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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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25/30

第25話:三年ぶりの、一皿

 翌日は、朝から雨でございました。


 雨の日は列が短くなります。その代わり、皆様が土間へ入っていらっしゃいます。椅子二脚では足りません。空いた粉袋を三つ積んで、腰かけていただきました。


「粉袋に座らせる菓子屋、初めて見ました」


「はい」


「言っときますけど、うちの父の粉ですからね」


「ありがとうございます」


「礼を言われると、文句が続けられません」


 最初にいらしたのは、巡礼の帰りだという女の方でございました。子どもを一人連れていらっしゃいます。


「食べられないものは、ございますか」


「……ないと思います」


「思い当たらないときは、ないと書いておきます。あとで思い出されましたら、書き足します」


 二つお出ししました。子どものぶんは半分に割ってお出しします。


 女の方が、一口召し上がって手を止められました。


「これ、少ししょっぱいですね」


「お口に合いませんでしたら、お下げいたします」


「いえ。……いえ、いただきます」


 残りを召し上がって、子どものぶんの半分も召し上がりました。子どもは自分の半分を両手で押さえておりました。


 銅貨が四枚でございます。


 次にいらしたのは、雨宿りの二人連れでした。菓子は召し上がりません。湯だけ飲んで出ていかれました。湯は銅貨を頂きません。看板にも、何もお書きになりませんでした。それで構いません。書く方は、三度目か四度目にお書きになります。


 昼を過ぎて、雨が細くなりました。


 戸が開きました。


 灰色の外套の方でございます。


 傘はお持ちでいらっしゃいません。肩と背中が濡れております。外套の水を払われるのに、少し時間がかかりました。二度払って、まだ濡れております。傘を差し出す者が、おそばにいらっしゃらなかったのでしょう。


 わたくしは湯呑みを拭いておりました。拭き終わってから、卓のほうへ出ました。


「いらっしゃいませ」


 その方は、椅子にお掛けになりました。


 顔は上げられません。卓に立ててある品書きの板を、指でめくっては、戻していらっしゃいます。板でございますので、めくれはいたしません。


 なぜここにいるのか、とはお尋ねになりませんでした。


 久しいな、ともおっしゃいません。


 しばらくして、こうおっしゃいました。


「……一皿くれ」


「かしこまりました」


 それから、わたくしはいつもどおりに伺いました。


「食べられないものは、ございますか」


 指が止まりました。


「ない」


「はい」


「私は何でも食べる」


「はい」


「ただ、うまいものが少ないだけだ」


「さようでございますか」


 わたくしは書き取りました。——ない、とおっしゃる。


 その日、天板に出ておりましたのは林檎の焼き菓子でございます。皮ごと薄く切って、蜂蜜は使いません。粉に対して砂糖は八分の一。焼く前に、林檎の上へ塩をひとつまみだけ振ります。


 三つ、皿に載せてお出しいたしました。


 三年前も、同じものをお出ししておりました。屋敷では、この皿だけがいつも空になって戻ってまいりました。


 その方は、皿をご覧になっていました。


 それから、一つを手に取られました。


 持ち上げるときに指が滑って、一度落とされました。皿の上でございます。取り直して、口へ運ばれました。


 噛む音が、二度いたしました。


 それから、手が止まりました。


 止まったまま、動かれません。雨の音がしております。土間の奥で、タニアさんが粉袋の向こうから顔を出しておられました。


 その方は、皿をご覧になっています。皿の上には、まだ二つございます。


 肩が、一度だけ動きました。


「……これは、なぜ食べられる」


 声が、聞き取れないほど低うございました。


 わたくしは、湯呑みを卓に置きました。


「お口に合いませんでしたら、お下げいたします」


 その方が、顔を上げられました。


 こちらをご覧になったのは、あの日の広間で一度きりでございます。帳面は置いていけないと申し上げたときでした。


「……合わないとは、言っていない」


「はい」


 それだけでございました。


 その方は、残りの二つを召し上がりました。一つ目より、時間がかかりました。二つ目は、二度に分けて口へ入れていらっしゃいます。三つ目は皿を持ち上げて、指で押さえるようにして取られました。


 一つ目は、四口で召し上がりました。二つ目は、六口でございます。三つ目は、数えるのをやめました。


 召し上がるあいだ、わたくしは天板の粉を落としておりました。タニアさんが湯を運ばれます。湯呑みを置くとき、卓が少し鳴りました。


「いくらだ」


「銅貨二枚でございます」


 その方は、卓に銀貨を一枚置かれました。


「釣りはいらん」


「お釣りでございます」


 わたくしは銭箱から釣りを数えて、卓に並べました。


「うちは掛け値をいたしません。頂いたぶんだけ、頂きます」


 その方は、しばらく銅貨をご覧になっていました。それから一枚ずつ拾って、袋へ戻されました。数えるのに手間取っていらっしゃいます。三枚のところで一度数え直されました。


 戸口で、一度お立ち止まりになりました。


 それから、出ていかれました。


 雨は、もう上がっておりました。


 卓を拭きました。椅子を戻しました。粉袋を三つ、壁際へ積み直しました。


「姉さん」


「はい」


「銀貨、返したんですか」


「はい」


「もらっとけばよかったのに」


「銅貨二枚の菓子でございます」


「知ってます。腹立つな」


「はい」


「あの客、知り合いですか」


「お客様でございます」


「わたし、そういうことを聞いたんじゃないんですけど」


「はい」


「……腹立つな」


 タニアさんは皿を下げて、洗い場のほうへ行かれました。


 皿には、粉も屑も残っておりませんでした。


 帳面には、皿を下げてすぐに書きました。名は書きません。書いたのは、召し上がったものと、その数でございます。三つ。全部。一口目で手が止まったこと。それだけ書いて、炭を置きました。


 三年ぶんの頁は、まだ開いておりません。


 夕方、レイフ様が戸口にいらっしゃいました。中へは入られません。


「昼に、うちの前を通った」


「はい」


「あんた、手は震えてないな」


「震えておりません」


「ああ」


 レイフ様は、戸の枠に左手を掛けていらっしゃいます。


「皿を持つ手が、震えてた。あんたのじゃない」

【今日の帳面】


(名は書かず)/林檎の焼き菓子を三つ。一口目で手が止まる。二口目からは止まらず。全部召し上がった。

——次にいらしたら、同じものを出す。


 三年で、およそ千回でございました。千一回目は、まだ伺っておりません。


 次回、わたくしは朝から出かけております。店にいるのは、タニアさん一人でございます。

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