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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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29/30

第29話:奥様は、何を召し上がれませんか

 翌朝、窯の火を落とすころに、レイフ様がいらっしゃいました。


「宿に客が一人だ」


「はい」


「先月も同じことを言った気がする」


「先月は、男の方でございました」


「今度は女だ。夕べ遅くに部屋を取った。荷は無い」


 レイフ様は左手で天板の縁を持ち上げて、焼き上がりをご覧になりました。うちの菓子の色を見る役目は、店を開けた日から、ずっとこの方でございます。


「飯を頼まなかった。夜も、今朝もだ」


「宿代は」


「先に置いていった。銀貨で払った。あの銀貨は、この町じゃ釣りが出ん」


 わたくしは炭を取りました。書くほどのことではございませんが、書いておきました。


 セリーヌ様が戸を開けられたのは、朝の商いがひと区切りついたころでございます。


「覚えていて?」


「セリーヌ様でいらっしゃいます。先月お越しになりました」


「よく覚えているのね」


「書いてございますので」


 セリーヌ様は台の上をご覧になりました。指で、左から一つ、二つ、三つ。三つ目でお止まりになって、また一つ目へお戻りになります。二度そうなさいました。


 先月も同じ手つきでいらっしゃいました。帳面にはこう書いてございます。——皿の上を、二度数えられた。一つ目と三つ目のあいだを、二度。


 あのときは、意味が分かりませんでした。ただ書いただけでございます。


 いまは分かります。あの方は、召し上がれるものをお探しでいらっしゃいました。指が三つ目で止まって一つ目へ戻るのは、どれも確かめようがなかったからでございます。確かめるには、伺わなければなりません。伺えば、書かれます。


「あの家の人、また来たんですか」


 タニアさんが奥から顔をお出しになりました。


「はい」


「腹立つな」


「奥をお願いします」


「はいはい」


 タニアさんは腕を組んで、一歩下がってから引っ込まれました。


「あの子、無礼ね」


「はい」


「叱らないの」


「叱ると、二人になってしまいますので」


 セリーヌ様は台から手をお離しになりました。


「あなた、あの人に何を言ったの」


「召し上がれるものを伺いました」


「それだけ?」


「はい」


「……あの人、夕べは何も召し上がらなかった。厨房の者が三人、廊下に立っていたわ」


 わたくしは炭を止めました。屋敷の廊下のことは、わたくしの領分ではございません。


「あの看板は、本当なの」


「どの一行でございましょう」


「食べられないものを書けば、なんとかしてくれるの」


「なんとかできるとは限りません。書けば残る、というだけでございます」


 わたくしは板の紐から炭の欠片をほどいて、差し出しました。


 セリーヌ様は、それをお取りになりました。板の余白へ手を伸ばされます。


 伸ばして、下ろされました。


 もう一度伸ばされて、また下ろされました。


 三度目に、こうおっしゃいました。


「……人が、見ますから」


 わたくしは戸を閉めて、外の札を裏返しました。窯の支度中の札でございます。この札を昼に出したのは、店を開けてから初めてでございました。


 それから帳面を開いて、炭を置きました。


 セリーヌ様の指は、動きませんでした。


 わたくしは口を開きました。


「奥様は、何を召し上がれませんか」


「……そんなもの、ありません」


「はい」


「ありません。わたくしは、伯爵夫人です」


「はい」


 わたくしは炭を、帳面の上に置き直しました。


 この一行は、店を開けた日から板に書いてございます。誰でも読めるところに、大きく書いてまいりました。声に出して申し上げるのは、これが初めてでございます。


「食べられないものを、お書きください。それだけで構いません」


 セリーヌ様は炭をお取りになりました。それから、置かれました。


「……字を書くと、残ります」


「はい」


「残ると、見つかります」


「では、わたくしが書きます。奥様はおっしゃってください」


 セリーヌ様は、帳面をご覧になりました。それから、膝の上でご自分の指を組まれました。


「脂です」


「はい」


「獣の脂が、喉を通りません。飲み込むと戻します。小さいころからです。母には、行儀の問題だと言われました」


 わたくしは書き取りました。獣の脂。嘔吐。幼少より。


「あの家は、毎晩、肉が出ます」


「はい」


「わたくしが嫁いだのは、前の奥様を食事のことで離縁した家です」


 セリーヌ様は、そこで初めてわたくしをご覧になりました。


「あの家で口に合わないと言えるのは、あの人だけです」


 わたくしは頷きました。


「どうしていらっしゃいましたか」


「切って、口に運びます。運んで、手巾に出します。膝の上で」


「毎晩でございますか」


「ふた月です」


 わたくしは炭を止めました。


「お召し物の帯でございますが」


「……穴が、二つ動きました」


 わたくしは奥へ立ちました。


 油を使わずに焼くものがございます。旅のご夫婦にお出ししたときからの組み方でございます。粉と、擂った胡桃と、蜂蜜と、卵の白身だけ。窯は落としてしまいましたので、朝の残りを石の上で温め直しました。


 二つ、お出ししました。


 セリーヌ様は一つ目を小さく割って、端のほうを口に入れられました。それから召し上がりました。二つとも召し上がりました。


「……もう一つ」


「はい」


 三つ目をお出ししました。


 召し上がるあいだ、わたくしは書いておりました。書くことがたくさんございました。汁は骨で取ること。浮いた脂は掬うこと。焼くものは網を使うこと。バターの代わりに何を使うか。


 顔を上げましたら、帳面の頁がめくられておりました。


 セリーヌ様は、一枚目を開いていらっしゃいます。


「この字」


「はい」


「……どこかで」


 一枚目には、わたくしの字ではないものが書いてございます。名前のところは掠れて読めません。読めるのは一行だけでございます。


 ——この方は、白いものを召し上がれない。


「どちらで、ご覧になりましたか」


 セリーヌ様は、しばらく頁をご覧になっておりました。


「分かりません。実家の、何かで見た気がします」


「ご実家は、どちらでございますか」


 セリーヌ様は答えられませんでした。わたくしは帳面を引き取って、二枚目から先を開き直しました。


 お帰りになるとき、戸口でお立ち止まりになりました。


「明日の朝、迎えが参ります」


「屋敷からでございますか」


「昨夜、わたくしが使いを出しました」


 セリーヌ様は外套の襟を直していらっしゃいます。裾はまだ乾いておりません。


「出るなら出ると、言わなければなりませんから。黙って消えるのは、あの家では病気ということになります」


「お決めになりましたか」


 セリーヌ様は答えられませんでした。


 わたくしは炭を取りました。


「では、それまでに一枚、書いておきます」

【今日の帳面】


セリーヌ・ヴァレンティ/獣の脂。飲み込むと戻す。幼少より。婚家ではふた月、膝の上の手巾に出していた。

本人は書けない(残ると見つかるため)。代筆。一枚破って渡す。


 板に書いてある一行を、声に出して申し上げたのは、これが初めてでございました。三年、ずっと書いてはおりました。


 次回、朝の街道をヴァレンティ家の馬車が上ってまいります。降りてこられるのは、あの方ではございません。

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