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名前より先の旋律  作者: reika1021


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第9章:朝に届く声

朝は、通知の音ではなく胸の内側で先に鳴った予感から始まった。環は目を開ける前に部屋の空気がいつもより硬いことに気づいた。窓の向こうでは雨上がりの雲がまだ薄く残っており、光は白い布を通したように柔らかく床の上に淡い影を広げていた。


端末は机の上に伏せてあり、夜の間に何か届いたかもしれないし、届いていないかもしれない。そのどちらも怖くて、環はしばらく布団の中で息を整えていた。


結果が出る朝はもっと劇的なものだと思っていた。空が強く晴れるとか雨が激しく降るとか、そういうわかりやすい合図がある気がしていたが、現実の朝は静かで窓枠に残った水滴がゆっくり光を受けるだけだった。


環は起き上がり、端末を見ないまま洗面台に向かった。水に触れると指先が少し冷えたが、顔を洗っても胸の奥にたまった熱は消えなかった。鏡の中の自分は結果を待つ人の顔をしていた。


「まだ、見ない」


と声に出す。昨日も似たことを言った気がするが、今日の言葉は昨日よりも頼りなかった。見ないことで守れるものはもう少ない。見なければ何も始まらない朝でもあった。


机に戻ると、端末はまだ静かに伏せられていた。環は椅子に座らず、立ったまま手を伸ばした。指が画面に触れる手前で一度止まる。


もし選ばれていなかったら。


もし、選ばれていたら。


どちらの想像も心臓を違う形で締めつける。環は深く息を吸い、端末を裏返した。


通知は来ていた。映画制作会社からのメールだ。件名は短く、事務的で感情を含まないものだった。しかし、その無機質な文字の並びが環の朝を一瞬で変えた。


メールを開くまでの時間が長く感じられ、指先が少し震えた。画面の光が肌に反射し、部屋の湿った空気が急に薄くなった気がした。


採用。


その文字を読んだ瞬間、何も音が鳴らなかった。歓声も涙もすぐにはこなかったが、体の内側から力が抜けていき、椅子の背に手をつかなければ立っていられなくなった。


「採用」。何度見ても同じ文字だった。


環は呼吸を忘れていたことに気づき、ゆっくり息を吐いた。喉の奥が熱い。うれしいと思うより先に、信じられないが来た。信じたいのに、信じた瞬間に壊れてしまいそうで、画面を閉じることもできなかった。


景都は朝の会議室で、結果が確定したことを告げられた。採用の方向で進める。追加の調整は必要だが、主題は八雲原 環の曲で決定する、と。言葉は淡々と告げられ、資料の上には次の手順が並んでいく。


景都はうなずいた。仕事として、冷静に。しかし、指先は資料の角を少し強く押さえていた。胸の奥では昨夜から張り詰めていたものが、静かにほぐれていく。


選ばれた。


その事実を自分の喜びとして受け取るまでに、少し時間がかかった。これは作品のための判断だ。環の音が映画に必要だと認められた結果だ。自分の願いだけではない。


それでも、心は動いた。動かないふりはもうできなかった。


会議が終わると、景都はすぐに席に戻らなかった。廊下の窓際に立ち、曇りの残る東京の景色を望んだ。遠くのビルの壁には朝の光が反射し、道路には雨の名残が細く光っていた。


環はもう通知を見ただろうか。泣いただろうか。笑っただろうか。あるいはまだ、信じられずに画面を見つめているだろうか。


想像が胸を満たし、景都は目を伏せた。直接伝えたいと思ったが、正式な連絡はすでに届いているはずだ。自分が今すぐ何かを言うことは、仕事の範囲を少しだけ超えてしまう。


それでも、今日だけは会いたかった。


環は端末を置いた後、しばらく何もできなかった。部屋の音が戻ってくる。冷蔵庫の低いうなり、遠い車の流れ、隣の部屋で何かが置かれる小さな音。すべてがいつも通りなのに、世界の奥行きだけが変わっている。


