第10章:名前より先に
公開初日の朝は、映画館の入口に敷かれた赤い絨毯ではなく、まだ人の少ない歩道の乾いた冷たさから始まった。環は劇場の前で立ち止まり、ガラス扉に映る自分の姿を見た。いつもと同じ上着を着ているのに、胸の内側だけが知らない場所へ連れてこられたように落ち着かなかった。
空はよく晴れていたが、晴れすぎているわけではなく、東京の建物の縁に薄い白を残しながら少しずつ光を解き放っていた。映画館の看板には自分が音楽を担当した作品名が書かれており、その下の小さな文字列に八雲原 環という名前が載っているはずだった。
見るのが怖かった。何度も確認したはずなのに、実際の場所に置かれた名前は端末の画面で見るものとは違っていた。そこにあるとわかった瞬間、自分の音が本当に外へ出てしまったことを認めなければならない気がした。
環は一度だけ深く息を吸った。入口近くにある植物の青い匂いと劇場の中から漏れる空調の冷たさが混ざり合っていた。朝の映画館にはこれから始まるものをまだ誰にも汚されていない静けさがあった。
景都は少し遅れて現れた。スーツではなかったが、仕事の場へ向かうときの整った気配は残っている。手には薄い封筒を持ち、歩きながらも環を見つけると、目だけが先にやわらかくなった。
「早かったんですね」
環は言った。声に緊張が混じっているのが自分でもわかった。
「落ち着かなくて」
景都は短く答えた。
「朝比良さんでも、落ち着かないことがあるんですね」
「あります。今日はかなり」
その言葉に環は少しだけ笑った。景都が緊張していることを知って、自分だけではないと思えたからだった。肩の力がわずかに抜けた。
景都はガラス扉の向こうに視線を向けた。
「入りましょうか?」
環はうなずいたが、足がすぐには動かなかった。扉の向こうには、自分の音を知らない人たちがいる。映画を観に来ただけの人たち、音楽のためだけではなく物語のために席に座る人たちだ。
その人たちの中へ自分の旋律が混ざる。
そう思うと、足元が少し浮くようだった。
「怖いですか?」
景都が聞いた。責めるでもなく、先回りするでもなく、ただそばに置くような声だった。
「怖いです」
環は正直に答えた。
「でも、逃げたい怖さではないです」
「なら、よかった」
「よかったんですか?」
「逃げたい怖さなら、少し止めていたかもしれません」
「止め方、下手そうですね」
「たぶん下手です」
環は今度こそ少し笑った。朝の劇場前でこんな会話をしていることが不思議だった。採用通知を受け取った日も正式な打ち合わせの日も何度も緊張したが、今日の緊張はすべての音が客席へ渡る前の最後の沈黙に似ていた。
ロビーに入ると、床の艶が朝の光を淡く反射していた。まだ人は多くなく、スタッフの足音が遠くで整然と響き、ポスターの前には静かな空気が漂っていた。環は自分の名前をできるだけ探さないようにしていたが、結局すぐに探してしまった。
小さく載っていた。音楽、八雲原 環。
その文字を見つけた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。大きな文字ではないし、誰もがそこを見てくれるわけではないけれど、確かにそこにあった。
環は言葉を失った。
景都はその横で何も言わなかったが、彼も同じ場所を見ていた。八雲原 環。その名前を、最初は資料の中で見つけ、次に本人の口から聞き、そして今、映画館のロビーで目にした。
名前が音に追いついたように思えた。
「本当に、載ってる」
環の声はとても小さかった。
「はい」
「変ですね。自分の名前なのに、自分のものじゃないみたいなんです」
「映画の中に入る名前は、少しそう見えるのかもしれません」
「朝比良さんは何度も見てきたんですよね」
「はい。でも、今日の名前は違って見えます」
