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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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26/30

第26話:タニアの一日

 その日は、朝から組合へ出向く用がございました。


 品評会のあと、名簿に店の名を入れていただくことになりました。そのための書付に、判をいただかねばなりません。会所は町の南の端でございます。往きと帰りで、半日かかります。


「じゃあ、わたしが店番です」


 タニアさんは、夜明け前から窯のところに立っていらっしゃいました。


「早うございますね」


「四時に来ました」


「窯は四時からでございます」


「知ってます。だから来ました」


 パンを二十四個、菓子を三度ぶん焼きました。焼くあいだ、タニアさんは薪の向きを直していらっしゃいます。教えたのは一度きりでございます。太いほうを奥へ入れる順番を、間違えられません。


「札は十番までにします」


「十一番から先の方は」


「『あとで』って言います」


「はい」


「十一から先の数字、書けないので」


「では、書ける数まででお願いいたします」


「姉さん、そこで『教えます』って言わないんですね」


「今日は、半日ございませんので」


「……腹立つな」


 町の南へ向かう道は、朝のうちは荷馬車が多うございます。石橋の手前で二度止まりました。橋の上では粉の匂いがいたします。うちの粉と同じ匂いでございました。タニアさんのお父上の粉は、この橋を渡って町へ入ります。


 会所では、思いのほか手間がかかりました。判をいただくのに、書記の方が三人代わりました。


 組合長は、いらっしゃいませんでした。


「うちの組合長なら、あんたの店の前だ」と、書記の方がおっしゃいました。「列を数えに行っている。三日で三度目だ」


「そうでございますか」


「昨日は二十二人だったそうだ」


 わたくしは、数えておりませんでした。


 帰り道で、ボードワン様のお店の前を通りました。人は並んでおりません。中に客が三人。看板は新しくなっておりました。絵が描いてございます。菓子の絵でございました。


 店に戻りましたのは、昼を過ぎてからでございます。


 表の樽には、木札が伏せて重ねてございました。十番までで止まっております。十一番から先は、使われた跡がございません。


 戸を開けますと、土間に人がおりませんでした。天板は拭いてございます。皿は洗って伏せてございます。銭箱の銅貨は、数えて紙に包んでございました。包みが三つ。卓の上に並んでおります。


「二十七枚あったので、十枚ずつ三つにして、七枚は箱に戻しました」


「ありがとうございます」


「数えるのは得意です。父の血です」


「はい」


「字は父の血じゃないと思いたいです」


 タニアさんは、布巾を絞りながらおっしゃいました。


「昼前に、荷運びの若い衆が来ました。ドランさんのところの、ミルコって人です。十九だそうです」


「はい」


「『食べられないものはありますか』って聞いたら、『ない』って言いました」


「はい」


「嘘でした」


「どうしてお分かりになりましたか」


「湯を出したら、十回吹いたからです」


 タニアさんは腕を組んで、一歩下がられました。


「十回ですよ。数えました」


「はい」


「『熱いのが駄目なんですね』って言いました」


「そうしましたら」


「『男が猫舌とか言えるか』って言いました」


「はい」


「『言えばいいでしょう。冷ませば済む話でしょう』って言いました」


「はい」


「そうしたら、黙りました。それから、小さい声で『冷ましてくれ』って言いました」


「お出ししましたか」


「割って、皿を二枚にして、風の通るところへ置きました。四つ食べました。銅貨は五枚です。一枚は、置いてったぶんです」


 わたくしは、包みの一つを開いて数え直しました。


「二十七で合っております」


「合ってますよ。数えたので」


 包み紙は、粉袋の切れ端でございました。糊はございませんので、端を折り込んでございます。折り方は三つとも同じでございました。


 わたくしは、ミルコさんという方の顔を存じません。名だけ伺いました。名だけでも、頁は作れます。


 タニアさんは、鍋の中を覗いていらっしゃいます。


「なんで言わないんですかね、みんな」


「言うと、何か言われるからでございましょう」


「何か言われますか」


「わたくしは、何も申しません」


「そこですよ。そこがずるいんです」


 それから、布巾を卓に置かれました。


「あと、あの客が来ました」


「あの客」


「灰色の外套の。雨の日の。姉さんが皿を出した人です」


「はい」


「三つ出して、三つ食べました。全部です」


「はい」


「『食べられないものはありますか』って聞いたら、『ない』って言いました。同じです」


「はい」


「名前を伺ったら、黙りました」


「そうですか」


「うまいとは言いませんでした。銅貨を二枚、置いていきました。ちょうどです」


 タニアさんは洗い場のほうを向いていらっしゃいます。


「……腹立つな」


「はい」


「三つ食べて、何も言わないんですよ。全部食べたら、ふつう何か言うでしょう。まずいでも、なんでもいいですけど」


「言わない方も、いらっしゃいます」


「また来ますよ、あの客」


「そうでしょうか」


「来ます。ああいうのは、来ます」


 夕方、二人で天板を洗いました。タニアさんは背が届きませんので、天板の奥はわたくしがいたします。奥をやらせろとおっしゃいます。届かないものは届きません。


 戸を閉めて、湯を沸かしました。湯呑みは二つ出します。タニアさんは湯を飲みながら片づけをなさいます。座ると眠くなるとおっしゃって、座られません。


 その晩、帳面を出しました。


 昼のぶんを書き足そうとして、頁をめくりました。


 書いてございました。


 わたくしの字ではございません。


 線が太うございます。炭を持つ手に力が入っているからでございましょう。「み」の三画目が下へ突き抜けております。「な」は丸のところが二つございました。


 みるこ/十九/あついのだめ/さめるまでまつ/さらを二まいにする


 あのきゃく/なまえなし/ぜんぶたべる/うまいといわない


 数字だけは、一つも崩れておりませんでした。


「勝手に書きました」


 タニアさんが戸口に立っていらっしゃいました。帰られたと思っておりましたが、いらっしゃいました。


「間違ってたら、言ってください」


 わたくしは、頁を見ておりました。


「一つ、足してもよろしいですか」


「どこですか」


「日付でございます。いつのことか分かりませんと、あとで困ります」


「……そうか」


 タニアさんは炭を取って、頁の隅に日を書かれました。数字は、まっすぐでございます。


「姉さん」


「はい」


「わたしが書いたところ、消さないでください」


「消しません」


「読みにくいですよ」


「読めます」


 タニアさんは、頁の上を指で撫でていらっしゃいました。


「明日も来ます、あの客。銅貨一枚、賭けます」


「賭けは、いたしません」


「じゃあ二枚です」


「増えております」


 タニアさんは頁をもう一枚めくられました。何も書いていないところへ、明日の日付だけを先に書かれます。


 炭を置いて、腕を組んで、一歩下がられました。

【今日の帳面】


(タニアさんの字)みるこ/十九/あついのだめ/さめるまでまつ/さらを二まいにする

(同)あのきゃく/なまえなし/ぜんぶたべる/うまいといわない


 わたくしの帳面は、今日から二人の字でございます。


 次回、レイフ様が窯の前にお立ちになります。焼くのは、一つだけでございます。

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