劇場映画の音楽。自分の旋律が誰かの映像に重なり、暗い客席で知らない人がそれを聴き、エンドロールに自分の名前が流れる。何度も想像したはずの景色なのに、現実に近づいた瞬間急に怖くなった。


環はキーボードの前に座った。弾くためではない。触れなければ、この現実が体に入ってこない気がした。鍵盤の白へ指を置くと、冷たさがゆっくり伝わった。


最初の音は自然に鳴った。喜びの音ではなく、もっと小さく恐る恐る扉を開けるような音だった。続けてもうひとつ、和音にならないまま短い響きが部屋に落ちた。


涙が出たのは、そのあとだった。


大きく泣いたわけではない。頬に涙が落ちて初めて、泣いていることに気づいた。環は鍵盤から手を離し、両手で顔を覆った。落選した朝には泣かなかったのに、選ばれた朝に泣くのは少しおかしい気がした。


けれど、涙は止まらなかった。


誰か一人だけでいいから、私の音を待っていてほしかった。


その言葉が胸の奥でほどけていく。私はひとりではなかった。少なくともあの高い窓のどこかに毎朝待っていてくれた人がいた。仕事として私の音を聴き、責任を持って届けてくれた人がいた。


朝比良 景都。


名前を心の中で呼んだだけで、涙の温度が少し変わった。


景都は午後の残りの時間を、正式な手続きに費やした。契約の流れ、調整スケジュール、監督側からの要望、追加の作曲範囲。採用は始まりに過ぎない。これから環にはさらに多くの仕事が届く。


喜びだけでは済まない現実を景都はよく知っている。採用された音はこれから何度も修正される。場面に合わせて削られ、伸ばされ、時には自分が大事にしていた部分を諦めることになる。


それでも最初の扉は開いた。


景都は資料を確認しながら、環がその扉の前で立ち尽くしている姿を想像した。怖いだろう。うれしいだろう。きっとその両方を抱えている。彼女はそういう音を書く人だから。


昼に近づくにつれ、光がビルの窓を少しずつ明るくしていく。景都は窓辺に行き、下を見た。雨上がりの明るさの中で、広場のピアノが静かに置かれている。


彼女は来るだろうか。


来ないかもしれない。結果を受け取った日は外に出られないこともあるし、部屋に閉じこもって何度もメールを読み返しているかもしれない。


それでも景都は窓辺を離れられなかった。


環は昼前にようやく部屋を出た。何を着ようか少し迷ったが、特別な服は選ばず、いつもの上着を羽織ってバッグに端末を入れた。採用通知を何度も読み返すたびに、胸の奥が異なる形で震えた。


街へ出ると、雨上がりの匂いがまだ残っていた。 舗装は少し乾き始め、濡れた場所だけがまだ濃い色をしていた。 風は冷たすぎず、湿りを含みながらも軽く、建物の間を柔らかく抜けていった。


麻布台へ向かう道で、環は何度も足を止めそうになった。景都に会ったら何を言えばいいのだろう。採用されましたと言えばいいのか。知っていますよねと言えばいいのか。ありがとうと言えば重すぎるだろうか。


どの言葉も足りない。どの言葉も少し違う。


広場が見えたとき、環の胸は大きく鳴った。いつもの場所に、何も知らない顔でピアノが置かれている。あの日、演奏をやめようとした場所、景都が降りてきた場所、音が戻った場所。


今日は、そこへ弾きに来たわけではなかった。


けれど、ピアノを見た瞬間、指先が静かに熱を持った。


高層階から景都は環の姿を見つけた。遠い。表情までは見えないが、それでも彼女だとすぐにわかった。歩き方が違う。まだ不安は抱えているものの、昨日までとは異なる、何かが背中にある。


景都は窓に手を近づけたが、途中で止めた。降りるべきだと思った。仕事の立場ではなく、朝比良景都として。しかし、彼女がピアノの前へ歩いていくのを見て、すぐに動けなくなった。


