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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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21/30

第21話:街道の宿に、客が一人

 窯を借りに三日月亭へ参りますのは、朝の四時でございます。


 裏の戸から入り、パンの焼き上がりを待って、こちらの天板を入れます。使用料は一日に銅貨二枚。品評会までは天板を三枚に増やしますので、四枚ぶん置いてまいりました。


 その朝、二階へ上がる階段の下に、膳が一つ出ておりました。


 肉も汁も、ほとんど手がついておりません。皿の縁に脂が白く固まっております。


 ミナさんが盆を持って通られました。


「おはようございます」


「おはようございます。……こちらは」


「三番のお客様です」


 ミナさんは膳を持ち上げて、手の中で少し傾けられました。


「毎晩こうなんです。もったいなくて」


「何日、お泊まりでいらっしゃいますか」


「今日で九日目です」


 この宿に九日泊まる方は、たいてい荷を待っていらっしゃる商人でございます。けれどその方は荷も待っていらっしゃらないのだと、ミナさんはおっしゃいました。


「お食事は、お口に合わないのでしょうか」


「伺ったんですけど、いいえとしか」


 ミナさんは、少し首をかしげられました。


「変なんです。肉も汁も残されるのに、パンだけは全部お召し上がりになるんですよ。籠ごと」


 わたくしは天板を抱えておりましたので、それ以上は伺いませんでした。


 宿のお客様のことは、宿の領分でございます。呼ばれていない場所へこちらから行くことはいたしません。店を開いた日に、そう決めました。断られた方を追わないと決めたのと、同じ決め方でございます。


 厨に入りますと、レイフ様が卓で宿帳をつけていらっしゃいました。左手でお書きになりますので、時間がかかります。


 わたくしが入ると、手が止まりました。それから、帳面を閉じられました。


「……早いな」


「はい」


「今日は天板が二枚か」


「三枚でございます。品評会の分を試します」


 レイフ様は閉じた宿帳の上に肘を置かれました。そのまま、動かされません。


「レイフ様」


「なんだ」


「三番のお客様は、パンをよく召し上がるそうでございます」


「そうか」


「宿の膳は、お口に合いませんでしょうか」


「宿の膳は、俺が決めてる」


 それで話は終わりました。レイフ様は火のほうへ行かれて、こちらへは背を向けていらっしゃいました。


 朝の焼きを終えてから、組合の家へ署名を頂きに参りました。


 ボードワン様は帳場にいらっしゃいました。触れ書きをお見せしますと、鼻から息をお出しになりました。


「出るのか」


「出させていただきたく存じます」


「あんたの菓子は菓子じゃねえと、俺は言ったな」


「伺いました」


「今も同じだ」


 ボードワン様は羽根を取って、署名の欄に線を引かれました。それから、こちらをご覧になります。


「出してもいい。ただし審査は菓子として見る。誰が食えるだの食えねえだの、そこは点にならん」


「承知いたしました」


「甘くねえもんを甘さで比べられて、恥をかくのはあんただぞ」


「承知いたしました」


 ボードワン様は署名をなさいました。字は速うございました。線が途中で一度も迷いません。


「二度言わせんな」


「はい」


「……なんで怒らねえんだ」


「怒っておりません。数えていただけです」


「何を数えた」


「卓の数でございます。触れ書きに十四とございました」


 ボードワン様はしばらくこちらをご覧になって、それから羽根を筒へお戻しになりました。


「十四だ。あんたのは端になる」


「端で結構でございます」


 店へ戻って、品評会に出すものを決めました。


 卓に出せるのは四種までと触れ書きにございます。三種まではすぐに決まりました。胡桃のもの。乳と卵を使わないもの。蜂蜜のもの。この三つで、帳面の頁のおおよそが埋まります。


 残りの一つで、ギードさんと意見が分かれました。


「四つ目は、蜂蜜を厚くお使いになったほうがよろしいかと」


「なぜでしょう」


「品評会でございます。奥様、あそこで並ぶのは甘いものでございますよ」


「アルディでございます」


「……はい」


 ギードさんは屋敷で三十年、年に一度の献立をお作りになってきた方でございます。何が並ぶかはご存じでございましょう。


「三年、屋敷でわたくしの帳面をご覧になっていたそうですね」


「はい」


「あの帳面で、一番多かったのはどの行でしょう」


 ギードさんはしばらく黙っておられました。


「……甘いものが、召し上がれない。でございます」


 わたくしは天板に粉と水と塩だけのものを並べました。蜂蜜も乳も卵も入っておりません。焼くと縁が反りますので、押さえながら焼きます。


 夕方、タニアさんと二人で天板を返しに参りました。焼いたものを一つ、布に包んで持ってまいりました。


 レイフ様は左手で割って、断面をご覧になってから口に入れられました。噛む音が長うございます。


「うまくはねえな」


「はい」


「四つ目はこれか」


「はい」


「……端の卓で、甘くねえもんを出すのか」


「はい」


 レイフ様は残りをもう一口召し上がって、それから窯のほうへ目をやられました。


「明日は火を強くしとく。縁が反るのは熱が足りねえからだ」


「ありがとうございます」


 レイフ様が天板を運びに出られました。


 厨に人がおりません。卓の上に、宿帳が開いたままになっております。


 タニアさんが、それを覗き込まれました。


「姉さん。これ、なんて読むんですか」


「人様の帳面でございます」


「でも開いてます」


「開いていても、人様のものでございます」


 タニアさんは指を伸ばして、上から三行目のあたりをお指しになりました。


「この字、昨日の夜に姉さんが書いてたやつと、頭のところが同じ形です」


 わたくしが顔を上げますより先に、後ろから手が伸びました。


 レイフ様が、左手で宿帳を閉じられました。


「客の帳面だ」


「すみません」


「申し訳ございません」


 タニアさんは手を引かれました。わたくしも頭を下げました。


「……いや」


 レイフ様は宿帳を胸のところで抱えていらっしゃいます。抱え方が、少し高うございました。


「明日も四時か」


「はい」


「三番の廊下は通らねえでくれ」


「承知いたしました」


 帰り道は街道沿いを歩きます。


 日が落ちますと、宿の窓に一つずつ灯が入ります。二階の右から三つ目の窓にだけ、この九日、灯が入っておりません。人がいらっしゃらないのだとばかり思っておりました。


「姉さん」


「はい」


「さっきの字、なんて書いてありました」


「見ておりません」


「わたし、覚えました」


 タニアさんは歩きながら、右の指で自分の掌に何かを書いていらっしゃいます。読めない方が字を覚えるときの手つきでございます。三度、同じ形をなぞって、それから拳を握られました。


「明日、昨日の頁と比べます」


「およしなさい」


「はい」


 タニアさんは、返事だけなさいました。


 握った手は、そのままでございました。

【今日の帳面】


三日月亭・三番のお客様(お名前を伺っておりません)/肉と汁を残される。パンは籠ごと召し上がる。九日目。

 ※こちらの帳面ではございません。宿の膳の話でございます。書く筋合いはございません。


 この店は、呼ばれていない場所へは参りません。開いた日に、そう決めました。


 次回、妹が街道を歩いてまいります。今度は、帳面を寄越せとは申しません。

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