第22話:どちらが、分かるのか
その日の昼、初めてのお客様が一人いらっしゃいました。
三十ほどの女の方でございます。薬売りの供をなさって街道を歩いていらっしゃるとかで、荷を背負ったまま入っていらっしゃいました。ノラさんとおっしゃいます。
ノラさんは皿を三つご覧になって、胡桃のものを一つお選びになりました。
「お包みいたしましょうか」
「はい」
「こちらで召し上がっていかれませんか。腰掛けがございます」
「いえ。持って帰ります」
看板には何もお書きになりませんでした。書かれない方は書かれません。わたくしは包んで、銅貨を二枚頂きました。
ノラさんが包みを袋に入れていらっしゃるときに、戸が鳴りました。
妹でございました。
馬車の音はいたしませんでした。街道を歩いていらしたのだと思います。靴の踵に街道の土がついておりました。従者もお連れではございません。
「姉様」
「いらっしゃいませ」
タニアさんが炭を置いて立ち上がられました。
「またあの人ですか。腹立つな」
「タニアさん」
「はい」
タニアさんは座られましたが、こちらの卓のほうへ椅子を寄せていらっしゃいました。
「帳面を見せてください」
「どうぞ」
わたくしは卓の上に帳面を置きました。
リディアは手をお出しになりませんでした。
「……なぜ、見せるのですか」
「見せて減るものではございませんので」
「前は渡さないとおっしゃった」
「渡すのと、見せるのは違います」
リディアは帳面を見て、それから店の中を見回されました。壁に立てかけた字の埋まった板を、少し長くご覧になっております。
「姉様は、書いているだけです」
「はい」
「聞いて、書いているだけ。それだけのことを、皆が有難がっている」
「はい」
「わたくしのほうが分かります。姉様と違って、舌がありますもの」
わたくしは炭を持ち直しました。
この方は、それを二十二年おっしゃってこられました。おっしゃるたびに、家じゅうが頷いてまいりました。
ノラさんは袋の紐を結び終えて、戸口のほうへ半歩お動きになったところでございます。わたくしは、その方に手のひらを向けました。
「では、この方が召し上がれないものを」
「……は」
「こちらのお客様でございます。今日、初めていらっしゃいました。わたくしもまだ何も存じません」
リディアはノラさんをご覧になりました。ノラさんは荷を背負い直して、その場に立っていらっしゃいます。
「そんなの、召し上がっていただかなければ分かりません」
「では、お出しいたします」
わたくしは皿を二つ、卓に並べました。
リディアは一つ目を割って、口に入れられました。噛む音が三度いたしました。
「……こちらは、よくできています」
「はい」
「粉が細かい。焼きも均です」
「はい」
二つ目を口に入れられました。
「こちらは少し塩が強い。わたくしなら、蜂蜜を足します」
「はい」
それから、リディアはこちらをご覧になりました。当てたお顔でございました。
「わたくしがお伺いいたしましたのは」
わたくしは、もう一度申し上げました。
「この方が、何を召し上がれないか、でございます」
リディアの手が止まりました。
皿の縁に指をかけたまま、そのままでいらっしゃいます。
「……そんなもの、食べて分かるはずがありません」
「はい」
「分かるものですか。この方の口の中に入ったこともないのに」
「はい」
わたくしは炭を置いて、ノラさんのほうへ向き直りました。
「ノラさん。お伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「何か、召し上がれないものはございますか」
ノラさんは少し考えて、首を横に振られました。
「ありません。何でも食べられます」
「では、召し上がれない場所はございますか」
ノラさんは、荷の紐を握られました。
しばらく、店の床のほうをご覧になっておりました。
「……人が見ていると、喉が動かないんです」
「いつからでいらっしゃいますか」
「子どもの時分から。うちが貧しかったので、食べてるところを人に見られるとろくなことがなくて」
ノラさんは、そこで口を閉じられました。わたくしはそこから先を伺いません。
「それで、お持ち帰りに」
「宿の外の、木の陰で食べます」
