第32話:港からの帰りが、遅くなりました
朝の風が変わりました。
三日月亭の窯は四時に火を入れます。ギードさんは、三時半には来ておられます。わたくしが着くころには、炭の色はもう落ち着いております。この方は「奥様」という呼び方をお直しになりません。何度お願いしても直りませんので、いまはそのままにしております。
「奥様。今日は天板を三枚にいたしましょう」
「三枚でございますか」
「峠が近うございます。今日と明日で、上る方が増えます」
ギードさんの見立ては、外れたことがございません。屋敷で三十年、鍋を持って二十年の方でございます。
その方は、戸口で帽子を取ってから入っていらっしゃいました。
「遅くなった」
ローデさんでございました。
初めていらしたのは夏の前でございます。あのとき「十日で港まで行って、帰りにまたここを通る」とおっしゃいました。十日が過ぎて、二十日が過ぎて、木が色を変えて、それから葉が落ちました。
「百八十日でございます」
「数えとったのか」
「頁が残っておりますので」
わたくしは帳面の、その方の頁を出しました。夏の前に、わたくしが書いたものでございます。
——ローデ/行商/甘みが分からない。薬をやめてからも戻らず。甘みを足さずに組む。
「それだ」
「まだ、そのままでいらっしゃいますか」
「そのままだ。薬は春でやめた。医者はそのうち戻ると言った。戻らん」
ローデさんは椅子に腰を下ろされました。荷は、外に置いたままでございます。
「港で足止めを食った。三度だ」
「船でございますか」
「一度目は風。二度目は税の書付。三度目は、おれが引き受けた荷が来んかった」
「それで、半年」
「南まで行った。行ったら帰りの荷がついた。荷がついたら断れん」
ローデさんは、そこで一度言葉をお切りになりました。
「南の飯は、甘い」
「はい」
「甘い。みんながそう言う。おれには塩の味しかせん。だから、うまいともまずいとも言えん」
「何も、おっしゃらなかったのですか」
「言うと面倒だ。ここまで来て、初めて言った」
わたくしはギードさんに、火を落とさないようにお願いして、天板を一枚出しました。
この方には、甘みを足しても届きません。届くのは塩みと、脂の重さと、酸のとがったところでございます。半年前は、胡桃と塩で組みました。今日は、少しだけ変えました。
胡桃を粗く割って、外側だけを乾かして、皮に混ぜます。中に酸の強い干した果実を一粒だけ入れます。上から、塩を振ります。砂糖は、粉に色をつけるぶんだけでございます。
「酸が入っております。ひと粒だけ」
「なぜ入れた」
「塩ばかりですと、途中で分からなくなりますので。途中で一度、別のものが要ります」
ローデさんは割って、まず匂いを嗅がれました。それから半分だけ召し上がりました。
しばらく、噛んでおられました。
「……真ん中で、変わったな」
「はい」
「変わるのが分かった」
「はい」
ローデさんは、残りを召し上がりました。手が止まりませんでした。
それから、店の中をぐるりとご覧になりました。
「増えたな」
「何がでございますか」
「板だ。裏まで書いてある」
看板は、表が埋まりましたので、裏にもお書きいただくようにいたしました。表は五十四人、裏は三十一人でございます。ローデさんがお書きになったのは、表の右から二十二番目でございます。
「おれの字は、まだあるか」
「ございます」
「消してもいいぞ。もう半年だ」
「消しますと、二十二番目から先が全部ずれます」
ローデさんは、しばらく板をご覧になっておりました。それから、何もおっしゃらずに椅子へ戻られました。
その日はあと十一人いらっしゃいました。峠の下から上がっていらした方が、多うございます。雪が来る前に王都まで抜けようとなさる方が、この時期は増えるのだそうでございます。
昼過ぎに、荷馬の口を引いた方が戸口で足を止められました。
「ここか。書く店は」
「はい」
「おれは書けん。字が」
「では、伺って、わたくしが書きます」
「……人に言うことか。これは」
その方は、峠を越える日だけ何も食べられないとおっしゃいました。前の晩から、胃が上がってくる。峠の上で吐くと馬が驚く。だから、朝から何も口に入れずに越える。それを、十二年続けておられるそうでございます。
「峠は、越えられてからは」
「越えたら食える。麓に降りたら腹が減って仕方ない」
「では、越えたあとのぶんをお持ちください」
「持てるのか」
「乾かして焼きますと、三日は保ちます。塩を利かせておきますので、水を先にお飲みになってください」
その方は銅貨を台に置いて、しばらく手を離されませんでした。
「越える前じゃなくて、越えたあとか」
「はい」
「……そりゃそうだ」
タニアさんが、横で炭を握って書いておられました。
その日いらしたなかの何人かに、わたくしのほうからお尋ねいたしました。
「王都には、よく参られますか」
「年に二度だ」
「あの、失礼を申します。王都のお屋敷のことをご存じの方は、街道にどれくらい通られますでしょうか」
「屋敷の話か。荷を入れる者は知っとる。おれは市までだ」
どなたも、そこまででございました。市までは通われます。門から先には入られません。
夕方までに、この日の頁が十四になりました。
うち六つは、初めていらした方でございます。初めての方の頁は、たいてい三行で終わります。名前と、召し上がれないものと、その日にお出ししたもの。三行でございます。
三行で終わった頁は、二度目にいらしたときに四行目が入ります。四行目からが、その方の頁でございます。三行は、どなたでも同じ形をしております。四行目から、形が変わってまいります。
半年前の頁の四行目に、わたくしはこう書いておりました。
——十日で港へ。帰りにまた通る。
その一行は、今日まで空手形でございました。
夕方、ローデさんが荷を解きにお出になって、袋を一つ提げて戻っていらっしゃいました。
胡桃でございます。
「秋のうちに王都で買った。袋で七だ」
「七でございますか」
「ここは十一だろう」
「十一でございます」
ローデさんは袋を台に置いて、指で二度叩かれました。
「十で置いていく」
わたくしは袋の口を開けて、中を見ました。実の色が揃っております。割れたものが混ざっておりません。
「一つ伺ってもよろしいですか」
「言え」
「なぜ、十でございますか」
ローデさんは帽子をかぶり直されました。
「七で売ったら、あんたは次も七で買えると思う。十一で売ったら、おれはここに寄る理由がなくなる」
戸の外は、もう暗うなっておりました。
「十なら、おれは毎年ここを通る」
【今日の帳面】
ローデ/行商/甘みが分からない。薬をやめても戻らず。
胡桃を粗く割り、酸の強い干した果実をひと粒。上に塩。——途中で一度、別のものを入れる。
半年ぶりの頁は、書き足すところから始まります。消して書き直すのではございません。
次回、祈りの月に「五日おきに六回」とおっしゃった方が、六回目のことを教えてくださいます。




