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離縁されたので、焼き菓子の店をはじめました  作者: 篠宮しずく


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19/30

第19話:三年、言えませんでした

 朝の四時に三日月亭の裏口へ回ると、ギードさんが立っていらっしゃいました。


 荷を足元に置いて壁のほうを向いて立っていらっしゃいます。上着が夜露で重くなっておりましたので、しばらくそうしていらしたのだと思います。


「ギードさん」


「……奥様」


「もう奥様ではございません」


「はい」


 そうお答えになって、それから薪を三本まとめて抱えられました。何も申し上げないうちに、窯の口を開けて、熾火を寄せて、薪の向きを直していらっしゃいます。


 わたくしは粉を計りました。


 ギードさんの手つきに無駄がございません。薪を置く順番も、灰を掻く角度も、三十年ぶんの形をしております。


 四時半に手を入れました。七で抜きたくなります。頃合いでございます。


「奥様」


「はい」


「わたしは、三年、申し上げませんでした」


 わたくしは天板を窯へ入れて、口を閉めました。


「何をでございましょう」


 ギードさんは灰掻きを壁に立てかけられました。


「三年前の春でございます。旦那様の味見の椀を、二つお出しいたしました。片方に塩を入れて、片方には入れずに」


「はい」


「旦那様は塩を入れていないほうをお取りになって、しょっぱいとおっしゃいました」


 窯の中で天板の油が鳴りはじめました。


「その次の月に、酢と水を取り違えられました。その次の月に、同じ献立を二日続けてお出ししたところ、一日目は全部お残しになって、二日目は全部召し上がりました。同じ鍋でございます。同じ手でございます」


「はい」


「腕ではございません。日でもございません。何か、並びがございました」


 わたくしは炭を取りませんでした。手が塞がっておりましたので。


「そのころ、奥様が書き始められました」


 ギードさんはそこで初めてこちらをご覧になりました。


「わたしは、奥様がお休みになったあと、厨房の棚から帳面を出しておりました。旦那様の頁だけでございます。何を残されたか。どれくらい残されたか。その日、何をお出ししたか。それを見て、翌日の献立を決めておりました」


「三年、でございますか」


「三年でございます」


 窯の口の隙間から、粉の焦げる匂いが出てまいりました。あと少しでございます。


「奥様にも申し上げませんでした。申し上げれば、奥様は旦那様にお確かめになります。奥様はそういう方でございますから。お確かめになれば、厨房が変わります」


「厨房が変われば、ギードさんがお困りになりますね」


「はい」


 ギードさんはそこを言い直されませんでした。


「三十年、あの厨房におりました。ほかに行くところがございません」


「旦那様には」


「伯爵に、舌がおかしゅうございますと申し上げる者は、屋敷におりません」


「はい」


「それに」


 ギードさんは荷のほうへ目を落とされました。


「奥様がいらっしゃるあいだは、間に合っておりました」


 わたくしは天板を引き出しました。


 縁が反って、胡桃のところだけ色が濃うございます。今朝は五本で足りました。


「間に合っていたのは、屋敷ではございません。わたしでございます」


「はい」


「三年、言えませんでした」


 わたくしは天板を台に置いて布をかけました。


 それから、棚の下から白い帳面を出して、最後の頁をギードさんのほうへ向けました。


 震えた字で、一行だけ書いてございます。


 ——マルタ、乳ではない。柄杓。


「これは、ギードさんの字でございますね」


「……書けたのは、それだけでした」


「はい」


「奥様の頁を写そうとしたのです。何度も。ですが、乳が駄目と書けば済むものではないと、あの頁を見て初めて知りました。一行書いて、あとはどう続けるのか分からなくなりまして」