わたくしは帳面を開いて、新しい頁に書きました。
——ノラ。薬売りの供。召し上がれないものはない。人前では飲み込めない。次からは、油紙で二重に包む。冷めても割れないように焼く。
リディアは、それをご覧になっておりました。
「……そんなの」
「はい」
「そんなの、聞けば分かるじゃありませんか」
「はい」
わたくしは頷きました。
「聞けば分かります」
店の中で、誰も何も申しませんでした。ノラさんが頭を下げて出ていかれる音だけがいたしました。
リディアは、椅子の背に手をかけていらっしゃいました。
「……わたくしには、聞けません」
「なぜでしょう」
「聞いたら、分からないと知られますもの」
それから、リディアは帳面のほうへ指を伸ばされました。頁をめくる手つきが、探しものをする手つきでございました。最後まで行って、また戻って、もう一度最後まで行かれます。
「姉様」
「はい」
「……その帳面に、わたくしの名前は、ありますか」
わたくしは頁を繰って、その一枚を出しました。
リディア・アルディ。
名前のほかには、何も書いてございません。
「……何も、書いてない」
「存じませんでしたので」
「屋敷の女中の名前まで書いてあるのに」
リディアは前の頁を指でお押さえになりました。マルタ。乳を受けつけない。ハルト。八月の木の実。そういうものが、何枚も続いております。
「わたくしは、姉様に一度も聞かれたことがありません」
「はい」
「一度も」
「はい」
わたくしは炭を取りました。
「リディア」
「なんですか」
「あなたは、何が召し上がれませんか」
リディアは、口を開けて、そのまま閉じられました。
しばらくして、小さな声がいたしました。
「……分かりません」
「はい」
「分かりません。誰も、聞かなかったから」
わたくしは炭を持ったまま待ちました。焼き上がりの音がいたしましたが、取りに行きませんでした。
リディアは卓の木目のところをご覧になっておりました。
「……甘いものを頂くと、あとで必ず水を飲みます」
「はい」
「喉が渇くのです。子どもの頃から。母様に申し上げたら、皆そうだと言われました」
わたくしは書きました。
——リディア・アルディ。甘味のあと、必ず水を欲される。子どもの頃より。皆そうだと言われて、それきりになっている。
「書かないでください」
「書きます」
「……なぜ」
「書かずにおくと、忘れますので」
リディアは、帳面の一番前のほうへ手を伸ばしかけて、途中でお止めになりました。
「その帳面、母様のでしょう」
「白紙のものを頂きました」
「母様も、そういうものを書いていらしたと伯母様が。エレナ・アルディの手控えだと」
「どなたのことをお書きになったか、ご存じですか」
「存じません。……王都の方だとしか」
わたくしは、二枚目より前へは戻しませんでした。今日はこの頁の続きを書くと決めておりましたので、そのようにいたしました。
リディアは荷も持たずにいらしたので、帰りも歩きでございます。
戸口のところで、タニアさんが立ち上がられました。
「あの」
「……なにか」
「看板、書いていきませんか」
リディアは戸の外の板をご覧になりました。
「外の板です。書けば、姉さんが読みます」
「あなた、字が書けますの」
「読めません。書くのは、形で書きます」
タニアさんは腕を組んで、一歩下がられました。
「読めなくても、書いていいんです。ここは」
リディアは板を一度ご覧になって、それから街道のほうへ歩いていかれました。踵の土は、来られたときより乾いておりました。
夕方、看板を店の中へ入れるときに、板の下のほうを見ました。
字はございません。
埃の上に、指でなぞった跡が三つ残っておりました。
何と書かれたのかは、読めませんでした。
【今日の帳面】
ノラ/薬売りの供。召し上がれないものはない。人前では飲み込めない。以後、油紙で二重に包む。冷めても割れないように焼く。
リディア・アルディ/甘味のあと、必ず水を欲される。子どもの頃より。皆そうだと言われて、それきりになっている。
二十二年、舌が鋭いと言われ続けた人が、自分の口のことを一行も知らずにおりました。
次回、品評会でございます。広場に卓が十四並んで、行列は一つしかできません。