先に音を聴きたい。


そう思った。


環は椅子に座った。周囲の人々の流れは、昼に向かって少し混み合ってきた。誰も自分が今朝、採用通知を受け取ったことなど知らない。だからこそ、ここで音を鳴らすことができる気がした。


鍵盤に触れる。冷たい。けれど、怖くはなかった。確かに怖さはある。だが、それはもはや指を止めるものではなかった。


最初の音は採用された曲の主題ではなく、もっと古く、毎朝ここで弾いていた短い旋律だった。しかし、以前とは異なる響きが混じっており、音は少し深く、少し遠くへ広がっていた。


環は目を伏せた。広場の音が遠ざかる。車の低い流れ、濡れた葉の匂い、人の足音、ビルの壁に反射する風、そのすべてが音の周りに集まり、旋律を静かに支えた。


途中で採用された曲の断片を少しだけ入れた。雨の場面の音ではなく、雨の後に歩き出す変奏の方だった。悲しみを消さずに前へ進む音。


弾きながら環は泣きそうになったが、涙は出なかった。音が先に出ていると、涙は少しだけ待ってくれるのかもしれない。


景都は高層階で聞いていた。すべては聞こえないが、今日の音にはわかるものがあった。結果を受け取った人の音。信じきれないまま、それでも前へ進もうとする音。


彼はもう我慢できなかった。


音が終わる前に動いては失礼だ、と彼は思った。最後の音が広場に溶け込むまで、彼は待った。環が鍵盤から手を離し、小さく頭を下げる。その瞬間、景都は窓辺を離れた。


下降するエレベーターの振動が足元へ伝わり、景都は自分の呼吸が速くなっていることに気づいた。採用を伝えるためではない。彼女はもう知っている。仕事の説明をするためでもない。


ただ、会いたかったのだ。


その理由を、もう隠せなくなっていた。


環はピアノの前でしばらく座っていた。拍手は小さく、すぐに人の流れに戻っていったが、今日はそれで十分だった。自分の音がまた広場に戻ったという事実だけで胸がいっぱいだった。


立ち上がろうとしたとき、景都が近づいてくるのが見えた。いつもより少し急いだ足取りだった。スーツの肩に昼の光が乗り、息を整える前の表情で彼は環の前に立った。


「聴こえました」


最初に出てきた言葉がそれだった。環は少しだけ笑った。いつもと同じなのに、今日はその声の奥に違う熱があった。


「全部は聞こえなかったんじゃないですか?」


「全部ではありません」


景都は一度息を吸った。


「でも、今日の音は届いたことがわかりました」


環は目を伏せた。届いた、その言葉だけでまた胸が熱くなる。


「通知、見ました」


「はい」


「朝比良さんは知っていたんですよね」


「今朝、確定を聞きました」


「言いたかったですか?」


景都は少しだけ黙った。


「言いたかったです」


その正直さに、環の胸が揺れた。


「でも、言えなかった」


「言えませんでした」


「仕事だから?」


「仕事だから、というのもあります」


「それ以外は?」


景都はすぐには答えなかった。雨上がりの匂いを含んだ空気が広場のなかを静かに流れている。環はその沈黙を待った。今日は逃げたくなかった。


景都は環の目を見た。


「あなたの喜びに先回りしたくありませんでした」


環は言葉を失った。


「僕が伝えた瞬間、仕事の匂いが混じる気がしました。採用の知らせはまずあなた自身のものとして届いてほしかったのです」


その言葉は環の胸の奥底に響いた。景都らしいと思った。慎重で、不器用で、少し遠回りで、けれど大切なことを雑に扱わない。


「そういうところです」


環は言った。


「ずるいところですか?」


「今日は少し違います」


「では、何でしょう?」


環は答えを探した。うまく言葉にできない。うれしい。苦しい。安心する。距離を感じる。近いと思う。全部が混ざっている。


「大事にされている気がして、困るところです」


景都の表情が静かに変わり、ほんの少しだけ息を飲むように見えた。環は言ってから視線を外したくなったが、外さなかった。


景都は少しだけ目を伏せた。


「困らせたいわけではありません」


「わかっています」


「でも、困らせていますね」


「はい」


環の声は小さかった。


「たぶん、うれしい困り方です」


その言葉を言い終えた後、環は自分で動けなくなった。景都もすぐには何も言わなかった。視線の間に、昼の光が細く差し込む。周囲の音はするものの、その場所だけ静かだった。