 乳ではなく柄杓だと気づいた人は、屋敷にもう一人いた。そのことは、この一行にしか残っておりません。


「間違ってはおりません。一行目でございます」


 外が少し明るくなってまいりました。街道の向こうで、荷馬車の鈴が鳴っております。


「ギードさん」


「はい」


「三年のあいだ、旦那様の頁をご覧になっていたのは、あなただけでございます」


 ギードさんは動かれませんでした。


「わたくしは書いただけでございます。使ってくださったのは、あなたです。役に立って、ようございました」


 ギードさんは前掛けで顔を拭かれました。


 窯の前でございますから、汗かもしれません。


「奥様。……叱ってくださいませ」


「なぜでしょう」


「その、わたしは」


「胡桃の値は、王都ではいくらでございましょう」


 ギードさんは口を開けたまま止まられました。


 それから、ちゃんとお答えになりました。


「……袋で、銅貨が七枚から八枚でございます。秋に落ちます。秋の終わりに買って、冬に使うのが安うございます」


「こちらでは十一枚でございます」


「では、王都から取り寄せたほうが安うございます。荷賃を入れましても」


「行商の方が、十日後にこちらへ戻られます」


「では、その方に」


 わたくしは頷いて布の上から天板を押さえました。


 朝の分でございます。宿のパンが二十、うちの菓子が三十六。


 店に戻ると、タニアさんが先にいらしていて、卓の向こうから動かれませんでした。


「屋敷の人ですよね」


「はい」


「姉さんを追い出したほうの」


「追い出したのは旦那様でございます」


「同じですよ」


 ギードさんは荷を下ろして頭を下げられました。


 タニアさんは腕を組んで、一歩下がられます。


「なんで言わなかったんですか」


 わたくしは炭を置きました。


「タニアさん」


「聞いてるだけです」


 ギードさんは頭を上げてお答えになりました。


「言えば、わたしが屋敷を出ることになりました。それだけでございます」


「それだけですか」


「それだけでございます」


 タニアさんはしばらくギードさんを見ていらっしゃいました。


 それから、荷の紐を指さされました。


「それ、なんですか」


「献立でございます」


 ギードさんは荷を解かれました。


 天板が三枚。銅の型が四つ。練り棒が一本。それから、紐で綴じた紙の束が三つ。


「屋敷を出るとき、これだけ持って出ました」


「紙のほうは」


「三年ぶんの献立でございます。何をお出ししたか、こちらに書いてございます。奥様のお手元には、何が残ったかが書いてございます」


 わたくしは束の一つを手に取りました。


 厚うございます。指で押さえると、端が油で黒くなっております。表紙の付け方が、わたくしの帳面と同じでございました。


 紐を解きかけたところで、戸が叩かれました。


 ヤンさんが畑の帰りにいらしたのでございます。甘くないものを三つお求めになって、そのまま寄合の話をなさって、四半刻ほどいらっしゃいました。


 お帰りになったころには、窯の火は落ちておりました。


 わたくしは束を紐で結び直して棚の上に置きました。


 今日開いたところで、今日は何もできません。


「ギードさん。お給金は出せません」


「賄いで結構でございます」


「賄いも粥でございます」


「では、粥で」


「窯は朝の四時から六時まででございます。それ以外は使えません」


「四時に参ります」


「三時半にいらしても、開いておりません」


「……三時半に参ります」


 タニアさんが横でたいへん大きな溜息をつかれました。


「腹立つな」


「なぜでしょう」


「二人とも、早すぎるんですよ」


 夕方、ギードさんが天板を洗っていらっしゃいました。


 洗い方に無駄がございません。三枚を重ねて、縁から順に落として、最後に一枚ずつ立てて水を切られます。


「奥様」


「はい」


「屋敷に、新しい奥様が入られました」


「そうですか」


「先月でございます。セリーヌ様とおっしゃいます。二十におなりだそうで」


「そうですか」


「その方が、この店のことをお聞きになったそうでございます」


 ギードさんは天板を立てられました。


「……近いうちに、いらっしゃるかもしれません」


 わたくしは帳面を出して新しい頁を作りました。


 セリーヌ・ヴァレンティ。


 召し上がれないもの——存じません。


 嫌いなもの——存じません。


 書けたのは、名前と、今日の日付だけでございました。

【今日の帳面】


ギード/五十二。三年間、旦那様の頁を見て翌日の献立を立てていた。献立のほうの綴り三年ぶんを持参。棚に上げたまま、まだ開いていない。

セリーヌ・ヴァレンティ/二十。召し上がれないもの——記載なし。本日、頁を作る。


 書いたものは、書いた人の知らないところで使われます。使われていたと聞くまで、書いた人には分かりません。


 次回、新しい奥様が店の戸を開けられます。お買いになるためではございません。

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