環は景都を見た。彼はポスターを見たまま少しだけ目を細めており、仕事として見ている顔ではなかったが、かといって個人的な感情だけというわけでもなかった。そこには音を届ける側としての静かな誇りが表れていた。
「どう違いますか?」
景都は少し考えた。
「朝を知っている名前だからだと思います」
環は返事ができなかった。朝を知っている名前。自分の落選も、演奏をやめたことも、広場で弾き直したことも、彼は知っている。完成した名前だけではなく、そこにたどり着くまでの沈黙も知っている。
それが少しだけ照れくさく、そして少しだけ救いだった。
上映までの間、環は落ち着かずにロビーの端を歩き回った。壁に貼られた作品の場面写真、チケットを手にした人々の気配、紙が擦れる音、カフェカウンターから漂うコーヒーの香り。どれも現実の細部であるはずなのに、夢の周辺にあるもののように感じられた。
景都は少し離れたところに立っていた。近づきすぎず、離れすぎず、広場で覚えた距離感が映画館の中でも自然に保たれていた。環はそのことに気づき、胸の奥が少し温かくなった。
「座っていた方がいいですよね」
環が言うと、景都はうなずいた。
「たぶん」
「でも、座っていたら余計に緊張しそうです」
「では、もう少し歩きましょう」
「朝比良さんも?」
「はい」
並んで歩くと、ロビーの床に足音が重なる。肩が触れるほどではないが、隣り合う気配は確かにあった。環は、その距離に慣れてきた自分に気づき少し驚いた。
最初は声だけだった。高層階から届いたかもしれない音と、広場に響く自分の足音。名前より先に音があり、音より少し後に声があった。その順番を思うと、今隣にいることが奇跡のようで、でも大げさに呼ぶにはあまりにも静かだった。
「今日のあと」
環は言いかけて、やめた。
景都が待つ。
「何か変わるんでしょうか?」
「変わることもあると思います」
「例えば?」
「連絡が増えるかもしれませんし、別の仕事につながるかもしれません。修正や追加の相談も、しばらく続くでしょう」
「現実的ですね」
「夢が現実になると、事務連絡が増えるので」
環は小さく笑った。
「前にも似たようなことを言いましたね」
「言いました」
「でも、今日は少しありがたいです。現実的なことを言われると、足が床につく感じがします」
景都は環を見た。
「浮いていますか?」
「少し」
「では、床を見てください」
「本当に現実的」
「でも、床はあります」
環は足元を見た。映画館の床は磨かれており、照明が薄く反射していた。自分の靴と少し離れた景都の靴が、同じ光の上にあった。
床はある。朝もある。息もしている。
環はゆっくり呼吸を整えた。
客席に入ると、劇場の空気はロビーよりもずっと冷えていた。暗さにはまだ上映前の青が混じっており、座席の列が静かに奥へと続いている。環は指定された席に向かいながら、これから自分の音がこの空間に満ちることを想像し、足元が少し頼りなく感じた。
座席に腰を下ろすと、布の感触が背中に伝わった。前方のスクリーンにはまだ何も映っておらず、真っ白な四角い沈黙が広がっていた。その前で、人はみな少しだけ声を低くする。
景都は隣ではなくひとつ席を空けた場所に座った。関係者席の配置としては自然だったが、環はその空いた席の幅を妙に意識した。近すぎない距離、仕事の場に残された余白。
その距離は少し寂しく感じられ、同時に安心でもあった。
「大丈夫ですか?」
景都が小さく聞いた。
「今のところは」
「始まったら?」
「わかりません」
「わからないままでいいと思います」
環はスクリーンを見たまま少し笑った。
「それ、何度も言われている気がします」
「何度も思っているので」
照明が落ち始め、客席のざわめきが薄れて空気が一段と深くなった。環は膝の上で指を重ね、鍵盤を探すように親指で人差し指の側面をなぞった。