景都はゆっくり息を吐いた。


「おめでとうございます」


ようやく、その言葉が出た。


環はうなずいた。唇を引き結んだまま少し笑おうとしたが、うまくできなかった。今度は涙がこみ上げてきそうだった。景都の前では泣きたくなかったが、彼の前だから泣きそうなのかもしれなかった。


「ありがとうございます」


声が震えた。景都は、その震えに気づいていたが何も言わなかった。何も言わないことが今は一番優しかった。


環は深く息を吸った。


「落ちた時、もう演奏をやめようと思っていました」


「はい」


「誰にも待たれていないと思っていたから」


景都は静かに聞いていた。


「でも、朝比良さんが待っているって言ってくれたから。全部聞こえなくても、残るって言ってくれたから。怖いままでも、鳴らしていいって、そう思えたんです」


言葉が少しずつあふれ出てきた。まだ整っていない。けれど、整えると嘘になる気がした。


「採用されたのは、私の曲が選ばれたからです。でも、そこまで歩けたのは、たぶん私ひとりでは無理でした」


景都は一歩も動かなかった。近づくことも離れることもせず、ただその言葉が落ちる場所を守るように立っていた。


「僕は、聴いていただけです」


「その『聴いていただけ』が、私には必要でした」


環の声はまっすぐだった。


景都は目を閉じるように一度まばたきをした。胸の奥に長い間しまっていた何かが、静かに解けていく。自分は作れない。だから聴くしかない、と。そう思ってきたし、そのことに引け目を感じていた。


