、帳面を卓に戻されました。
「お好きになさい。どうせ、なんの値打ちもないのだから」
「ありがとうございます」
わたくしは頷いて、それを受け取りました。
開くと、名前が並んでいます。
厨房のマルタ。乳が駄目。朝の粥は水で炊く。
庭師のハルト。夏の終わりに喉が腫れる。八月は木の実を出さない。
三年前の秋にお越しになったリンドラー伯。貝を召し上がらない。ご本人は「嫌いなだけだ」とおっしゃいましたが、召し上がった翌朝は必ず寝込まれました。
その次の頁から、しばらく同じ名前が続きます。
ヴァレンティ伯爵オズワルド様。
旦那様の頁だけは、書き込みが多うございます。何を残されたか。どれくらい残されたか。その日、外がどんな空だったか。三年ぶんです。
誰にもお見せしたことはございません。お見せしたところで、使用人の手控えだと言われるだけでしたから。
一枚目には、わたくしの字ではないものが書いてあります。
二枚目から先が、わたくしの三年です。
荷馬車に積んだものは、着替えが二枚と、母から譲られた計り。それから帳面。
御者の方が荷台を覗いて、怪訝な顔をなさいました。
「奥様、お荷物はこれだけですか」
「奥様ではございません」
わたくしは荷台に上がりました。
「アルディです。ロゼリア・アルディ」
旧姓を口に出すのは三年ぶりでした。思っていたより、馴染みました。
「これから、どちらへ」
わたくしは少し考えました。行く当てはございません。実家に戻る道もございましたが、あの家にはもう、わたくしの席はございません。
ただ、決めていることが一つだけありました。
「街道のほうへ。……あの、途中に、竈を貸していただけるところはございますか」
「竈、ですか」
「はい」
わたくしは膝の上の帳面を、両手で押さえました。
「これで、店をやります」
御者の方は何かおっしゃりかけて、やめました。それから、手綱を鳴らされました。
馬が歩き出しました。
門を出るとき、厨房の窓が見えました。戸棚の右から一つ目の蜂蜜は、あと二週間です。
誰も、書いていないでしょう。
【今日の帳面】
厨房・マルタ/乳を除く。朝の粥は水で炊く。
庭師・ハルト/八月は木の実を出さない。
三年ぶん、こういう頁が続きます。誰も読まなかった頁です。
次回、ロゼリアは街道沿いに看板を出します。書いてあるのは、たった一行だけです。




