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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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27/30

第27話:片手で、ひとつ

 次の日、あの客はいらっしゃいませんでした。


 列は十四人。天板は三度空になりました。夕方までお待ちになった方はいらっしゃいましたが、灰色の外套はございません。


 その日は、朝から風がございました。窯の火が右へ寄ります。天板の右のほうだけ、色が濃くつきます。並べる順を入れ替えました。


 その日いらしたお客様のうち、二人はご存じの方でした。


 カレンさんとヨナさんでございます。ヨナさんは五つになられました。錆びた鍋で割った卵が駄目だと分かったのは、まだ春の話でございます。


「二つ、食べられるようになりました」


「二つでございますか」


「先週までは一つでした」


 ヨナさんは椅子に膝立ちで座られます。卓が高いからでございます。カレンさんが下ろそうとなさいますが、下りません。


 ヨナさんは、二つ目を半分だけ召し上がって、残りを紙に包んでいらっしゃいました。


「どうなさいますか」


「あした」


「明日でございますね」


 わたくしは書き取りました。——ヨナ/二つ目は半分。残りは翌日。急がせない。


 銅貨が三枚でございます。カレンさんは、看板の余白に何もお書きになりません。春に一度お書きになったきりでございます。あの字は、いまも板の下のほうに残っております。


 閉めぎわに、タニアさんが銅貨を二枚、卓へ置いて帰られました。何もおっしゃいません。置き方に、音がありませんでした。わたくしはその二枚を紙に包んで、銭箱の隅へ入れておきました。明日また賭けをなさいますので、預かりでございます。


 翌朝、四時に三日月亭の窯へ参りました。


 レイフ様は、いつも火の番をしていらっしゃいます。焼くのはわたくしで、味を見るのはレイフ様でございます。順番は初めからそう決まっております。


「今朝、聞かれた」


「どなたにでしょう」


「うちに七日になる客だ」


「はい」


「『あの店の菓子は、うまいのか』と聞かれた」


 わたくしは、天板に生地を並べる手を止めませんでした。


「なんと、お答えになりましたか」


「うまくはない、と答えた」


「はい」


「『ただ、食える人間の数が違う』とも言った。そっちは聞いてなかったな。パンの端を皿に置いて、部屋へ上がった」


 生地を寝かせるあいだ、帳面を卓の隅に置いておりました。


 レイフ様が、左手で表紙を叩かれます。


「これに、あんたの頁はあるのか」


「ございません」


「なんでだ」


「わたくしに、召し上がれないものがないからでございます」


「そうじゃねえだろ」


 レイフ様は、一枚目を開かれました。


「これは、あんたの字じゃないな」


「母の字でございます」


「名前のとこが読めねえ」


「はい。掠れております」


「読めるようになったら、どうする」


「そのときに、考えます」


 レイフ様は、頁を戻されました。


「あんたの頁がねえのは、あんたに食えねえもんがねえからじゃない。誰も聞いてねえからだ」


「はい」


「四百人ぶん聞いて、一人ぶん聞かれてねえ」


「……はい」


 わたくしは生地の布を掛け直しました。掛け直す必要は、ございませんでした。


 レイフ様は、火掻き棒を炉の縁に立てかけられました。


「粉を出せ」


「はい」


「バターは要らねえ。あんたのとこの粉は、その半分で立つ」


「はい」


「触るな。手ぇ出したら、蹴る」


「承知いたしました」


 レイフ様は、鉢を膝で挟まれました。布巾を輪にして下に敷き、鉢が回らないようになさいます。左手で混ぜて、右手は縁に添えていらっしゃいます。添えているというより、置いていらっしゃる。


 混ぜ終わるまでに、わたくしの四倍かかりました。


 わたくしはそのあいだに卵を数えておりました。二十四ございました。それから、蜂蜜の壺の開封日を数えました。九日目でございます。


 途中で、二度、味を見られました。


「塩、ひとつまみ」


「はい」


 わたくしは塩を摘まんで、鉢に落としました。


「もう一度」


 もう一度、落としました。


「そこで止めろ」


「はい」


「いま摘まんだのは、あんたの手だ。俺は摘まめねえ」


「はい」


「俺は、どこで止めるかが分かる。あんたは、そこまで持っていける。それだけの話だ」


 形は、レイフ様が作られました。


 一つ目は天板へ置くときに崩れました。レイフ様は崩れたほうを指で寄せて、そのまま脇へ除けられます。二つ目を取られました。今度は、天板の上で形を作られます。押すのではなく、指を三度置くだけでございました。それで形になりました。


 左手だけでございますので、片側が厚うございます。天板に一つだけ載って、あとは空でございました。


 窯へ入れるのは、わたくしがいたしました。


「そこは、いいのかよ」


「窯は、わたくしの領分でございます」


「そうかよ」


 火を見ました。右の奥がまだ強うございます。天板を左へ寄せて入れました。数えるのは、わたくしの役でございます。二百まで数えて、一度覗きます。


 焼き上がりました。


 片側が厚いぶん、そちらだけ色が浅うございます。縁が一つ、焦げております。皿に載せますと、傾きました。


「食え」


「はい」


「割るな。ひとつだ」


 わたくしは両手で持って、口へ運びました。


 噛みました。


「……分かりません」


「だろうな」


「はい」


「うまいんだよ、これは」


「はい」


「覚えとけ。これがうまいだ」


「はい」


 わたくしは、もう一口いただきました。


 二口目のほうが、時間がかかりました。


 窯の前は、暗うございます。外はまだ夜明け前でございました。宿の二階で、床の鳴る音がいたします。どなたかが起きていらっしゃいます。


 帳面には、書きませんでした。


「書かねえのか」


「はい」


「なんでだ」


「……書かなくても、忘れませんので」


 レイフ様は、火掻き棒を左手に持ち替えられました。窯の中を一度掻いて、また戻されます。


「あんた、まだ何も拒んでねえな」


「はい」


「俺は拒んで、これになった。あんたが拒む日は、いつか来る。そのとき——」


 言葉が、途中で止まりました。


 レイフ様は、窯のほうをご覧になっています。


「……いや」


「なんでしょう」


「もう五時だ。宿のパンが遅れる」


 レイフ様は左手で、窯の口を塞がれました。

【今日の帳面】


レイフ・コルネ/右手は使わない。左手で一つ焼いた。塩をひとつまみ足す。バターは半分で立つ。

(新しい頁)ロゼリア・アルディ/二十六/食べられないもの——

(この先は、まだ書いておりません)


 三年と少しで、頁は四百ほどになりました。自分の頁を作るのは、初めてでございます。


 次回、あの客が三度目に、店の戸を開けます。わたくしは三年ぶんの頁を開きます。

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