けれど、環は今、その「聴く」ことを必要だと言った。


景都はようやく言葉を出した。


「僕は、ずっと怖かったんです」


環は黙って彼を見た。


「自分の判断で誰かの音を見落とすことが、そして、仕事として聴いているつもりで本当に大切なものを通り過ぎてしまうことが」


景都の声は低く、少しだけ掠れていた。


「でも、あなたの音は通り過ぎられませんでした」


環の胸が大きく揺れた。


「最初は毎朝聞こえる音でした。名前も顔も知らないまま、ただ習慣のように受け取っていると思っていました」


景都はそこで少し言葉を切った。風が濡れた葉を揺らし、足元の石に淡い光が動いた。


「でも、音が消えた朝にわかりました。僕が待っていたのは、朝を始めるための音ではなく、その音を鳴らすあなただったのです」


環は息を止めた。


景都は逃げなかった。


「毎朝救われていたのは、あなたの音でした」


その言葉は、広場の騒がしさをすり抜けて環の胸にまっすぐと届いた。それは、作られた言葉ではなく、長い沈黙を越えてようやく出てきた声だった。


環はすぐには答えられなかった。泣きたくないと思ったが、涙は目の奥まで来ていた。彼の言葉が、自分がずっと欲しかった場所に触れてしまったのだ。


「それを」


環は声を探した。


「もっと早く言ってくれたらよかったのに」


少しだけ責めるような口調になったが、景都は静かにうなずいた。


「すみません」


「謝ってほしいわけじゃないです」


「はい」


「でも、遅いです」


「はい」


「ずるいです」


「はい」


環はそこで少しだけ笑ってしまった。涙が残ったままの笑いだった。景都もわずかに表情を緩めた。その瞬間、張り詰めていた空気が少しほどけた。


「でも」


環は言った。


「聞けて良かったです」


景都はその言葉を深く受け止めた。


昼の広場は少しずつ人の熱を増していた。ピアノの周りを通り過ぎる人、立ち止まって眺める人、遠くで会話を交わす人。誰もいま交わされた言葉の重さを知らない。


それがよかった。世界中が知ってしまうような告白ではなく、風と葉擦れの音と、濡れた石だけが覚えているくらいでよかった。


環は鍵盤に視線を戻した。


「もう一回、弾いてもいいですか?」


景都はうなずいた。


「聴きます」


「仕事として?」


問いかけは以前よりも少し柔らかくなっていた。


景都は答えた。


「朝比良景都として」


環は小さく笑った。


「それ、使い分けるの、大変そうですね」


「大変です」


「正直ですね」


「最近、あなたの前では隠すのが難しいです」


環はその言葉に頬が熱くなるのを感じた。返事をすれば何かが大きく進んでしまいそうで、代わりに鍵盤に向かった。


椅子に座る。景都は少し離れた場所で立っていた。近すぎない、けれどちゃんと聞こえる距離。環はその距離に安心した。


指を置く。最初の音は採用された主題だったが、映画に提出したときのものより少しだけ素直な響きになった。誰かの映像のためではなく、今、目の前で聴いてくれる人のために同じ旋律が異なる温度を帯びる。


景都は目を伏せて聴き、音は広場の空気に触れ、雨上がりの匂いの中で静かに広がった。高層階で聴いていた頃よりもずっと近く、近すぎて胸が痛むほどだった。


環は途中で朝の短い旋律を重ねた。それは、最初に広場へ戻った時の音、演奏をやめようとしていた自分がもう一度鍵盤に触れた日の音だった。その響きが採用された曲の主題とゆっくり重なっていく。


音楽は過去を消すのではなく別の形に移していくのかもしれない、と環は弾きながら思った。落選も沈黙も景都の声も待たれていた朝も全部今の音に入っている。


最後の音は長く残さず、短く、しかし消え切る前に広場の中にそっと置いた。


景都はすぐに拍手をせず、環が振り返るまで待って、目が合ってから静かに手を叩いた。


その拍手は小さかったが、環には誰よりもはっきりと聞こえた。


「今日も聴いてくれたんですね」


と言ってから、環は自分で少し驚いた。まだ最後の朝ではないし、映画館の外でもない。それでもその言葉は自然に口から出てきた。


景都は穏やかに答えた。


「最初の日から、ずっと」


環は息を止めた。結末のような言葉だったけれど、まだ終わりではない。むしろ、ここから始まるものがある。


「それを今言うの、やっぱりずるいです」


「すみません」


「でも」


環は鍵盤に触れたまま少しだけ笑った。


「今日は、許します」


景都も目元を緩めた。触れられる距離ではないが、届いている。音も、言葉も、沈黙も。


昼の光が強くなり、広場の濡れた場所が少しずつ乾いていった。環はピアノのふたを閉じずにそのまま立ち上がった。まだ弾きたい気持ちはあったが、今日はここでやめておきたかった。


いい音のあとに、すべてを言い尽くさない時間があってもいい。


景都は仕事に戻る時間が迫っていると感じていたが、足が動かなかった。環もそれを理解しているようだった。


「行かないといけませんよね」


「はい」


「私も正式な連絡に返事をしないといけません」


「はい」


「現実ですね」


「かなり」


環は小さく息を吐いた。


「夢が現実になると、急に書類が増えるんですね」


景都は少し笑った。


「増えます」


「ロマンがない」


「でも、その書類が映画につながっていくんです」


「そういう言い方をされると、少し許せます」


会話は軽くなっていたが、その下にはさっき交わした言葉の熱が残っていた。軽さは逃げではなく、熱をそのまま持ち続けるための呼吸だった。


景都は少しだけ真面目な顔に戻った。


「これから仕事として関わる場面が増えます」


「はい」


「その中で、言えないこともあります」


「わかっています」


「でも、言えることはできるだけ誠実に言います」


環はうなずいた。


「私も、聞けないことは無理に聞かないようにします」


「ありがとうございます」


「でも、聞きたくなったら顔に出ると思います」


「たぶん、わかります」


「怖いですね」


「環さんはわりと顔に出ます」


「それ、今言いますか?」


景都は少しだけ目を細めた。


「今なら言っても怒られない気がしました」


「少し怒ります」


「軽めに?」


「軽めに」


そのやりとりがふっと朝の空気をやわらかくした。名前を呼ばれることに環はもう以前ほど驚かなくなったが、慣れたわけでもない。景都の声で呼ばれるたびに自分の輪郭が少しだけ濃くなるのを感じた。