映画が始まる。
最初の場面にはほとんど音がなく、街の遠い気配や部屋の中の呼吸、誰かがカーテンを開ける小さな音が聞こえるだけだった。環は、自分の曲がまだ始まらないことにほっとしたような、焦れるような気持ちになった。
やがて、最初の旋律が流れた。
自分が作った音なのに、客席で聴くそれは、もはや自分のものではなかった。映像の中で、人物の肩越しに淡い光が差し込み、言葉にできない感情が部屋の隅に溜まっていく。そこへ、環の音が静かに響いた。
環は息を止めた。
こんなふうに聴こえるのか。
こんなふうに聴こえるのか。
作業中には何度も聞いたし、試写のデータでも確認した。しかし、客席の暗さと知らない人の呼吸に囲まれて聴く音は違っていた。自分の部屋で生まれた旋律が誰かの物語の血流になっているのだ。
涙は出なかったが、代わりに胸の奥が熱く静かに広がっていった。
景都は環の方を見なかった。見れば彼女の表情を確認したくなるが、今は彼女自身が自分の音と向き合う時間だ。だから彼はスクリーンを見つめた。
環の音は映像の中で生きていた。完成までに何度も調整され、削られ、場面に合わせて形を変えていたが、最初に広場で聞いたあの余白は消えていなかった。
景都はそのことに深く安堵した。
中盤、雨の場面が来た。環が追加デモで書いた音が流れる。濡れた舗装、去っていく背中、言えなかった言葉。客席のどこかで、小さく息を飲む気配があった。
環はその音を聞きながら、あの夜の部屋を思い出した。雨音、窓の水滴、景都には言えなかった不安、送信ボタンの前で止まった指。
そのすべてが画面の中で、別の人の物語となっていた。
音楽は自分の痛みをそのまま見せるものではない。痛みを通して誰か別の沈黙に触れるものなのかもしれない、と環は思った。
終盤に向かうにつれ、音は少しずつ形を変え、主題は何度も繰り返されたが、そのたびに異なる色を帯びた。景都は、その変化を聞きながら、環と何度も交わした修正のやりとりを思い出した。
「ここは言いすぎています。
ここはもう少し余白を残したいです。
雨音は消したくありません。
この場面だけ、少しだけ光を残してもいいですか?」
仕事の言葉はときどき痛かったが、その痛みの中で環の音は強くなった。景都は、彼女が逃げなかったことを知っている。怒りかけ、沈黙し、また鍵盤に戻ったことを知っている。
だから、今スクリーンの中で鳴っている音はただ美しいだけではない。
エンドロールが始まった。客席の暗闇に名前が流れていく。環はスクリーンを見つめた。監督、出演者、スタッフ、技術者、制作者。たくさんの名前の後に「音楽、八雲原環」と表示された。
一瞬だったけれど、確かに流れた。
環はその文字が消えた後も、同じ場所を見ていた。名前が消えても音はまだ残っており、客席の誰かが立ち上がる前の静けさの中に最後の旋律が薄く漂っていた。
景都は隣の空席越しに、環の横顔を見た。彼女は泣いていなかったが、目の奥には強い光があった。喜びだけではない。怖さや実感、疲れなど、すべてを抱えた光だった。
映画が終わり、客席の照明が少しずつ明るくなり、人々が動き出した。椅子のきしむ音、衣擦れの音、低い会話、足元を探る気配。日常の音が戻ってくる中、環は少しだけ席に座っていた。
「立てますか?」
景都が聞いた。
環は小さく笑った。
「たぶん」
「たぶん」
「足が自分のものじゃない感じがします」
「床はあります」
「またそれ」
「今日は特に必要かと思って」
環は足元を見た。床はあった。朝のロビーと同じように。けれど、映画が終わった後の床は少し違って感じられた。
立ち上がろうとすると、膝が少し頼りなかった。景都は手を貸そうとしてやめたのだと、環にはわかった。自分で立てる時間を、彼はまた守ってくれたのだ。
その配慮が今日はとても景都らしかった。
