第25話:三年ぶりの、一皿
翌日は、朝から雨でございました。
雨の日は列が短くなります。その代わり、皆様が土間へ入っていらっしゃいます。椅子二脚では足りません。空いた粉袋を三つ積んで、腰かけていただきました。
「粉袋に座らせる菓子屋、初めて見ました」
「はい」
「言っときますけど、うちの父の粉ですからね」
「ありがとうございます」
「礼を言われると、文句が続けられません」
最初にいらしたのは、巡礼の帰りだという女の方でございました。子どもを一人連れていらっしゃいます。
「食べられないものは、ございますか」
「……ないと思います」
「思い当たらないときは、ないと書いておきます。あとで思い出されましたら、書き足します」
二つお出ししました。子どものぶんは半分に割ってお出しします。
女の方が、一口召し上がって手を止められました。
「これ、少ししょっぱいですね」
「お口に合いませんでしたら、お下げいたします」
「いえ。……いえ、いただきます」
残りを召し上がって、子どものぶんの半分も召し上がりました。子どもは自分の半分を両手で押さえておりました。
銅貨が四枚でございます。
次にいらしたのは、雨宿りの二人連れでした。菓子は召し上がりません。湯だけ飲んで出ていかれました。湯は銅貨を頂きません。看板にも、何もお書きになりませんでした。それで構いません。書く方は、三度目か四度目にお書きになります。
昼を過ぎて、雨が細くなりました。
戸が開きました。
灰色の外套の方でございます。
傘はお持ちでいらっしゃいません。肩と背中が濡れております。外套の水を払われるのに、少し時間がかかりました。二度払って、まだ濡れております。傘を差し出す者が、おそばにいらっしゃらなかったのでしょう。
わたくしは湯呑みを拭いておりました。拭き終わってから、卓のほうへ出ました。
「いらっしゃいませ」
その方は、椅子にお掛けになりました。
顔は上げられません。卓に立ててある品書きの板を、指でめくっては、戻していらっしゃいます。板でございますので、めくれはいたしません。
なぜここにいるのか、とはお尋ねになりませんでした。
久しいな、ともおっしゃいません。
しばらくして、こうおっしゃいました。
「……一皿くれ」
「かしこまりました」
それから、わたくしはいつもどおりに伺いました。
「食べられないものは、ございますか」
指が止まりました。
「ない」
「はい」
「私は何でも食べる」
「はい」
「ただ、うまいものが少ないだけだ」
「さようでございますか」
わたくしは書き取りました。——ない、とおっしゃる。
その日、天板に出ておりましたのは林檎の焼き菓子でございます。皮ごと薄く切って、蜂蜜は使いません。粉に対して砂糖は八分の一。焼く前に、林檎の上へ塩をひとつまみだけ振ります。
三つ、皿に載せてお出しいたしました。
三年前も、同じものをお出ししておりました。屋敷では、この皿だけがいつも空になって戻ってまいりました。
その方は、皿をご覧になっていました。
それから、一つを手に取られました。
持ち上げるときに指が滑って、一度落とされました。皿の上でございます。取り直して、口へ運ばれました。
噛む音が、二度いたしました。
それから、手が止まりました。
止まったまま、動かれません。雨の音がしております。土間の奥で、タニアさんが粉袋の向こうから顔を出しておられました。
その方は、皿をご覧になっています。皿の上には、まだ二つございます。
肩が、一度だけ動きました。
「……これは、なぜ食べられる」
声が、聞き取れないほど低うございました。
わたくしは、湯呑みを卓に置きました。
「お口に合いませんでしたら、お下げいたします」
その方が、顔を上げられました。
こちらをご覧になったのは、あの日の広間で一度きりでございます。帳面は置いていけないと申し上げたときでした。
「……合わないとは、言っていない」
「はい」
それだけでございました。
その方は、残りの二つを召し上がりました。一つ目より、時間がかかりました。二つ目は、二度に分けて口へ入れていらっしゃいます。三つ目は皿を持ち上げて、指で押さえるようにして取られました。
一つ目は、四口で召し上がりました。二つ目は、六口でございます。三つ目は、数えるのをやめました。
召し上がるあいだ、わたくしは天板の粉を落としておりました。タニアさんが湯を運ばれます。湯呑みを置くとき、卓が少し鳴りました。
「いくらだ」
「銅貨二枚でございます」
その方は、卓に銀貨を一枚置かれました。
「釣りはいらん」
「お釣りでございます」
わたくしは銭箱から釣りを数えて、卓に並べました。
「うちは掛け値をいたしません。頂いたぶんだけ、頂きます」
その方は、しばらく銅貨をご覧になっていました。それから一枚ずつ拾って、袋へ戻されました。数えるのに手間取っていらっしゃいます。三枚のところで一度数え直されました。
戸口で、一度お立ち止まりになりました。
それから、出ていかれました。
雨は、もう上がっておりました。
卓を拭きました。椅子を戻しました。粉袋を三つ、壁際へ積み直しました。
「姉さん」
「はい」
「銀貨、返したんですか」
「はい」
「もらっとけばよかったのに」
「銅貨二枚の菓子でございます」
「知ってます。腹立つな」
「はい」
「あの客、知り合いですか」
「お客様でございます」
「わたし、そういうことを聞いたんじゃないんですけど」
「はい」
「……腹立つな」
タニアさんは皿を下げて、洗い場のほうへ行かれました。
皿には、粉も屑も残っておりませんでした。
帳面には、皿を下げてすぐに書きました。名は書きません。書いたのは、召し上がったものと、その数でございます。三つ。全部。一口目で手が止まったこと。それだけ書いて、炭を置きました。
三年ぶんの頁は、まだ開いておりません。
夕方、レイフ様が戸口にいらっしゃいました。中へは入られません。
「昼に、うちの前を通った」
「はい」
「あんた、手は震えてないな」
「震えておりません」
「ああ」
レイフ様は、戸の枠に左手を掛けていらっしゃいます。
「皿を持つ手が、震えてた。あんたのじゃない」
【今日の帳面】
(名は書かず)/林檎の焼き菓子を三つ。一口目で手が止まる。二口目からは止まらず。全部召し上がった。
——次にいらしたら、同じものを出す。
三年で、およそ千回でございました。千一回目は、まだ伺っておりません。
次回、わたくしは朝から出かけております。店にいるのは、タニアさん一人でございます。




