第29話:奥様は、何を召し上がれませんか
翌朝、窯の火を落とすころに、レイフ様がいらっしゃいました。
「宿に客が一人だ」
「はい」
「先月も同じことを言った気がする」
「先月は、男の方でございました」
「今度は女だ。夕べ遅くに部屋を取った。荷は無い」
レイフ様は左手で天板の縁を持ち上げて、焼き上がりをご覧になりました。うちの菓子の色を見る役目は、店を開けた日から、ずっとこの方でございます。
「飯を頼まなかった。夜も、今朝もだ」
「宿代は」
「先に置いていった。銀貨で払った。あの銀貨は、この町じゃ釣りが出ん」
わたくしは炭を取りました。書くほどのことではございませんが、書いておきました。
セリーヌ様が戸を開けられたのは、朝の商いがひと区切りついたころでございます。
「覚えていて?」
「セリーヌ様でいらっしゃいます。先月お越しになりました」
「よく覚えているのね」
「書いてございますので」
セリーヌ様は台の上をご覧になりました。指で、左から一つ、二つ、三つ。三つ目でお止まりになって、また一つ目へお戻りになります。二度そうなさいました。
先月も同じ手つきでいらっしゃいました。帳面にはこう書いてございます。——皿の上を、二度数えられた。一つ目と三つ目のあいだを、二度。
あのときは、意味が分かりませんでした。ただ書いただけでございます。
いまは分かります。あの方は、召し上がれるものをお探しでいらっしゃいました。指が三つ目で止まって一つ目へ戻るのは、どれも確かめようがなかったからでございます。確かめるには、伺わなければなりません。伺えば、書かれます。
「あの家の人、また来たんですか」
タニアさんが奥から顔をお出しになりました。
「はい」
「腹立つな」
「奥をお願いします」
「はいはい」
タニアさんは腕を組んで、一歩下がってから引っ込まれました。
「あの子、無礼ね」
「はい」
「叱らないの」
「叱ると、二人になってしまいますので」
セリーヌ様は台から手をお離しになりました。
「あなた、あの人に何を言ったの」
「召し上がれるものを伺いました」
「それだけ?」
「はい」
「……あの人、夕べは何も召し上がらなかった。厨房の者が三人、廊下に立っていたわ」
わたくしは炭を止めました。屋敷の廊下のことは、わたくしの領分ではございません。
「あの看板は、本当なの」
「どの一行でございましょう」
「食べられないものを書けば、なんとかしてくれるの」
「なんとかできるとは限りません。書けば残る、というだけでございます」
わたくしは板の紐から炭の欠片をほどいて、差し出しました。
セリーヌ様は、それをお取りになりました。板の余白へ手を伸ばされます。
伸ばして、下ろされました。
もう一度伸ばされて、また下ろされました。
三度目に、こうおっしゃいました。
「……人が、見ますから」
わたくしは戸を閉めて、外の札を裏返しました。窯の支度中の札でございます。この札を昼に出したのは、店を開けてから初めてでございました。
それから帳面を開いて、炭を置きました。
セリーヌ様の指は、動きませんでした。
わたくしは口を開きました。
「奥様は、何を召し上がれませんか」
「……そんなもの、ありません」
「はい」
「ありません。わたくしは、伯爵夫人です」
「はい」
わたくしは炭を、帳面の上に置き直しました。
この一行は、店を開けた日から板に書いてございます。誰でも読めるところに、大きく書いてまいりました。声に出して申し上げるのは、これが初めてでございます。
「食べられないものを、お書きください。それだけで構いません」
セリーヌ様は炭をお取りになりました。それから、置かれました。
「……字を書くと、残ります」
「はい」
「残ると、見つかります」
「では、わたくしが書きます。奥様はおっしゃってください」
セリーヌ様は、帳面をご覧になりました。それから、膝の上でご自分の指を組まれました。
「脂です」
「はい」
「獣の脂が、喉を通りません。飲み込むと戻します。小さいころからです。母には、行儀の問題だと言われました」
わたくしは書き取りました。獣の脂。嘔吐。幼少より。
「あの家は、毎晩、肉が出ます」
「はい」
「わたくしが嫁いだのは、前の奥様を食事のことで離縁した家です」
セリーヌ様は、そこで初めてわたくしをご覧になりました。
「あの家で口に合わないと言えるのは、あの人だけです」
わたくしは頷きました。
「どうしていらっしゃいましたか」
「切って、口に運びます。運んで、手巾に出します。膝の上で」
「毎晩でございますか」
「ふた月です」
わたくしは炭を止めました。
「お召し物の帯でございますが」
「……穴が、二つ動きました」
わたくしは奥へ立ちました。
油を使わずに焼くものがございます。旅のご夫婦にお出ししたときからの組み方でございます。粉と、擂った胡桃と、蜂蜜と、卵の白身だけ。窯は落としてしまいましたので、朝の残りを石の上で温め直しました。
二つ、お出ししました。
セリーヌ様は一つ目を小さく割って、端のほうを口に入れられました。それから召し上がりました。二つとも召し上がりました。
「……もう一つ」
「はい」
三つ目をお出ししました。
召し上がるあいだ、わたくしは書いておりました。書くことがたくさんございました。汁は骨で取ること。浮いた脂は掬うこと。焼くものは網を使うこと。バターの代わりに何を使うか。
顔を上げましたら、帳面の頁がめくられておりました。
セリーヌ様は、一枚目を開いていらっしゃいます。
「この字」
「はい」
「……どこかで」
一枚目には、わたくしの字ではないものが書いてございます。名前のところは掠れて読めません。読めるのは一行だけでございます。
——この方は、白いものを召し上がれない。
「どちらで、ご覧になりましたか」
セリーヌ様は、しばらく頁をご覧になっておりました。
「分かりません。実家の、何かで見た気がします」
「ご実家は、どちらでございますか」
セリーヌ様は答えられませんでした。わたくしは帳面を引き取って、二枚目から先を開き直しました。
お帰りになるとき、戸口でお立ち止まりになりました。
「明日の朝、迎えが参ります」
「屋敷からでございますか」
「昨夜、わたくしが使いを出しました」
セリーヌ様は外套の襟を直していらっしゃいます。裾はまだ乾いておりません。
「出るなら出ると、言わなければなりませんから。黙って消えるのは、あの家では病気ということになります」
「お決めになりましたか」
セリーヌ様は答えられませんでした。
わたくしは炭を取りました。
「では、それまでに一枚、書いておきます」
【今日の帳面】
セリーヌ・ヴァレンティ/獣の脂。飲み込むと戻す。幼少より。婚家ではふた月、膝の上の手巾に出していた。
本人は書けない(残ると見つかるため)。代筆。一枚破って渡す。
板に書いてある一行を、声に出して申し上げたのは、これが初めてでございました。三年、ずっと書いてはおりました。
次回、朝の街道をヴァレンティ家の馬車が上ってまいります。降りてこられるのは、あの方ではございません。