ロビーへ出ると、上映後の人の熱気が広がっていた。誰かがパンフレットを見ている。誰かが感想を小さく話している。誰かが少し黙って歩いている。
環は、その沈黙に耳を澄ませた。すぐに言葉にならない人がいる。映画のあとに、少しだけ黙っていたい人がいる。その中に、自分の音がわずかでも残っていたなら。
それだけで胸がいっぱいになった。
「聴こえましたか?」
環は景都に聞いた。
「何がですか?」
「私の音じゃなくて、観終わった人たちの沈黙です」
景都はロビーを見渡した。言葉にしないまま立ち止まる人、出口へ向かう途中でふと振り返る人、パンフレットを開いたまま動かない人。
「聴こえます」
「よかった」
環は小さく息を吐いた。
「そこに残りたかったんです。音が鳴っている時じゃなくて、終わった後の、言葉になる前のところに」
景都は環を見た。
「残っています」
その言葉は短かったが、環には十分だった。
劇場の外へ出ると、昼を過ぎた東京は少し温まっていた。朝に残っていた雨の匂いはほとんど消え、舗装には乾いた光が広がっていた。車の流れは柔らかく、ビルの窓には晴れた空の欠片が映っていた。
環はしばらく歩道で立ち止まった。映画館の中から外へ出ると、世界が少しだけ大きく見える。何も変わっていないはずの街が、今は自分の音を一度通った後の街に見えた。
「これから、どうしますか?」
景都が聞いた。
環は空を見上げた。
「広場へ行きたいです」
景都は驚かなかった。
「行きましょう」
「仕事は?」
「今日はもう少しだけ、朝比良景都でいます」
環は彼を見た。
「その言い方、ずるいです」
「今日は許されますか?」
「少しだけ」
歩き出すと、街の音が足元から立ち上ってきた。信号の変わる気配、遠くで閉まる扉、誰かの笑い声、乾き始めた植え込みの匂い。映画館を出た後の東京は、さっきまでスクリーンの中にあった静けさを少しだけ引き受けているようだった。
景都は環の隣を歩いた。近すぎず、遠すぎず、肩先の距離。昼の風が入り、影は別々に伸びながら、時折、舗装の上で重なりそうになった。
「環さん」
名前を呼ばれて、環は横を見た。
「はい」
「言いたいことがあります」
「今ですか?」
「今でないと、また言いそびれそうなので」
環の胸が少しだけ高鳴った。歩く速度が自然に落ちたので、景都も歩幅を合わせて緩めた。
「映画を観ている間、ずっと考えていました」
景都は前を向いたまま言った。
「僕はあなたの音を仕事として選んだつもりでした。必要な理由があって、映像に合う根拠があって、責任を持って推したつもりでした」
「はい」
「それは今も変わりません」
環は黙って聞いた。
「でも、仕事として正しいと思ったこととあなたの音に救われたことは別々のものではありませんでした」
景都の声は静かだったが、歩道のざわめきの中でもはっきりと聞こえた。
「分けようとしていました。分けなければいけないと思っていました。でも、今日映画の中で音を聞いて、分けなくていい部分もあるのだと思いました」
環は足を止め、景都も少し遅れて止まった。ビルの影が歩道に落ち、風が通り抜けた。
「それはどういう意味ですか?」
環の声は小さかった。
景都は環を見た。逃げない目だった。
「あなたの音を大切に思ったから、仕事としても雑に扱えなかった。仕事として正しく聴こうとしたから、あなた自身のことも大切にしたいと思った」
環は何も言えなかった。
景都は少しだけ息を吸った。
「好きという言葉だけで言うには、僕にはまだ怖いんです」
その言葉に、環の胸が大きく揺れた。
「でも、あなたの音がない朝を、もうただの朝だとは思えません」
環は目を伏せた。涙が出そうだったけれど、今度は泣くよりも先に笑いたくなった。景都らしい。まっすぐなのに遠回しで、告白の前でもまだ言葉を選んでいる。
「朝比良さんらしいですね」
