第20話:新しい奥様
ギードさんが厨に立たれて、三日になります。
窯は朝の四時から六時まででございます。三日月亭のパンを焼いた残りの熱を借りておりますので、こちらの都合で時刻は動かせません。ギードさんは初日に四時、二日目に三時半、三日目には三時にいらっしゃいました。
「早すぎます」
「手が、その時刻を覚えておりまして」
屋敷でも三時に起きていらしたそうでございます。わたくしも三時に起きておりました。三年、同じ厨房におりながら、三時に顔を合わせたことは一度もございません。ギードさんは下の焼き場で火を熾し、わたくしは奥の卓で帳面を開いておりましたので。
「奥様、卵はいくつ割りましょう」
「アルディでございます」
「……はい」
翌朝も、奥様と呼ばれました。
「姉さん」
タニアさんが炭を削りながらおっしゃいます。
「あの人、まだ奥様って言ってますよ」
「はい」
「直させないんですか」
「三十年なさった呼び方でございます」
「腹立つな」
「どちらにでしょう」
「分かりません」
ギードさんの手は速うございました。卵を割る音が一つずつ揃っております。ただ、味をご覧になるときだけ必ずこちらの帳面のほうへ目をやられます。三年、そうしていらしたのだそうです。
その朝、町に触れ書きが回りました。
菓子組合の品評会が、十日後の朝に広場で開かれます。組合の窯を持つ店が卓を出し、町の者は銅貨一枚で見て回れる。年に一度の催しだと、レイフ様が教えてくださいました。
「出ろ」
「わたくしの菓子は、甘くございません」
「甘くなくても卓は出せる。出さなきゃ、この町の商い名簿にあんたの名は載らねえ」
レイフ様は左手で触れ書きを卓に置かれました。
「載らないと、どうなりますか」
「粉が止まる。二度目は止められねえようにしとけ」
触れ書きの最後の行には、出品には組合長の署名が要ると小さく書いてございました。
昼を過ぎた頃、広場のほうから馬車の音がいたしました。
四頭立てでございます。この町の通りには入れませんので広場で停まり、そこから歩いていらっしゃいました。
戸口に立たれたのは、若いご婦人でした。二十ほどでいらっしゃいましょうか。旅をなさってきたはずですのに、裾に埃が一つもついておりません。
「ここが、あのお店」
わたくしは頭を下げました。
「いらっしゃいませ」
「セリーヌ・ヴァレンティと申します」
タニアさんが息を吸う音がいたしました。
「ロゼリア・アルディでございます」
「存じておりますわ」
セリーヌ様は店の中を一周ご覧になりました。字の埋まった板を立てかけた壁のところで少しお止まりになります。
「思ったより、狭いのね」
「はい」
「一度お目にかかりたかったの。旦那様が、あなたのお話をなさるから」
「さようでございますか」
「三年、我慢なさったのですって」
わたくしは炭を置きました。
「はい。そう伺っておりました」
セリーヌ様は少しお待ちになりました。何かをお待ちだったのだと思います。わたくしが何も申しませんでしたので、そのままお笑いになりました。
「変わった方」
「よく申されます」
「お菓子を頂こうかしら。旅の途中ですし」
わたくしは焼き上がりを三つ、皿に並べました。胡桃のもの、乳と卵を使わないもの、蜂蜜のもの。
セリーヌ様は手袋をお外しになりました。
それから、皿の上を指でお数えになりました。左から一つ、二つ、三つ。三つ目でお止まりになって、また一つ目へお戻りになります。二度そうなさいました。
「これは、粉のほかに何が入っておりますの」
「胡桃と、蜂蜜と、塩をひとつまみでございます」
「こちらは」
「乳も卵も使っておりません。粉と胡麻と、水でございます」
「まあ」
セリーヌ様は手をお引きになりました。
「お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なにかしら」
「奥様は、何を召し上がれませんか」
セリーヌ様はわたくしをご覧になりました。目のほうは動かず、指のほうが皿の縁から離れました。
「わたくし、なんでも頂けますのよ」
「さようでございますか」
「その看板、面白いこと。皆さん、正直にお書きになるの」
「書かれる方は、書かれます」
「わたくしなら書きませんわ。書けば、皆が知りますでしょう」
タニアさんが横から口を挟まれました。
「うち、書いてもらう決まりなんですけど」
「あら。決まりですの」
「決まりです」
「では、頂くのはやめておきますわ」
皿は三つとも、そのままでございました。
セリーヌ様は手袋をおはめになって、戸口までお歩きになりました。それから振り返られました。
「そうそう。妹君がお困りのようですよ」
わたくしは炭を持ったままおりました。
「リディア、とおっしゃったかしら。王都の茶会で、目隠しをして当ててごらんなさいと言われたそうですわ。ご自分から、舌には自信がありますとおっしゃったものだから」
「……当てられましたか」
「二つとも外されたそうです。それも、林檎と葡萄を」
セリーヌ様はたいへん楽しそうにお話しになりました。
「あちらのご実家、もうお茶会に呼ばれませんの。かわいそうに」
「ご丁寧に、ありがとうございます」
「あら。お礼を言われるとは思わなかったわ」
馬車が広場を出ていく音を戸口で聞いておりました。轍の音が三度はねて、それから遠くなりました。
卓に残った三つの皿を片付けました。減っておりません。三年のあいだ、下げるたびに減っていない皿を見ておりましたので、目方は持っただけで分かります。
「姉さん」
「はい」
「あの人、何しに来たんですか」
「さあ」
「一つも食べないで。銅貨も置かないで」
「はい」
「腹立つな」
タニアさんは皿を三つ重ねて水につけられました。
夜、帳面に頁を一つ作りました。
セリーヌ・ヴァレンティ。ご注文なし。
その下に、一行だけ書き足しました。
——皿の上を、二度数えられた。一つ目と三つ目のあいだを、二度。
なぜ書いたのかはわたくしにも分かりません。書かずにおくと忘れますので、そのようにいたしました。
ご注文のなかったお客様の頁を作ったのは、これが初めてでございます。
【今日の帳面】
セリーヌ・ヴァレンティ/召し上がれないもの——伺えず。ご注文なし。
皿の上を、二度数えられた。一つ目と三つ目のあいだを、二度。
この店では、注文をなさらなかった方の頁も作ります。書かずにおくと、忘れますので。
次回、三日月亭の三番の部屋に、九日動かないお客様がいらっしゃいます。宿の主は、それをわたくしに申しません。




