第34話:母様の名を出すと、黙ってしまわれます
その日の最初のお客様は、毛織の行商のハンナさんでした。
三十二とおっしゃいました。荷を戸口に立てかけて、掌に息を吐きながら入っていらっしゃいました。
「温かいものはありますか」
「ございます」
「冷えたものは駄目なんです。歯に来ます」
「どのあたりでございますか」
「右の上。去年、欠けたままにしております」
わたくしは帳面を出して、頁を作りました。
冷たいものが歯に障る方は、この季節に増えます。焼いてすぐのものを出せばよいというわけではございません。熱すぎるものも、同じ歯に来ます。
「一度お出しして、少しお待ちいただきます」
「待つんですか」
「はい。四半刻ほど」
「そのあいだ、何をしていれば」
「板に、お書きになってください」
ハンナさんは看板をご覧になって、しばらく黙っておられました。それから、裏に「つめたいのだめ」とお書きになりました。字が大きうございます。
四半刻して、わたくしは同じものをお出ししました。ハンナさんは端を少しだけ噛まれました。
「……来ません」
「はい」
「来ないんですね」
ハンナさんは、そのまま全部召し上がりました。それから荷を担いで、峠のほうへ上っていかれました。
朝のうちに、あと九人いらっしゃいました。
冬の街道は客の顔ぶれが変わります。夏は歩きの方が多うございました。いまは荷馬車の方が多うございます。歩きの方は峠を避けます。荷の方は避けられません。
窯は七時に落とします。落としたあとの余熱で、乾きものを二枚焼きます。これはギードさんが始めたやり方でございます。薪が一束で済みます。
昼前でございました。街道の下から、二頭立ての馬車が上ってまいりました。
アルディの紋でございます。
降りてこられたのは妹でございました。半年ぶりでございます。
「姉様」
「いらっしゃいませ」
「客ではございません」
「では、お掛けください」
リディアは、店の中を見回してから椅子に腰を下ろしました。この子は座るときに背筋を伸ばします。母がそう躾けたのだと、以前は思っておりました。
「あの娘は」
「タニアさんでございます」
「粉挽き屋の」
「はい」
タニアさんは奥で粉をふるっておられます。半年前、この子の前で歪んだ字の写しを差し出した方でございます。振り向きもなさいません。
「あの、」
リディアが口を開きました。
「あのときは、失礼をいたしました」
「聞こえてます」
タニアさんは、ふるいを止めずにおっしゃいました。
「読めなくて悪かったですね」
「読めました」
リディアはそこで、少し黙りました。
「読めました。全部」
タニアさんはふるいを置いて、腕を組んで一歩下がられました。それきり何もおっしゃいません。
わたくしは、二人に一つずつお出しいたしました。
「姉様。お聞きしたいことがございます」
「はい」
「あの帳面の、一枚目のことですわ」
わたくしは手を止めました。
半年前、この子は帳面を掴み上げて「アルディ家の財産です」と申しました。あのとき一枚目を見ております。母の字だと、この子も知っております。
「あの一枚だけ、紙が違います」
「はい」
「端が切り揃えられておりません。別の綴りから破ったものですわ」
「そう思っております」
「では、残りはどこにあるのでしょう」
わたくしは答えられませんでした。三年、同じことを考えて、答えを持っておりません。
「家には、ございませんか」
「ございません。母様の物は、屋根裏の箱に三つだけです。わたくし、去年ぜんぶ開けました」
「三つ」
「衣装と、裁縫箱と、書き付けの束です。書き付けは、麦の値と、薬種屋の勘定でした」
リディアは、皿の端を指で押さえました。
「姉様は、母様の作られたものを覚えておいでですか」
「覚えております」
「わたくしは、一つだけです」
「何でございますか」
「白くないものです」
わたくしは顔を上げました。
「母様は、白いものをお作りになりませんでした。粉のものも、いつも色を足しておいででした。焦がした砂糖か、胡桃の皮か。わたくし、四つでしたので、母様は白が嫌いなのだと思っておりました」
「……そうでございましたか」
「姉様は、ちがうとお思いですか」
わたくしは、答えを持っておりませんでした。
「姉様。わたくし、一度だけお父様にお尋ねしたことがございます」
「何をでございますか」
「母様は、嫁がれる前は何をしておいででしたか、と」
外で、荷馬車が二台通りました。
「お父様は、麦の話をお始めになりました」
「麦の」
「その年の作柄と、東の畑を貸すか貸さないかの話ですわ。四半刻ほど。そのあいだ、母様の名は一度も出ませんでした」
「……お答えにならなかったのですね」
「いいえ」
リディアは首を振りました。
「お答えにならなかったのではありません。話を、逸らされたのです」
わたくしは、そのちがいをすぐには受け取れませんでした。
「姉様。お父様は、忘れておいでではありません。わたくし、あの日そう思いました」
「なぜ、そうお思いになりましたか」
「麦の話が、うますぎましたので」
リディアは、皿のものを半分だけ召し上がりました。この子は味のことを何も申しません。半年前までは、必ず何かおっしゃっておりました。うまいとも、まずいとも。いまは何も申しません。皿を見て、指で端を押さえるだけでございます。
「姉様。わたくし、探してみます」
「何をでございますか」
「母様の物を、もう一度全部開けます。三つでは足りないかもしれません」
「ご迷惑では」
「家にはまだ、母様の物が残っておりますので」
妹が皿の端を押さえるとき、指は三本でございます。人差し指と、中指と、薬指でございます。母がそうしておりました。
わたくしは、それを申し上げませんでした。申し上げますと、この子は指を離します。離してから、二度と同じ置き方をしなくなります。そういう子でございます。
母のことを覚えていないと申しますけれど、覚えていないのは言葉のほうでございましょう。手のほうは、覚えているものが多うございます。わたくしの手も、たぶん何かを覚えております。何をかは、自分では分かりません。
馬が街道の砂を踏みました。御者の方が、そろそろと声をかけられました。
リディアは立ち上がって、手袋をはめました。
「わたくし、姉様のようには書けません」
「はい」
「でも、開けることはできます」
【今日の帳面】
ハンナ/毛織の行商/三十二/冷たいものが右上の歯に障る。熱すぎるものも同じ。
焼いて四半刻置いてから出す。待つあいだは、板に書いていただく。
答えないことと、話を逸らすことは、別のことでございます。逸らす方は、答えをお持ちです。
次回、妹が屋根裏の箱を開けます。裁縫箱の底に、紙が一枚入っておりました。