「褒めていますか?」
「たぶん」
「たぶん」
「でも、私も似たようなものです」
環はゆっくりと言った。
「好きと言うには、まだ怖いです。夢がかなった日の勢いで言ってしまうには、大事すぎる気がします」
景都は黙って聞いていた。
「でも、朝比良さんが聞いてくれない朝は、きっとさみしいです」
その言葉を言うと、心の中の何かが静かにほどけた。好きという言葉ではないけれど、それに近い場所にある本音だった。
景都の表情がゆっくり変わった。嬉しそうで、少し痛そうで、やはり困ったようでもあった。
「それは、かなり」
「かなり?」
「大事な言葉です」
「じゃあ、大事にしてください」
「はい」
歩道の上に短い沈黙が落ちた。車の音が遠くを流れ、どこかで鳥の声がした。東京の昼は動き続けているのに、その一角だけが少しだけ、静止した写真のように感じられた。
環は先に歩き出し、景都も並んだ。言葉はもうなかったが、今はそれでよかった。
中央広場に着くころには、光が少し傾き始めていた。高層ビルのガラスには午後の空が映り、植栽の葉は風を受けて細かく揺れている。ピアノはいつもの場所にあり、そこだけが何事もなかったかのように静かだった。
環はピアノの前で立ち止まった。朝でもなく夜でもない時間。映画を観終えた後でまだ現実に戻りきれない胸のままで、環は鍵盤の前に立っていた。
「弾きますか?」
景都が聞いた。
「少しだけ」
「聴きます」
「知っています」
環は椅子に座った。景都は少し離れた場所に立とうとしたが、環は鍵盤を見つめたまま言った。
「今日は、近くでいいです」
景都は一瞬だけ迷い、それからピアノの横へ移動した。肩先ほどの距離。触れることはできないが、呼吸は届く距離だった。
環は鍵盤に手を置いた。最初に弾いたのは映画の主題ではなく、毎朝の短い旋律だった。それは、自分をずっと支えてきた、そして一度はやめようとした音だった。
そこへ映画の中で育った主題がそっと重なった。朝のための音と映画のための音、自分のために弾いていた旋律と誰かの物語へ渡った旋律が広場の空気の中で静かに重なった。
景都は目を伏せて聴いた。高層階ではなく、同じ地面の上で、ガラスを隔てずに風を同じ高さで受けながら。音は遠くに削られることなく届き、指の震えや息の間もそのまま感じられた。
環は弾きながら最初の日を思い出した。音をやめた朝、景都が初めて広場に降りた日、名前を知らないまま会話をした朝、選ばれる前の雨、映画館の暗さ。
全部が今の音の中にあった。
曲が終わるころ、周囲には少しだけ人が立ち止まっていた。大きな拍手ではないが、自然に拍手が起こった。環は頭を下げる。
景都は拍手をしなかった。手を叩く前に言葉が出た。
「今日も聴けて良かったです」
環は顔を上げた。
「映画より?」
「比べられません」
「逃げましたね」
「はい」
「正直」
「今日くらいは」
環は笑った。今度はちゃんと笑えた。景都もつられて少し笑った。その笑いは広場の風に溶けていった。
夕方の色は、少しずつ街に降りてきていた。映画館から出てから歩いてきた道も、朝に見たロビーも、試写室の暗さも、すべてが遠くなり始めていた。しかし、それは遠くなることで消えるのではなく、胸の中に沈んでいくようだった。
環はピアノのふたに軽く手を置いた。
「私、これからもここで弾くと思います」
景都はうなずいた。
「はい」
「映画の仕事が増えて忙しくなっても、たぶんここに戻ってくると思います」
「その方が、環さんらしいです」
「朝比良さんは、上から聴きますか?」
景都は高層ビルを見上げた。夕方の光を受けたガラスが淡く空を映している。
「最初は、上からかもしれません」
「最初は?」
「そのあと、降りてくると思います」
環は鍵盤へ視線を戻した。
「じゃあ、私は弾くかもしれません」