景都がビルに戻る前に、環は彼を呼び止めた。


「朝比良さん」


彼は振り返った。


「本当に、ありがとうございました」


景都は少しだけ困ったように見えた。


「僕は」


「聞いていただけ、ですか」


環が先に言った。


景都は言葉を止めた。


「それはもう聞きました」


環は続けた。


「でも、その『聴いていただけ』が私には必要でした。だから、ありがとうございます」


景都はしばらく何も言わなかった。言葉にすれば足りなくなるものがそこにあった。


「こちらこそ」


ようやく彼は言った。


「あなたの音を聴かせてくれて、ありがとうございます」


環は目を伏せた。胸の奥がまた熱くなり、何度も泣きそうになった。今日はそんな日だと思ったが、それを恥ずかしいとはあまり思わなかった。


景都がビルへ戻っていった。環は今回もその背中を見送った。入口のガラスに彼の姿が淡く映り、やがて建物の中へ吸い込まれていった。


振り返らなかった。


でも、今日はそれでよかった。振り返らなくても、届いているとわかるものがあった。


午後、環は正式な返信を送った。採用の連絡への承諾、今後の調整に向けた確認、必要な資料の受け取り。画面に並ぶ言葉は堅く、朝の広場で泣きそうになった自分とは別の場所にあるようだった。


それでも、これが夢の現実なのだと思った。感情だけでは音楽は届かない。書類も確認も修正も期限も、その全部が映画へ向かう道になる。


環はキーボードの前に座り、採用された主題をもう一度鳴らした。今度は少し仕事人の耳で聴いた。どこを広げられるか。どの場面に変奏できるか。どの音を残し、どの音を捨てるか。


まだ怖さはあるが、その怖さはもう空っぽではなかった。


景都の言葉が奥に残っている。


「毎朝救われていたのは、あなたの音でした」


思い出すと指が止まりそうになるが、止まらなかった。むしろ、その言葉を曲の中へ直接入れないように注意しなければならないと思った。


これは恋のための音ではない。映画のための音だ。しかし、自分の中に生まれた感情を完全に排除することもできない。大切なのは、感情の混ぜ方だ。


景都は午後の仕事で環との制作スケジュールを確認していた。これからは正式な作曲家として連絡がいく。打ち合わせもある。音楽監督としてではなく音楽プロデュース部門の担当として景都も関わることになる。


会える機会は増えるが、それは仕事の場であり、広場の朝とは異なる。ピアノの前で交わした言葉をそのまま持ち込むことはできない。


景都は、そのことを自分へ何度も言い聞かせた。しかし、言い聞かせるほど今日の環の声が戻ってくる。


大事にされている気がして、困る。


あの言葉に自分はどれほど動かされただろう。思い出すだけで胸の奥が静かに熱くなる。


夕方が近づくころ、環は広場へは行かず、部屋で仕事を続けていた。採用されたからこそ、今は弾くよりも作る時間が必要だったのだ。窓の外の光は少しずつ傾き、雨上がりの白さから夕方の薄い金色へと変わっていった。


机の上には、映画の場面ごとに必要な音のメモが書かれたノートが開いていた。雨の場面、日常の変奏、終盤の静かな回収。言葉は増えていくが、どれもまだ音にはなりきっていなかった。


