第21話:街道の宿に、客が一人
窯を借りに三日月亭へ参りますのは、朝の四時でございます。
裏の戸から入り、パンの焼き上がりを待って、こちらの天板を入れます。使用料は一日に銅貨二枚。品評会までは天板を三枚に増やしますので、四枚ぶん置いてまいりました。
その朝、二階へ上がる階段の下に、膳が一つ出ておりました。
肉も汁も、ほとんど手がついておりません。皿の縁に脂が白く固まっております。
ミナさんが盆を持って通られました。
「おはようございます」
「おはようございます。……こちらは」
「三番のお客様です」
ミナさんは膳を持ち上げて、手の中で少し傾けられました。
「毎晩こうなんです。もったいなくて」
「何日、お泊まりでいらっしゃいますか」
「今日で九日目です」
この宿に九日泊まる方は、たいてい荷を待っていらっしゃる商人でございます。けれどその方は荷も待っていらっしゃらないのだと、ミナさんはおっしゃいました。
「お食事は、お口に合わないのでしょうか」
「伺ったんですけど、いいえとしか」
ミナさんは、少し首をかしげられました。
「変なんです。肉も汁も残されるのに、パンだけは全部お召し上がりになるんですよ。籠ごと」
わたくしは天板を抱えておりましたので、それ以上は伺いませんでした。
宿のお客様のことは、宿の領分でございます。呼ばれていない場所へこちらから行くことはいたしません。店を開いた日に、そう決めました。断られた方を追わないと決めたのと、同じ決め方でございます。
厨に入りますと、レイフ様が卓で宿帳をつけていらっしゃいました。左手でお書きになりますので、時間がかかります。
わたくしが入ると、手が止まりました。それから、帳面を閉じられました。
「……早いな」
「はい」
「今日は天板が二枚か」
「三枚でございます。品評会の分を試します」
レイフ様は閉じた宿帳の上に肘を置かれました。そのまま、動かされません。
「レイフ様」
「なんだ」
「三番のお客様は、パンをよく召し上がるそうでございます」
「そうか」
「宿の膳は、お口に合いませんでしょうか」
「宿の膳は、俺が決めてる」
それで話は終わりました。レイフ様は火のほうへ行かれて、こちらへは背を向けていらっしゃいました。
朝の焼きを終えてから、組合の家へ署名を頂きに参りました。
ボードワン様は帳場にいらっしゃいました。触れ書きをお見せしますと、鼻から息をお出しになりました。
「出るのか」
「出させていただきたく存じます」
「あんたの菓子は菓子じゃねえと、俺は言ったな」
「伺いました」
「今も同じだ」
ボードワン様は羽根を取って、署名の欄に線を引かれました。それから、こちらをご覧になります。
「出してもいい。ただし審査は菓子として見る。誰が食えるだの食えねえだの、そこは点にならん」
「承知いたしました」
「甘くねえもんを甘さで比べられて、恥をかくのはあんただぞ」
「承知いたしました」
ボードワン様は署名をなさいました。字は速うございました。線が途中で一度も迷いません。
「二度言わせんな」
「はい」
「……なんで怒らねえんだ」
「怒っておりません。数えていただけです」
「何を数えた」
「卓の数でございます。触れ書きに十四とございました」
ボードワン様はしばらくこちらをご覧になって、それから羽根を筒へお戻しになりました。
「十四だ。あんたのは端になる」
「端で結構でございます」
店へ戻って、品評会に出すものを決めました。
卓に出せるのは四種までと触れ書きにございます。三種まではすぐに決まりました。胡桃のもの。乳と卵を使わないもの。蜂蜜のもの。この三つで、帳面の頁のおおよそが埋まります。
残りの一つで、ギードさんと意見が分かれました。
「四つ目は、蜂蜜を厚くお使いになったほうがよろしいかと」
「なぜでしょう」
「品評会でございます。奥様、あそこで並ぶのは甘いものでございますよ」
「アルディでございます」
「……はい」
ギードさんは屋敷で三十年、年に一度の献立をお作りになってきた方でございます。何が並ぶかはご存じでございましょう。
「三年、屋敷でわたくしの帳面をご覧になっていたそうですね」
「はい」
「あの帳面で、一番多かったのはどの行でしょう」
ギードさんはしばらく黙っておられました。
「……甘いものが、召し上がれない。でございます」
わたくしは天板に粉と水と塩だけのものを並べました。蜂蜜も乳も卵も入っておりません。焼くと縁が反りますので、押さえながら焼きます。
夕方、タニアさんと二人で天板を返しに参りました。焼いたものを一つ、布に包んで持ってまいりました。
レイフ様は左手で割って、断面をご覧になってから口に入れられました。噛む音が長うございます。
「うまくはねえな」
「はい」
「四つ目はこれか」
「はい」
「……端の卓で、甘くねえもんを出すのか」
「はい」
レイフ様は残りをもう一口召し上がって、それから窯のほうへ目をやられました。
「明日は火を強くしとく。縁が反るのは熱が足りねえからだ」
「ありがとうございます」
レイフ様が天板を運びに出られました。
厨に人がおりません。卓の上に、宿帳が開いたままになっております。
タニアさんが、それを覗き込まれました。
「姉さん。これ、なんて読むんですか」
「人様の帳面でございます」
「でも開いてます」
「開いていても、人様のものでございます」
タニアさんは指を伸ばして、上から三行目のあたりをお指しになりました。
「この字、昨日の夜に姉さんが書いてたやつと、頭のところが同じ形です」
わたくしが顔を上げますより先に、後ろから手が伸びました。
レイフ様が、左手で宿帳を閉じられました。
「客の帳面だ」
「すみません」
「申し訳ございません」
タニアさんは手を引かれました。わたくしも頭を下げました。
「……いや」
レイフ様は宿帳を胸のところで抱えていらっしゃいます。抱え方が、少し高うございました。
「明日も四時か」
「はい」
「三番の廊下は通らねえでくれ」
「承知いたしました」
帰り道は街道沿いを歩きます。
日が落ちますと、宿の窓に一つずつ灯が入ります。二階の右から三つ目の窓にだけ、この九日、灯が入っておりません。人がいらっしゃらないのだとばかり思っておりました。
「姉さん」
「はい」
「さっきの字、なんて書いてありました」
「見ておりません」
「わたし、覚えました」
タニアさんは歩きながら、右の指で自分の掌に何かを書いていらっしゃいます。読めない方が字を覚えるときの手つきでございます。三度、同じ形をなぞって、それから拳を握られました。
「明日、昨日の頁と比べます」
「およしなさい」
「はい」
タニアさんは、返事だけなさいました。
握った手は、そのままでございました。
【今日の帳面】
三日月亭・三番のお客様(お名前を伺っておりません)/肉と汁を残される。パンは籠ごと召し上がる。九日目。
※こちらの帳面ではございません。宿の膳の話でございます。書く筋合いはございません。
この店は、呼ばれていない場所へは参りません。開いた日に、そう決めました。
次回、妹が街道を歩いてまいります。今度は、帳面を寄越せとは申しません。