「軽めの約束ですか?」
「もう少し重くてもいいです」
景都は環を見て、その言葉の温度を確かめるようにすぐには返事をしなかった。
「では、少し重めに待ちます」
「変な言い方」
「すみません」
「でも、嫌じゃないです」
そのやりとりの後、気まずい沈黙が訪れた。しかし、それは気まずい沈黙ではなかった。言葉の後に残る余白を、同じ場所で共有しているような時間だった。
夜に近い気配が広場の端からゆっくり濃くなり、人の流れは少しずつ変わって昼のざわめきが低い会話へと移っていった。植栽の匂いには夕方の湿り気が混ざり始め、舗装の温度はゆっくりと冷め始めていた。
環は景都と並んで広場を歩いた。ピアノから離れても指先にはまだ鍵盤の冷たさが残っており、隣には景都の気配があった。その距離は、近すぎず遠すぎず、しかし以前よりも確かに近かった。
「今日、言えなかったことがあります」
環が言った。
景都は足を止めずに少しだけ顔を向けた。
「聞いてもいいですか?」
「はい」
環は言葉を探した。それは、映画館でも広場でも何度も胸の中に上がってきた言葉だった。言えば何かが変わるかもしれない。けれど、言わなければこの先の音が少しだけ嘘になる気がした。
「私も、救われていました」
景都の歩幅がわずかに緩んだ。
「朝比良さんが聞いてくれたことに。待ってくれたことに。仕事としても、そうじゃないときも」
環は景都を見なかった。見たら言えなくなる気がした。
「だから、これからも聞いていてほしいです」
そう言ってから、胸が熱くなった。好きという言葉ではない。けれど、今の自分にはそれの方が合っている気がした。
景都はしばらく黙っていた。風が並んだ影の間を通り抜け、足元の光を少し揺らした。
「聴きます」
彼は言った。
「仕事として必要なときも、そうではない朝も」
環はようやく彼を見た。
「無理しなくていいですよ」
「無理ではありません」
「本当に?」
「はい」
景都は少しだけ微笑んだ。
「もう、そういう朝のほうが自然なので」
環は返す言葉を失い、代わりに小さく笑った。胸の奥がくすぐったく、少し痛かった。こういう痛みなら音にできる気がした。
日が落ちると、広場の灯りがひとつずつ浮かび上がった。ガラスには濃くなった空が映り、風は昼よりも少し冷たくなった。ピアノの黒い表面には、遠くの灯りが細く揺れていた。
環と景都はしばらくベンチに座っていた。何かを決めるためではなく、今日という日が体に馴染むまで少しだけ時間が必要だったのだ。
「エンドロール」
景都が言った。
「はい」
「名前が流れた時、どう思いましたか?」
環は少し考えた。
「最初は、自分の名前じゃないみたいでした」
「はい」
「でも、そのあと、あの名前まで連れてきてくれた音があるんだと思いました」
「音が」
「はい。最初に広場で弾いていた音、落ちた後にやめようとした音、朝比良さんが待っていた音、全部があそこまで連れてきてくれた気がしました」
景都は静かに聞いていた。
「だから、名前は最後でよかったのかもしれません」
環は続けた。
「名前より先に、音が誰かへ届いていたなら」
景都はその言葉を胸の中で受け止めた。名前より先に音があった。音より先に待つ朝があった。最初からずっと彼らの間には、言葉より先に響くものがあったのだと思った。
「タイトルみたいですね」
景都が言った。
環は少し驚いてから、笑った。
「言わないでください。恥ずかしくなります」
「すみません」
「でも、そうかもしれません」
夜の広場は静けさを増していった。人の数は減り、足音は間隔を置いて通り過ぎる。遠くの車道からは低い響きが届き、植栽の葉が風で小さくこすれ合っていた。
環はベンチから立ち上がった。
「最後に、もう一回だけ弾いてもいいですか?」
景都も立ち上がった。
「はい」
「最後って、今日の最後です」
