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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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30/30

第30話:帳面の、二枚目から

 馬車は、朝の六時過ぎに参りました。


 窯を落としたばかりでございます。ギードさんが天板を運び、タニアさんが看板を出しに出たところで、街道の上のほうから車輪の音がいたしました。轅に紋が入っております。三年のあいだ、毎日見ていた紋でございます。


 降りてこられたのは、家令のヴェルナー様でございました。


「……ロゼリア様」


「アルディでございます」


「失礼を」


 ヴェルナー様は、深く頭を下げられました。八年あの屋敷にお仕えのこの方が頭を下げるところを、わたくしは二度しか見ておりません。一度目は、広間で書面を読み終えたあとでした。


 三日月亭の戸口から、セリーヌ様が出ていらっしゃいました。外套はもうお召しになっておりません。手には、うちで包んだ紙包みを一つ持っていらっしゃいます。


 ヴェルナー様が一歩前へお出になりました。


「奥様。お迎えに上がりました」


「ヴェルナー」


「はい」


「わたくし、脂が食べられません」


 街道を、朝いちばんの荷馬車が上ってまいります。車輪の音が、二人のあいだを通り過ぎました。


「獣の脂です。飲み込むと戻します。小さいころからです。ふた月のあいだ、膝の上の手巾に出しておりました。毎晩です」


「……はい」


「毎晩の膳から、脂を抜いてください。それができるなら、帰ります」


 ヴェルナー様は、しばらく黙っていらっしゃいました。それから、懐から小さな帳面をお出しになりました。表紙が新しうございます。


「ふた月前から、つけております」


「何を」


「旦那様が、何をお残しになったかを」


 ヴェルナー様は、それを胸の高さで開かれました。字が細こうございます。


「奥様の分は、つけておりませんでした。申し訳ございません」


 わたくしは店へ戻って、書いておいた頁を破ってまいりました。


 ——セリーヌ・ヴァレンティ様。獣の脂を除く。汁は骨で取り、浮いた脂は掬う。焼き物は網で。バターは使わない。粉は水で溶く。羊は皮を外す。鴨は出さない。


 ヴェルナー様は、両手でお受け取りになりました。


「読めます」


「はい」


「……三年、これがあれば」


 そこで、言葉をお切りになりました。わたくしは何も申し上げませんでした。


「アルディ様。屋敷から、注文をお願いすることはできますか」


「お書きくださればお受けします」


「どれくらい、お待ちすることになりましょう」


「書かれた順でございます。いまは九つ先までふさがっております」


 ヴェルナー様は頷いて、帳面を懐にお戻しになりました。


 セリーヌ様は、店で三つお買いになりました。銅貨で三枚でございます。ご自分で数えて、台にお並べになりました。


「月に一度、参ってもよろしいですか」


「お客様でいらっしゃいますので」


 馬車が出ました。タニアさんが看板の板を抱えたまま、それを見送っていらっしゃいます。


「あの人、帰るんですね」


「はい」


「帰るのか」


「言ってから帰るのと、言わずに帰るのとは、別のことでございます」


 タニアさんは板を立てて、腕を組んで一歩下がられました。


 その日は、朝から人が入りました。


 三日月亭の泊まり客が、宿の朝餉より先に二人。街道の御者が一人。御者の方は戸口から首だけ入れて、こうおっしゃいました。


「ここが、その、食えねえもんを書く店か」


「はい」


「上の宿で聞いた。俺は魚だ。焼いたのは平気だが、生は駄目だ」


「では、そう書いておきます。お通りになるたびに、書き足してくださって構いません」


 昼までに天板が二度空きました。窯にもう一度火を入れました。店を開けてから四度目でございます。薪は二束。ギードさんが数えて、帳面の隅に書いておられました。


 昼過ぎには、菓子組合の若い職人が二人いらっしゃいました。ボードワン様ご本人はいらっしゃいません。


「親方が、行って見てこいと」


「何をご覧になりますか」


「……帳面を、と」


 わたくしは二枚目から先を開いてお見せしました。お二人は、頁の端を持って、しばらく黙って読んでいらっしゃいました。


 うちの看板は、いま四枚目でございます。一枚目と二枚目は店の中に立てかけてございます。三枚目は雨で流れましたので、四枚目からは油を混ぜて字を入れております。


 帳面の名前は、百六十二になりました。


 午後、タニアさんが自分の字で頁を足していらっしゃいました。字は歪んでおります。綴りも間違っております。それでも、日付と、名前と、召し上がれないものと、その日にお出ししたものが、全部入っております。


「姉さん。これ、合ってますか」


「合っております」


「うそ」


「一つだけ。ヤンさんの薬は膝です。腰ではございません」


 タニアさんは炭で線を引いて、書き直されました。


 ギードさんは窯の前でございます。この方は四時から六時までの火加減を覚えて、いまでは朝の分を全部お任せしております。レイフ様は焼き上がりを一つ割って、左手で口へ運ばれます。


「色が浅い」


「はい」


「味は、これでいい」


 夕方、帳面の頁が尽きました。


 三年ぶんの一冊と、タニアさんの写しと、この町で書いた一冊。次の一冊は、粉挽き屋のお父上に紙を分けていただいて、糸で綴じました。糸は二重にいたしました。油で表紙が黒くなるまでには、また三年かかります。


 わたくしは一枚目を空けて、二枚目から書き始めました。


「姉さん」


「はい」


「なんで一枚目、空けとくんですか」


「まだ、埋まっておりませんので」


「そこ、埋めるところなんですか」


「はい」


 タニアさんは、その頁をしばらく見ていらっしゃいました。


「何が入るんですか」


「存じません」


 店を閉めてから、古いほうの一冊を出しました。


 一枚目でございます。わたくしの字ではないものが、一行だけ書いてございます。名前のところは掠れて読めません。


 ——この方は、白いものを召し上がれない。


 母の字でございます。母も、同じことをしておりました。


 母が誰のことを書いたのか、わたくしは存じません。セリーヌ様がどこでこの字をご覧になったのかも、伺えておりません。


 タニアさんにも、レイフ様にも、ギードさんにも申し上げておりません。ヴェルナー様にも、あの方にも申し上げておりません。


 一枚目の筆跡について、わたくしはまだ、何も申し上げておりません。

【今日の帳面】


セリーヌ・ヴァレンティ/獣の脂を除く。汁は骨で取り、浮いた脂は掬う。焼き物は網で。羊は皮を外す。——一枚破って屋敷へ。

(新しい帳面。一枚目は空けておく。書き出しは二枚目から)


 この町では、うちは「書く店」と呼ばれているそうです。菓子屋とは、まだ一度も呼ばれておりません。


 次の部は、帳面の一枚目から始まります。母の字は、誰のことを書いたのか。

 半年ののち、店の柱には炭の線が二十三本引かれております。


 ブックマークと評価は、次の一冊を綴じる糸になります。二枚目から先を、まだしばらく書き続けます。

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