第31話:月に一度が、五度になりました
第二部でございます。ここから第五章「秋のあとさき」。第一部の終わりから、半年ちかくが経っております。
店は続いております。母の字は、まだ誰のものか分かりません。
開店から、二百三十日になりました。
数えているのはわたくしではございません。タニアさんでございます。店の柱に炭で線を引いて、十日ごとに横棒を一本足しておられます。昨日で二十三本目になりました。その下に「にひゃくさんじゅう」と書き添えてございます。
「姉さん。合ってますか」
「合っております」
「じゃあ、あと百三十五日で一年ですね」
「……それは、少し気の早うございます」
街道の木は、もう葉を落としました。夏のあいだは戸を開け放しておりました。いまは朝のうちだけ開けて、昼からは閉めております。窯の熱が逃げますので。
看板は四枚目のままでございます。炭に油を混ぜて字を入れましてから、雨で流れたことは一度もございません。表は書き込みで埋まりました。いまは裏にも書いていただいております。表は五十四人。裏は三十一人でございます。
帳面の名前は、二百四十一になりました。
窯は変わらず三日月亭のものをお借りしております。朝四時から七時まで。ギードさんが火を見ておられますので、わたくしは天板だけを運びます。宿のパンは二十四のままでございます。冬は泊まりが増えますので、来月からは三十にすると、レイフ様がおっしゃいました。
「粉が要る」
「はい」
「タニアの親父さんに、先に言っとけ。冬は挽くのが遅くなる」
「もう申しております」
レイフ様は左手で天板の端を押さえて、焼き上がりの色をご覧になりました。この方は右手をお使いになりません。夏に一度だけ、片手で一つお焼きになったことがございます。それきりでございます。
その日の最初のお客様は、ドランさんでした。
荷運びのお仕事でございます。左でしか噛めない方ですので、うちのものは薄く焼いて、二つに割ってお出しいたします。十日ぶりでございました。
「北がもう冷えてる」
「峠は」
「まだ抜ける。雪が来たら、おれは麓で止まる。そしたら二十日は来られん」
「では、二十日ぶんを書いておきます」
「書いてどうする」
「戻っていらしたときに、二十日前の続きから始められます」
ドランさんは笑って、銅貨を二枚置いていかれました。
朝のうちに、あと七人いらっしゃいました。そのうち四人は初めての方でございます。
初めての方は、たいてい戸口で足を止められます。看板をご覧になります。書いてあることの意味をお考えになる時間がございます。その時間が長い方ほど、あとで長くお書きになります。
「上の宿で聞いた」
これが一番多い入り方でございます。三日月亭で夕餉のときにお聞きになって、翌朝いらっしゃる。レイフ様が何かをおっしゃっているわけではございません。宿の膳から抜いてあるものを見て、泊まりの方が女中のミナさんにお尋ねになるのだそうでございます。
タニアさんは、いまは書き取りをなさいます。
お客様が話しておられるあいだ、横で炭を握っておられます。聞こえたとおりに書いていかれます。綴りは間違います。それでも、名前と、召し上がれないものと、その日お出ししたものは落とされません。
「姉さん。これ、なんて読むんですか」
「『しもやけ』でございます」
「わたしが書いたのに」
「タニアさんがお書きになったのは『しもけや』でございました」
「……直します」
戸の外を、荷馬車が三台続けて通りました。
冬の初めの、乾いた砂の音でございます。夏のあいだは、この音がもっと重うございました。土が湿っておりますと、蹄の音は低く沈みます。乾きますと、高くなって、遠くまで届きます。
この店にいて分かるようになったことの多くは、そういうことでございます。誰が何を召し上がれないかということと、砂の音の高さと、粉の袋の重さと、窯の口を開けた瞬間の顔の熱さ。三年の屋敷では、どれも要りませんでした。
昼を過ぎて、街道の下のほうから馬車が上ってまいりました。轅に紋が入っております。三年のあいだ、毎日見ていた紋でございます。
セリーヌ様でございました。
月に一度、と最初におっしゃったのは初夏のことでございます。あれから五度目になります。四度目までは、必ず御者と侍女がついておりました。今日はお一人でお降りになりました。
「ごきげんよう」
「いらっしゃいませ」
「三つ、いただきます」
セリーヌ様は獣の脂を召し上がれません。うちの品はもともとバターを使いません。そのままお出しできます。銅貨を三枚、ご自分で数えて台にお並べになりました。この数え方も、五度目になりますと手が速うございます。
包みを受け取って、セリーヌ様は戸口のほうへ二歩お歩きになって、それから止まられました。
「あの……お約束していたことがございます」
「はい」
「あなたの帳面の、一枚目の字のことですわ」
わたくしは天板を置きました。
初夏に、セリーヌ様は一枚目をご覧になって、「この字、どこかで見た気がします」とおっしゃいました。実家の何かで見た気がする、と。家名は、あのときはおっしゃいませんでした。
「家の者に、聞いてまいりました」
「ありがとうございます」
「覚えていない、と申しました」
馬が街道の砂を踏む音がいたしました。
「どなたに、お聞きになりましたか」
「父の代からの家令ですわ。あの家で一番古い者です。母のことでしたら、あれが一番よく知っております」
「そうでございますか」
「それから、伯母にも書きました。同じでした。覚えていない、と」
セリーヌ様は包みを持ち替えられました。
「あなたは、この町でどなたにお尋ねになりましたか」
「まだ、どなたにも」
「町の方はご存じないでしょうけれど、お身内には」
「妹がおります」
「では」
「妹は、母が亡くなったとき四つでございました」
セリーヌ様は頷かれました。それ以上はお尋ねになりません。この方は、聞いてはいけないところで必ずお止まりになります。三年前のわたくしにできなかったことでございます。
「なぜ、お尋ねになりませんの」
「……存じません」
これは本当でございます。半年、聞かずにおりました。聞ける相手を思いつかなかったのではございません。思いついた相手が一人だけおりまして、その一人に聞かずに済む道を探しておりました。
セリーヌ様は、しばらく戸口の光のほうをご覧になっておりました。
「わたくし、人の顔を見るのは得意ですのよ」
「はい」
「三年、屋敷におりましたから。何を出しても、どんな顔をされるかを見ておりました」
「はい」
「覚えていない、と申しました」
セリーヌ様は、そこで一度言葉をお切りになりました。
「あれは、覚えていない顔ではございません」
【今日の帳面】
ドラン/荷運び/左でしか噛めない。薄く焼いて二つに割る。
(追記)雪が来たら二十日来られない。二十日ぶんを先に書いておく。
冬のあいだ、街道の客は減りません。減るのは、来られる回数のほうでございます。
次回、半年前に「帰りにまたここを通る」とおっしゃった方が、ようやく港からお戻りになります。
ブックマークと評価は、この冬の胡桃を買う銅貨になります。二冊目の帳面は、まだ一枚目が空いております。