「わかっています」
「変に深読みしないでください」
「少ししました」
「正直すぎます」
ピアノの前に戻った。夜の鍵盤は昼よりも少し冷たかった。環は椅子に座り、景都は横ではなく少し前方の離れた場所に立った。彼が聴く場所。最初の日から少しずつ変わってきた距離。
環は目を閉じた。今日最後に弾く曲は決めていなかった。映画の主題歌でも朝のメロディでもなかったが、指を置くと自然に音が出た。
それは、広場の夜に沈むための静かな曲だった。映画館の暗さと、エンドロールの名前と、景都の声と、これから先の朝を少しずつ混ぜた音。
景都はその音を聞きながら、初めて上から聞いた朝を思い出した。高層階の窓辺、コーヒーカップ、まだ顔も名前も知らない演奏者、毎朝の音を習慣だと思い込んでいた自分。
今は同じ地面にいる。
その変化が胸を静かに満たした。
環の指は最後に明るすぎない和音を響かせた。それは、希望というには控えめで終わりというには少し温かい音だった。余韻が夜の広場に広がり、やがて車の音や葉擦れの音に混ざっていった。
拍手は景都だけだった。静かな、短い拍手。環は顔を上げた。
「今日も聴いてくれたんですね」
「最初の日から、ずっと」
同じやりとりなのに、今度は笑って言えた。環は鍵盤から手を離し、ゆっくり立ち上がった。
「明日も?」
景都が聞いた。
環は少し考えるふりをした。
「明日も弾くかもしれません」
「では、私も待つかもしれません」
「そこは『待つ』って言い切ってください」
景都は少しだけ笑った。
「待ちます」
環は満足そうにうなずいた。
「それなら、弾きます」
その言葉は約束だった。軽すぎず、重すぎず、日常の中に置けるけれど、簡単には消えない約束だった。
夜風が広場を抜けるころ、高層ビルのガラスには、星の見えない東京の空が深く映っていた。植栽の葉はかすかな音を立て、ピアノの黒い面には、街灯の輪が細く揺れていた。環は、鍵盤から離れたあと、まだ指先に残る冷たさを確かめていた。
景都は隣で何も言わなかった。言葉にすれば今夜の音が少しだけ現実に戻ってしまう気がしたのかもしれない。環もまた急いで何かを確かめようとはしなかった。名前をつける前の感情が静かに呼吸している。
「明日もここに来ますか?」
環が聞いた。
「来ます」
景都は迷わず答えた。
「上からですか?」
「最初は」
「そのあと?」
「きっと、降りてきます」
環は少し笑った。その笑みは夜の光に溶けてすぐに消えたが、景都の胸にははっきりと残った。音と同じように、消えた後から深くなるものがある。
「じゃあ、私は弾くと思います」
「待っています」
今度の「待っています」は、広場の空気にまっすぐ落ちた。重すぎず、軽すぎず、これから何度でも朝に置ける言葉だった。
環はピアノを振り返った。あの日、音をやめようとした場所、誰にも待たれていないと思い込んでいた場所。けれど、今は同じ場所に明日の気配がある。終わりではなく戻ってこられる場所として、そこに静かにあった。
遠くで車の音がほどけ、街の湿り気が夜の底へ沈んでいく。高層ビルのガラスには広場の灯りと並んで歩き出す影が淡く映り、肩先の距離にはまだ風が通るが、その風はもはや隔てるものではなかった。
環の胸にはまだ鳴り終えていない旋律があった。それは、名前よりも先に景都に届き、景都の朝を変え、映画の暗がりを通って知らない誰かの帰り道に残っていく音。夢だけのものではなく、誰かの記憶にそっと残る音。
明日の朝も街はいつものように目を覚まし、ガラスには淡い空が映り、植栽は風に揺れ、広場のピアノは静かに鍵盤を開く。その前に座る環のそばには、きっと聴いてくれる人の気配がある。
だから環は、もう沈黙を恐れない。
鍵盤に触れる前の何も鳴っていない時間さえ、これから始まる音の一部だと知っていた。
-完-