環はふとノートの端に小さく書き込んだ。


救われていたのは。


そこまで書いて手を止めた。景都の言葉をそのまま書くのはずるい気がしたが、消すことはできなかった。その続きは空白のままにしておいた。


空白は音にできる。


そう思った。


景都は夕方の打ち合わせを終えた後、広場には降りなかった。朝に十分すぎるほど言葉を交わしていたので、これ以上会えば言わなくていいことまで言ってしまいそうだった。


高層階の窓辺に立つと、下のピアノは小さく見え、夕方の光の中で静かに置かれているのが見えた。環の姿はなく、それを寂しいと思いつつ、同時に安堵した。


彼女はきっと、作っている。


そう思うと、不在にも温度があった。


景都はカップを両手で包んだ。久しぶりに、その姿勢がただの癖ではなくなっていることに気づいた。かつては音を待つための無意識の動作だったが、今は彼女がどこかで音を作っている時間を想像するための姿勢だった。


夜が降りる前、環は短い休憩を取った。窓を開けると、東京の空気は少し冷えていて、雨の匂いはだいぶ薄れていた。遠くの道路から車の音が低く響き、建物の隙間を抜ける風がカーテンを静かに揺らしていた。


端末には正式な打ち合わせ日程の候補が届いていた。そこに景都の名前は直接出ていなかったが、関係者欄に会社名と部署が記載されていた。彼も来るのだろうか。来るとしたら、広場ではない場所で会うことになる。


仕事の場で景都と向き合う。


想像しただけで胸が少し緊張した。広場でなら音と風が間に入ってくれたが、仕事の席では資料と言葉が間に入る。どちらの距離が近いのかまだ分からない。


環は窓枠に指を置いた。金属の冷たさが少しずつ手の熱を奪っていく。


「ちゃんと仕事しなきゃ」


声に出すと、少しだけ現実が整った。景都に会うためではない。映画の音楽を書くためだ。自分の名前が選ばれた以上、逃げずに仕事に向き合わなければならない。


けれど、その決意の奥底では、朝の言葉がまだ光っていた。


景都は、夜も深くなったころに帰る準備をしながら打ち合わせ日程の候補を確認した。環と正式に会う日が決まろうとしていた。これまでのように、偶然の朝や広場の余白で会うわけではない。制作の場で、作曲家と担当者として向き合うのだ。


それを望んでいたはずだった。彼女の音が仕事の場へ届くことを願っていたのに、いざそうなると、広場での距離が失われるようで少し怖い。


景都は、自分の身勝手さに苦く息を吐いた。音が選ばれてほしいと願い、選ばれたら今度は関係が変わることを恐れている。人の心は本当に都合よくできている。


それでも、今日の朝に言ったことだけは嘘ではない。


毎朝救われていたのは、あなたの音でした。


その言葉を伝えた以上、もう何もなかった頃には戻れない。戻る必要もないのかもしれない。


環は夜、広場に少しだけ立ち寄った。作業の区切りがついた後、どうしてもあの場所を見たくなったのだ。空は深い青に沈み、ビルの灯りが濡れた舗装に細く映っている。昼の賑わいは薄れ、ピアノの周りには静かな余白があった。


今日は弾かなかった。鍵盤にも触れなかった。ただ、少し離れた場所から見ていた。ここから始まったのだと思う。音をやめようとした朝も、景都が降りてきた朝も、採用を知って弾いた昼も、全部この場所に重なっている。


高い窓を見上げる。景都がどこにいるかはわからない。もう帰ったかもしれないし、まだ仕事をしているかもしれない。


会えなくても、今日は寂しさが少し違っていた。会えないことがそのまま余韻になっている。


環は小さく息を吸った。


「私も、救われていました」


その言葉は夜の広場に吸い込まれていった。景都には届かない。けれど、届かなくてもよかった。これはまだ、彼に伝える前の言葉だった。


景都は少し遅れて広場の近くを通った。駅に向かう道を選ぶつもりだったが、足は自然に中央広場の方に向かっていた。ピアノのそばには誰もいないと思っていたが、少し離れた場所に環の姿があった。


