第28話:召し上がれないのですね
その方が三度目にいらしたのは、雨の日の昼過ぎでございました。
街道が濡れますと荷馬車が止まりますので、宿場の店は昼から暇になります。うちも同じでございます。窯は朝のうちに使い終えて、天板に残っているのは四つだけ。タニアさんは粉を取りに出ていらっしゃって、ギードさんは奥で胡桃を割っていらっしゃいました。
戸が開いて、雨の匂いが入りました。
オズワルド様は、外套の肩を払ってから、看板の前でお立ち止まりになりました。
二枚目の板でございます。一枚目は字で埋まりましたので、店の中に立てかけてございます。二枚目の下半分には、まだ余白がございました。
わたくしは紐から炭の欠片をほどいて、差し出しました。
オズワルド様は、それをご覧になりました。受け取りはなさいません。
「書けと言うのか」
「はい」
「私に、食えぬものなど無い」
わたくしは炭を板に戻しました。
「では、お席へどうぞ」
席は、四つございます。オズワルド様は入り口にいちばん近いところにお掛けになりました。背もたれのない椅子でございます。あの日、広間の長椅子で脚をお組みになっていた方が、蝋の染みの残った床の上で、膝を閉じて座っていらっしゃいます。
「前と同じものを」
前というのは三日前でございます。あの日は三つお出しして、三つとも召し上がりました。うまいとも、まずいとも、おっしゃいません。
その前——雨の日でございます。一つ目で手をお止めになりました。これは、なぜ食べられる。そうおっしゃいました。
答えは、まだお出ししておりません。
わたくしは、小皿を四つ並べました。
一つ目は胡桃と塩のもの。ヤンさんのために焼いているものでございます。二つ目は林檎を煮て挟んだもの。三つ目は丁子を挽いて入れたもの。四つ目は蜂蜜だけのものでございます。
「四つも頼んでおらん」
「お代はいただきません。伺いたいことがございます」
オズワルド様は、一つ目を召し上がりました。
「塩の味がする」
二つ目を召し上がりました。
「……水だ」
「水、でございますか」
「柔らかい水だ。それ以外に何もない」
三つ目。
「一つ目と同じだ」
わたくしは書き取りました。三つ目には丁子が入っておりますが、一つ目には入っておりません。
四つ目。
「甘い」
「ほかには」
「甘い。それだけだ」
わたくしは炭を止めました。
「お口の奥に、金気の味が残ることはございますか」
オズワルド様の手が、皿の縁で止まりました。
「……なぜ、それを知っている」
「肉と、煮込みと、汁物。この三つをお残しになる割合が、三年ぶん書いてございます」
わたくしは帳面を開きました。二枚目からでございます。一枚目は、いつも開きません。
旦那様の頁は、厚うございます。日付と、召し上がった量と、その日の空。ほかの方の頁より、ずっと細こうございます。
——十一月十四日。熱。膳は下げる。
——十一月十九日。粥。全部。
——十一月二十日。粥。全部。
「熱が七日続きました。起きられてからの最初の膳が、二十六日でございます」
——十一月二十六日。鴨。二口。
——十一月二十七日。鴨、香草を抜く。五口。
——十一月二十八日。香草を抜き、塩を増やす。全部。
「その前の月まで、鴨も鹿も召し上がっておりました。空の欄が増えたのは、この月からでございます」
「……それは」
「わたくしは、そう書いておりました。理由は存じません。お残しになったものを抜いて、召し上がったものを増やしただけでございます」
奥の物音が止まっておりました。ギードさんが、胡桃の殻を手に持ったまま戸口に立っていらっしゃいます。
「旦那様」
「ギードか」
「三年、香草は半分にしておりました。屋敷の献立は、この方の帳面のとおりに立てておりました。旦那様がお残しにならないものだけを、並べておりました」
オズワルド様は、四つ目の空の皿をご覧になりました。
「では、菓子は」
「焼き菓子は、旦那様がお残しにならなかったものだけで組んでおりました。甘みと、塩と、粉の焦げでございます。香草も、酸のものも、入れておりません。三年、それだけを書いておりましたので、それしか作れなくなったというだけのことでございます」
雨の音が、屋根で細かくなっております。
「私は、あれを、何の味もしないものだと思っていた」
「はい」
「不味いから残さず食えるのだと思っていた。肉には味がある。私が食えぬのは、料理が悪いからだと」
「はい」
「三年、そう言った」
「はい」
わたくしは帳面を閉じました。
「召し上がれないのですね」
オズワルド様は、こちらをご覧になりました。屋敷にいた三年を入れて、二度目でございます。
「なぜ、言わなかった」
「存じませんでした。わたくしも」
「では、なぜ書いた」
「伺えませんでしたので」
オズワルド様は口を開いて、そのままにしていらっしゃいました。
「ロゼリア」
「はい」
「私は」
わたくしは棚を見ました。
「胡桃が、あと二握りでございます」
「……なんだと」
「胡桃でございます。明日の分には足りますが、明後日は足りません」
オズワルド様は、しばらく黙っていらっしゃいました。それから、財布をお出しになりました。
「なぜ、またいらしたのですか」
「答えを聞きに来た。三日、それだけを考えていた」
「では、お聞きになりました」
「……いくらだ」
「四つで、銅貨二枚でございます」
卓の上に、銀貨が一枚置かれました。わたくしは釣りを数えて、卓に並べました。銅貨で十八枚でございます。数えるところを、ずっとご覧になっておりました。
「釣りはいらん」
「お代は決まっております」
わたくしは十八枚をお返ししました。オズワルド様は、それを一枚ずつ財布に入れられました。指が途中で二度、止まりました。
「また来る」
「お待ちしております」
わたくしは戸を開けました。雨は小降りになっております。外套をお召しになるとき、右の袖に手間取っていらっしゃいました。ギードさんが手を貸そうとして、やめられました。
馬車の音が、街道の下のほうへ消えました。
わたくしは新しい頁に、炭を下ろしました。
書いたのは三行でございます。お名前と、召し上がれないものと、日付。前の行はドランさんでございます。ドランさんは左でしか噛めません。
「姉さん」
タニアさんが、粉の袋を抱えて戸口に立っていらっしゃいました。
「あの客、来てました?」
「はい」
「何て書いたんですか」
「お名前で」
タニアさんは首を伸ばして、頁を覗かれました。それから腕を組んで、一歩下がられました。
「……ふうん」
「腹は立ちませんか」
「立ちますよ。でも、うちの帳面ですから」
タニアさんは粉の袋を台に下ろして、それからもう一度、戸の外をご覧になりました。
「姉さん」
「はい」
「外に、女の人が立ってます」
わたくしは戸口へ出ました。
街道の向かい、三日月亭の軒の下に、外套の女の方が立っていらっしゃいます。傘はお持ちではありません。裾が濡れております。
「さっきからいますよ。あの客が来る前から」
馬車はもう出ております。
「あの人、あの馬車で来たんじゃないんですかね」
タニアさんは腕を組まれました。
「なんで帰らないんだろ」
【今日の帳面】
ヴァレンティ伯オズワルド/苦み・酸味・香りが分からない。残るのは甘みと塩み。三年前の十一月、熱が七日。以後。
焼き菓子は三年ぶん、残されなかったものだけで組んでいた。前の行はドラン。同じ書き方で書く。
三年ぶん書いた頁が、たった三行になりました。書いておくと、こういうことがございます。
次回、外に立っていた方が、店に入っていらっしゃいます。傘はお持ちではありません。
ブックマークと評価は、新しい抜き型ひとつぶんになります。型が増えますと、出せる菓子の形が増えます。




