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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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第33話:六回、焼き終えておりました

 針と糸の行商の方が、戸口から荷を先に入れてこられました。


 アダンさんでございます。荷が大きい方ですので、いつも荷から入っていらっしゃいます。


「久しぶりだね」


「お久しゅうございます」


「祈りの月は、春まで来ない」


「毎年、春でございますか」


「毎年だよ。二十二年やってる」


 アダンさんは、祈りの月のあいだ獣の脂を一切召し上がりません。乳も、その脂で焼いたものも駄目でございます。この夏の祈りの月に、「五日おきに六回焼いてほしい」とおっしゃいました。


 わたくしは帳面を出しました。


 その方の頁には、五日おきの日付が六つ並んでおります。四十六、五十一、五十六、六十一、六十六、七十一。三つ目までは、わたくしの字でございます。


 四つ目から先は、わたくしの字ではございません。


「……タニアさん」


「はい」


「四つ目から、どなたがお書きになりましたか」


「わたしです」


 タニアさんは、粉の袋を抱えたまま振り返られました。


「だって姉さん、あのとき組合のことでばたばたしてたじゃないですか。日にちだけ抜けたら、この人が来たとき困るでしょう」


「困ります」


「だから書きました。ちゃんと焼きました。六回目のとき、この人に言いましたよ。これで終わりですって」


「言われたね」


 アダンさんが頷かれました。


「娘っ子が真面目な顔で来て、『六回目です。これで終わりです』って言うんだ。おれは数えてなかったから、そうかと思って帰った」


 わたくしは、六つ目の日付をもう一度見ました。


 七十一。あの日は、品評会の二日後でございます。わたくしは板の字を数えて、そのあと窯の火を落とした覚えしかございません。


「タニアさん」


「怒らないでくださいよ」


「怒っておりません」


「じゃあ何ですか」


「……存じません」


 タニアさんは粉の袋を下ろして、こちらをまっすぐご覧になりました。


「腹立つな。そこは礼を言うところでしょう」


「ありがとうございます」


「間が空きすぎです」


 ギードさんが窯のほうで小さく笑われました。この方が笑われるのは、珍しうございます。


「ギードさん。何がおかしいんですか」


「いえ。奥様が、日付を人に取られたのは初めてでございますので」


「取ってません。埋めたんです」


「埋めた、と申しますな」


 タニアさんは、粉の袋をもう一度抱え直されました。


 三日月亭のミナさんが、空の桶を返しにいらっしゃいました。この方は、朝の水の順番で具合が変わります。夏に一度書いてから、変わっておりません。


「アルディさん。昨日の泊まりの方が、朝の膳のことで」


「どちらの方でございますか」


「北の訛りの、背の高い。麦の粥は召し上がるのに、乳を入れると下を向かれます」


「では、粥を先にお出しして、乳は別の器で」


「別の器」


「はい。混ぜずに置いておきますと、ご自分で足される方と、足されない方に分かれます。足されない方は、そこで初めてお気づきになります」


 ミナさんは、桶を置いて頷かれました。


「わたし、それをレイフさんに言ってきます」


「お願いいたします」


 ミナさんが出ていかれたあと、タニアさんが炭を握られました。


「姉さん。あの人の頁、作りますか」


「まだ、いらしておりません」


「来たら困るでしょう」


 わたくしは、天板を持ったまま少し黙りました。


「……お作りください」


 わたくしは、四つ目から六つ目の日付を指でなぞりました。


 タニアさんの字は右に流れます。書き出しは大きく、終わりが小そうなります。一行の終わりに近づくほど、紙の端を気にしておられるのが分かります。わたくしの字は、初めから終わりまで同じ大きさでございます。屋敷でそう習いました。


 どちらが良いということはございません。読めれば、帳面は帳面でございます。


 ただ、四つ目の日付のところだけ、字が二度書き直してございます。一度書いて、消して、また書いた跡でございます。四十六。五十一。五十六。三つ目までを見て、次を数えたのでございましょう。


 アダンさんは、椅子に腰を下ろして荷の紐をほどかれました。


「春の六回、また頼めるかい」


「承知いたしました」


「次は少し変えてくれ。夏より歯が悪い」


「どちらの歯でございますか」


「右の奥。硬いのが駄目になった」


 わたくしは頁を繰って、書き足しました。


 ——アダン/針と糸/祈りの月は獣の脂すべて不可。この秋より右奥の歯が不可。硬いものを避ける。


「これで六回ぶんが決まります。日にちは、そちらの月の出に合わせます」


「合わせられるのかい」


「この夏の六回を、タニアさんが書いておられますので。ずらす日数が出ております」


 アダンさんは、しばらく黙って帳面をご覧になっておりました。


「あんた、この夏におれが言ったこと覚えてるかい」


「『祈りの月のあいだ、五日おきに六回』でございます」


「その前だ」


「……申し訳ございません」


「『どこへ行っても、月のあいだは水を飲んで寝てた』って言った」


 アダンさんは荷の紐を結び直されました。


「二十二年だ。焼いてもらったのは、この夏が初めてだった」


 外で、荷馬が足を踏み替える音がいたしました。


「王都で同業に会った」


「はい」


「針の組合に、月のあいだ何も食えん奴が三人いる。おれと同じだ」


「三人でございますか」


「その連中に、ここの話をした。街道の宿場に、書く店があるとね」


「……ありがとうございます」


「礼はいい。ただ、一つ聞かれた」


 アダンさんは立ち上がって、帽子をかぶられました。


「『王都には来ないのか』と」


 わたくしは、天板を持ったまま立っておりました。


「なんと、お答えになりましたか」


「知らんと言った。おれは知らんからね」


 その日は、天板を四度出しました。窯の火は七時に落としました。ギードさんが灰をならしております。タニアさんは板を仕舞いました。看板の裏は三十二人になりました。増えたのは一人でございます。


 アダンさんは荷を担いで、戸口で一度お止まりになりました。


「春だ。一回目は、月の出た次の朝でいい」


 その方が出ていかれたあと、タニアさんが柱の線を一本足しておられました。十日ぶんの横棒でございます。


 夜が来るのが早くなりました。戸を閉めるのが半刻早くなります。灯りの油は月に一度買います。今月はまだ買っておりません。粉は明日届きます。胡桃はまだ袋のままでございます。


 わたくしは椅子に座って、頁を数えました。二百四十三でございます。昨日より二つ増えました。増えたぶんは、二つともタニアさんの字でございます。


「姉さん」


「はい」


「王都って、遠いんですか」


「馬車で三日でございます」


「歩いたら」


「存じません」


「じゃあ、数えられませんね」


 タニアさんは炭を置いて、柱の線のほうをご覧になりました。

【今日の帳面】


アダン/針と糸/祈りの月は獣の脂すべて不可。この秋より右奥の歯が不可、硬いものを避ける。

(この夏のぶん・四回目から六回目はタニアさんの字)四十六、五十一、五十六、六十一、六十六、七十一。


 わたくしが数えていなかった三回を、数えていた方がおられました。


 次回、半年ぶりに妹が街道を上ってまいります。手ぶらではございません。

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