彼は立ち止まり、声をかけようとしてやめた。


環は高層ビルを見上げていた。何かを言ったように見えたが、声は届かないし、表情もはっきりと見えない。それでも、今日の朝よりもその姿は静かに見えた。


声をかければきっと会話になり、言葉が増えるだろう。しかし、今夜の彼女にはひとりで広場に立つ時間が必要なのかもしれない。


景都は少し離れた場所から、ただ見守った。近づかないことが今夜の誠実さだった。


環はやがて振り返らずに歩き出した。景都は彼女が広場を離れるまでその場にいた。影が夜の中へ溶けていく。追いかけたいと思ったが、追いかけなかった。


明日がある。


そう思った。仕事としての明日、音楽の明日、そしてまだ名前のついていない感情の明日。


環の部屋には夜の静けさが戻り、机の上には楽譜とノートが広げられ、端末の中には採用通知があった。何度も読み返したい気持ちはあるものの、今は少しだけ落ち着いていた。


ノートを開き、昨日までの言葉の下に新しい一行を書いた。


音は、待ってくれた人へも届く。


書いてから少し照れくさくなった。きれいすぎる言葉かもしれないが、今日は少しきれいでもいい気がした。そういう日だった。


環はキーボードに向かい、映画の主題を静かに奏でた。採用されたからといって、曲が完成したわけではない。むしろ、ここからのスタートだ。何度も修正し、削り、迷いながら、映画の中で生きる音にしていく。


それでも、今日の一音目は少しだけ軽かった。


景都は帰宅してからも広場で見た環の姿を思い出していた。部屋の明かりをつけると現実の静けさが戻ってくる。机に置いた資料の角、冷めた水、窓の外に小さく光る街。


彼はコーヒーを淹れなかった。代わりに水を一口飲み、椅子に座った。今日言った言葉が、遅れて自分の中へ戻ってきた。


毎朝救われていたのは、あなたの音でした。


言ってしまった。もう戻せない。だが、不思議と後悔はなかった。彼女を困らせたかもしれないし、仕事の線を揺らしたかもしれない。それでも、あれ以上黙っていることはできなかった。


景都は目を閉じた。環がピアノを弾く姿が浮かんだ。採用された日の音、涙をこらえるような表情、そして「ありがとうございます」と言った声。


そのすべてが胸の中で静かに重なった。


明日からは仕事が始まる。正式な調整、制作の言葉、締切、現実。そこへ彼女を迎えることになる。優しくするだけではいけない。必要なら厳しいことも言わなければならない。


それでも、聴くことだけは雑にしない。


景都はそう決めた。


環は眠る前に端末をもう一度だけ見た。採用通知の文面は変わっていない。当たり前のことなのに、見るたびに少しずつ現実の重みが増していく。自分が選ばれたのだ。自分の音が映画に使われるのだ。


うれしい。


怖い。


そのどちらも、もう隠さなくていい気がした。


景都に言われた言葉を思い出す。自分が返せなかった言葉も思い出す。「私も救われていました」という一文は、まだ彼に届いていない。いつか言えるだろうか。言っていいのだろうか。


答えはまだ出ない。


けれど、言いたい言葉があること自体が今の環にとっては大きな変化だった。


夜の東京は雨上がりの匂いをほとんど手放し、舗装は乾いてビルの灯りが夜の中にくっきりと立ち上がっていた。広場のピアノは静かに眠り、高層階の窓にはいくつかの光が残っていた。


環は目を閉じた。景都も別の場所で窓の外を見ていた。触れられない距離はまだある。仕事の線も言えない言葉もこれからの不安もある。


それでも、音は届いた。


届いた音のあとに残る静けさの中で、環はようやく少し眠れそうだと思った。景都は明日の資料を閉じ、朝を待つように明かりを消した。


選ばれた音は、まだ始まりに過ぎない。


そして、言葉にできなかった思いもまた、ようやく朝へ向かい始めていた。


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